水と緑と骸骨と(1

 

ジュネーブ国際空港のアライバルゲートに降り立って、次元大介が真っ先にしたことは懐の煙草をさぐって喫煙所に走ることだ。

一服したらタクシーをつかまえて町に行こうと、煙を吐き出して束の間の極楽を楽しむ。

今回はパリからの短いフライトだったからまだマシだが、10時間以上のフライトとなると喫煙者には拷問に近い。

世界中を飛びまわる仕事をしていながら、これだけはどうにも慣れる事ができないのだ。

五右衛門じゃないが修行が必要かもしれないな、と苦笑いをしながらも煙を思い切り肺に吸い込んで、ニコチンが血中にしみこんでゆく感覚を目を閉じてうっとりと愉しむ。

今は新緑の季節。

もうすぐモナコグランプリが始まる。

そして、ルパン一味恒例のモナコ政府観光会議局(S.B.M)とのデートだ。

モナコグランプリの期間、モンテカルロのカジノに準備される金、そして収益金は莫大なものになる。この季節、それをいただきにモナコへ出掛けるのが彼らの年中行事だ。

なのになぜ次元はジュネーブにいるのか。

それは、カジノの大金庫の警備に使われる新しいシステムのプログラムに関係する。

ルパンの調べによると、ジュネーブに本社があるIT企業でそれは開発され、そしてテストを重ねた上、社長自らのチェックをすませ納品されるのが近日とのこと。

そのチェックをすませた最終プログラムを入手するのが、次元の仕事だった。

早くこの仕事を終えて、南へ合流したいものだと思いつつ、血中のニコチン濃度が高まるのを満足げに感じていた。

そんな彼の至福の時を、感情的な話し声が切り裂く。

「電話でも言ったように、あなたとアヌシーには行かないわ」

 女の声とヒールの音が彼の背後で響いた。

「マリー、落ち着いて。大事な話し合いなんだろう?」

 そして懸命になだめすかそうとする男の声。

到着ゲートから出てきた二人はそのまま、煙草を吸っている次元の少し後ろに立ち止まって口論を続けた。

「ええ、大事な話し合いよ。だからあなたと行かない。あなたとは終わったと、伝えたでしょう、フレデリック」

 女の声は強い口調だが、さほどヒステリックではない。

「マリー!誤解だと何度言ったらわかるんだ?きみは、一時の感情で重要な決断をするような女じゃないだろ?」

 どちらかといえば、男がうろたえている様子だった。

「……あなたが大事なスケジュールを開けておいてくれたのはよくわかっているわ。でも、以前にキャンセルは伝えたはずよ。一人でパリに戻ってちょうだい」

「マリー!」

 男は大げさに声をあげた。

次元は短くなった煙草を灰皿に放ってため息をつき、空を仰ぐ。

パリよりもいくぶんかすがすがしい空気に、青くて高い空。

そして封を切りたての旨い煙草。

空港の片隅でそんなものを愉しむことすらままならないとは、まったくせちがらい世の中だ。

「なあ、ムッシュー。俺はフライト中のヤニ切れから解放されて、やっとリラックスしているところなんだ。痴話げんかはよそでやるか、マダムの言うようにとっととデパーチャーゲートにでも行ってくれるかしてくれないか」

 ついつい言いながら振り返り、一応愛想のつもりで肩をすくめたりしてみた。

そしてハッと息を呑む。

 その男は、フレデリック・コルテラ。

 次元がこれから忍び込もうとしている会社の若き社長だった。

 次元のスケジュールは、彼がこのジュネーブを去るのと入れ違いに組んでいたわけだから、ここで鉢合わせるのも合点が行くが、よりにもよって、その痴話げんかに遭遇するとは。

 男は驚いたようなムッとしたような顔で次元を見る。まあ当然の反応だろう。

「ああ、喫煙タイムを邪魔して悪かった。だが、われわれの問題には口を出さないでいてくれないか」

 言葉遣いは慇懃だが、明らかに次元を見下したような口調で言って、また女の方に向く。

「ねえ、フレデリック。われわれの問題じゃなくて、あなたの問題よ。私たちは終わったの。お願いだから、帰って」

 何か言おうとする男を遮って女は静かに言った。

 男は言葉につまって、数秒間黙る。

 決まり悪そうにちらりと次元を見る彼の視線を、次元は真っ向から捕らえた。帽子の下からの次元の視線に男はしばらく対抗するが、結局ふっとその目をそらし、また女を見た。

「……パリに帰ってきた頃に、また連絡する。いつでも時間は空けるから。それじゃあ。……愛しているよ」

男は言って空港の中に入っていった。

 新しい煙草に火をつける次元の耳に、女の大きなため息が聞こえる。

 帽子のつばを上げて、ちらりと女を見た。

 アヌシー湖の、深い緑や青のイメージが頭に浮かぶ。

 そんな瞳の色をしていた。

 すうっとまっすぐな姿勢で首のラインが美しい、すらりとした美女だった。

「……あの、うるさくして申し訳ありませんでした。それに、ありがとうございます、助かりました」

 女は戸惑ったように、それでもじっとまっすぐ彼を見て言った。

 次元は火をつけた煙草を吸い忘れるほどに驚いて、女を上から下まで見下ろす。

 フレデリック・コルテラは有名なエグゼクティブでそして、例によって有名な女たらしでもある。

 モデルや女優やなんかと浮名は絶えない。

 今、目の前にいる女もそういった女の一人なんだろうが、その丁寧で健全な物の言いや、いかにも育ちのよさそうな品の良い身なりが、意外な感じがした。

 そして、あんなふうに下らない痴話げんかを第三者から咎められたりしたら、女はそそくさと去ってゆくものだろうと思っていたのに、彼女は次元に一歩近づいて彼をまっすぐに見るのだ。

「……いや、俺も苛立ってたもんでね」

 言って、煙草の煙を吐き出した。

 女はその場を去る気配はない。

 女は美しかった。

 長いまつげは整えられ、スモーキーな色の瞳を縁取っている。

 蜂蜜色の髪をやわらかく結い上げ、長い首を映えさせていて、その後れ毛は卵型の顔にふんわりとかかっていた。

 うっすらとグロスののった形の良い唇は、少しだけ開いていて何か言いたそうな、不安げな、そんな表情をかもし出している。

 次元は帽子のつばを下げると、壁にもたれかかり煙草を吸い続ける。

 女も同じように壁にもたれかかるのを、視界の端で次元は見とめた。

 煙草を吸うわけでもない。

 そしてちらちらと、彼を見る視線を感じた。

 美しい女は嫌いじゃないが、こういうのは苦手だ。

 吸い終わった煙草を灰皿に放り込むと、荷物を持ってタクシー乗り場に向かおうとする。

「……あの、すいません」

 女は彼を呼び止める。

 次元は足を止めて、ため息をついた。

「……何か用か?」

 つい、必要以上に無愛想につぶやいて振り返った。

 女はやや緊張した面持ちだ。

「あの、もしよかったら、私を助けてもらえませんか。もちろん報酬はお支払いいたします」

次元は、帽子のつばをちょいと動かしてあらためて女を見た。

女はそのまま、じっと彼を見ている。彼の返答を待っているのだろう。

 次元は苦笑いを隠せない。

 S.B.Mとのデートを邪魔しようというのか、この女は。

 しかし、コルテラの女。こうなったら素通りするわけにも行くまい。

 次元はため息をついて彼女の方に向き直り、その、たっぷりと髭をたくわえた顎ですぐそばのカフェを指した。

 不味いコーヒーをすすりながら、次元は女を見る。

 よく手入れのされた肌に髪、美しく整えられエナメルの施された爪。上等で趣味の良い身なり。

 一見して裕福な女であることが見て取れる。

 あまり普段、彼とは縁のないタイプの女だ。

 女は手元のナプキンに何度も触れたり、落ち着かない様子だ。

「……で、あんたが俺に頼みたい事ってなぁ、一体なんなんだ?いい加減に話してくれねぇと、俺も時間が無限にあるわけじゃねえ」

 次元は言って、またコーヒーを一口すすった。

 女は幾度か大きく呼吸をして、そして彼を見上げる。

「私はこれからアヌシーにある亡き祖父の屋敷に行かねばなりません。あなたには、私の婚約者として、そこに同行していただきたいんです。期限はほんの数日で結構ですから」

「……婚約者ぁ?」

 次元は両手を組んで、椅子に大きくもたれかかった。

 空を見上げてまた大きくため息をついて、行儀悪くその長い脚を組んだ。

「あんたの婚約者としてアヌシーに同行する、それだけの事で、さっきあんたが提示した金額がいただけるってのか。それはいくらなんでも上手すぎる話だ」

 次元は言って往来のタクシーやなんかを眺める。

「……その間……もし私に危険が降りかかったら、助けて欲しいんです。祖父の形見の、ある物を無事に相続するまで」

 次元はやれやれといった気分で彼女の申し出を頭の中で反芻した。

 正体のわからない「危険」。

 決して悪くはない報酬の額。

 アヌシーは国境は越えるもののここから車で一時間程度で、ロケーションは悪くない。

 コルテラの女だったら、自分の仕事に役立つ事もあるかもしれない。

 そして何より、湖のような色の目を持つとびきり美しい女。

 こんな胡散臭い仕事を受ける自分ではないはずだが、頭の中にはすっかりアヌシーの湖と美しい街並みが浮かんでいた。

 思わず苦笑いをする。

 まったく男って奴は仕方がない。

 

 

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