水と緑と骸骨と(8)
次元はグレーの瞳を持つ男をじっとみつめながら、ソファから立ち上がった。
いつのまにか彼の腕にしがみついていたマリーの手に力が入る。
「中座してすまなかった。私のコレクションは楽しんでくれたかね?」
ダニエル・ブリルは、さきほど地下で聞いた声とはうって変わった愛想の良い声で次元に言った。
「ええ、もちろん。オットー・ゲルステンベルクのコレクションにも匹敵するでしょうね。すばらしい印象派の数々です」
ダニエルは一瞬間をおいて、軽く笑う。
「それは、おだてすぎだよ。堪能してくれたなら、何よりだ。そうそう、うちには今客人が来ていてね、紹介しておこう」
彼の隣にいるグレーの瞳の男をさした。
「シャル・バレイ氏だ。ボルドー大学の考古学の教授で、南米の遺跡の調査などを専門にしておられる。美術史などにも造詣が深くておられるのでね、話のつきない知人だ。教授、こちらは姪のマリーと婚約者のムッシュ・ジゲン」
シャル・バレイと言われた男は、年のころ40半ばくらい。いかにも研究職といった雰囲気であったが、がっちりした体躯をしているのはフィールドワークのためだろうか。
「はじめまして、よろしく」
低いがよく通る声で言った。まぎれもなく、地下で聞いたあの声だ。
次元の帽子の下の目を、じっと見つめたままぎゅっとその右手を握りしめる。
「こちらこそ。お会いできて光栄です、教授」
次元の手を離すと、それをすっとマリーのほうへ差し出す。
マリーは一瞬びくりとするが、気を取り直してその細い手を差し出した。
「はじめまして、マドモアゼル。美しい姪御さんだ。婚約者は幸せだね」
にこりと笑う。
「はじめまして。著書は拝読させていただいています」
マリーは細い声で言いながら顔を上げた。
「おお、私の本を?」
教授は意外そうに笑う。
「ええ、南米の歴史や文化について、教授の本が一番整理されていてわかりやすく、興味深く読ませていただきました」
「それは光栄だ」
やわらかい笑顔を見せても、そのグレーの瞳は冷ややかな印象を残す。彼が一歩マリーに近づくたびに、マリーはぎゅっと次元に身を寄せた。
と、その時、執事がコレクションルームに入ってきた。
「ご主人様、銭形警部がご到着されました」
その言葉を聞いて、次元はまさに心臓が口から飛び出しそうになる。
今朝予告状が届いて、もう銭形の到着か!
ルパン、ちょいと仕事が早すぎたんじゃねぇか。
思わず心の中で悪態をついた。
「そうか、通してくれ」
次元のスーツの下で冷や汗が流れる。いくらなんでもこれはマズい。
その時、彼の腕をぎゅっとつかんでいたマリーの手の力がぬけた。はっと見ると、彼女の体がふらりと倒れこむ。
「マリー!」
次元はあわてて抱きとめた。
「マリー、どうした?」
部屋から出て行きかけたダニエルが振り返る。
「……ごめんなさい、なんだか、泥棒とか警察の方とか、怖くなってしまって……。気分が悪いわ……」
次元に支えられながら、震える声で言ってうつむく。
「そうか、無理もない。隣の部屋で休んでいなさい。マルセル、ムッシュとマリーを案内して」
執事に指示をした。
「ありがとう、叔父様……。警察の方も来て、お忙しいでしょう?気分がよくなったら、マルセルに一言伝えて帰ります」
「わかった、気をつけて」
次元とマリーは執事に案内されて別室へ移動した。
「お嬢様、どうぞここでお休みください。何か飲むものをお持ちしましょうか?」
心配そうな執事が、ソファに横になるマリーをのぞきこむ。
「大丈夫よマルセル。心配をかけるわね」
「いいえ。まったく、物騒な事で……お嬢様が怖がるのも無理ありません。ではなにかありましたら、お呼びください」
執事はため息をついて、一礼して部屋を出て行った。
彼が出て行ったのを確認すると、マリーはすぐに起き上がる。
「ねえ、彼は大丈夫なの!?」
目を丸くしている次元の胸元をつかんだ。
「あ、ああ……」
次元はネクタイピンを持ち上げて口元によせる。
「おい、ルパン。銭形が来てるだろう?見つかっちゃいねぇだろうな?」
「次元、無事か?お〜お、とっつぁん、えらい早い到着だったなァ。もうすぐ俺達がモンテカルロで一仕事する時期だから、近くでスタンバってたんだろう」
気楽な声が聞こえてきて、ほっとする。
「あのなァ、こっちぁヤバかったんだぜ?もうちょっとで銭形とハチあわせするところだった」
「ま、ころあいを見て抜け出してきな」
ケッとつぶやいて次元は通信を切った。ため息をついて、あらためてマリーを見た。
「……メルシー、助かったぜ」
結い上げた髪が乱れかけていて、マリーは髪留めを外してその長い髪をふわりと下ろす。
「あなたが今捕まってしまったら、困るじゃない……」
はずかしそうにうつむいて、つぶやいた。
走った時にできたのか、ストッキングの伝線を気にしてそっと指で触れている。
洒落た装いに、美しく整えたネイルや髪。
普段の彼女の生活で、こんな風に走って逃げ回って髪を乱したり、慣れない茶番をしてみたり、まったく縁のないことだろう。
だけれども。
乱れた髪をさらりと下ろして、ストッキングが破れかけていても、それでも彼女は美しかった。
「……そっちの方が、似合ってると思うがな」
ついつい口走る。
「ええ?」
マリーは何の事かと顔を上げる。
「……髪、だよ。あんたの」
言いながらそっぽを向く次元を、マリーは驚いた顔で見つめて、またうつむいた。
「……こんな時におかしな事を言うのね」
マリーは立ち上がって扉に向かった。執事を呼ぶ。
「お嬢様、何か?」
「だいぶマシになったわ。叔父様は警察の方と?」
「はい、コレクションルームで警備について話し合っておいでです。バレイ様もあちこちの博物館の警備などに詳しいからと同席しておられます」
「……そう、忙しそうね。私たちはこれで失礼するから、叔父様によろしくお伝えして」
「お声はかけずともよろしいので?」
「ええ、邪魔しては申し訳ないから、声はかけないで」
「かしこまりました。お気をつけて、お帰りください」
執事に見送られながら、二人はアストン・マーティンに乗り込む。
「危なかったなァ〜、おい」
後部座席からの気楽な声は、ルパン。
「まったくだぜ!」
次元は怒鳴って車を発進させた。
「どこへ行くの?」
「俺たちのアジトさ」
心配そうに尋ねるマリーに、ルパンは力強く答えた。
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