水と緑と骸骨と(2)
「で、あんたに降りかかるかもしれない危険ってなぁ、一体何なんだ?」
次元は椅子の背もたれから体を起こして聞いた。
「……それは、あなたが引き受けてくれるっていうのでないとまだ話せません」
背筋をぴんと伸ばしたまま言う。
次元は肩をすくめて、また背もたれに体を預けた。
「どんな危険と対峙しなきゃなんねえのかも知らずに引き受けろってのか」
「そのあたりのリスクは報酬金額に反映させたつもりです」
言って、女はやっとコーヒーに口をつけた。
次元はため息をつく。
「……仕事を引き受けるにあたって、一つ条件がある」
「条件って?」
「それは、俺とあんたの契約が成立した後でないと言えねぇな」
次元はにやっと笑った。
女は目を丸くしてしばらく困ったように目を伏せるが、くくっと笑った。
初めて見せた笑顔は、案の定、子供っぽくて愛らしいものだった。
女の話はこうだ。
彼女の名前はマリー・ブリル。
パリで成功を収めている銀行家の娘だ。
そして彼女の父の血筋はアヌシーの旧家で、春に祖父が死亡している。
その遺産相続の件で、彼女は父親の代理でアヌシーに来ることになったのだという。
そして彼女の恐れる「危険」とは何か。
父親の弟、つまり叔父にあたるダニエル・ブリルとその息子クロードだ、という。
祖父が死んでから、それまで疎遠だったのにやけに彼女に接触を図るようになってきている。そして祖父の遺産である、「ある物」について頻繁に話題にするようになったというのだ。おそらく彼女が相続することになるであろう、「ある物」を。
ダニエル親子は地元での祖父の事業を継ぎ成功を収めている資産家だが、マリーが言うには非常に悪い評判のある男なのだそうだ。
「……そんなにヤバそうなら、親父さんに相談してなんとかしてもらったら良いだけの話じゃねぇのか?」
次元が言うと、マリーは不愉快そうな顔をして窓の方を見た。
「……空港で彼を、見たでしょう?私は彼と婚約を考えていて、以前から父にも話していたのだけれど、父はずっとあまり良い顔をしていなかったんです。それで今回は良い機会かもしれないと思って、アヌシーには彼に一緒に行ってもらうことにしていて……」
「ところが男が浮気でもして別れる事になったってとこか」
マリーは改めてムッとした顔で次元を見て、また視線をそらす。
「そんなところ」
「親父にも頭を下げられない、男の浮気も許せない、そして金に物を言わせて、見知らぬ男を雇うのか」
次元はカップのコーヒーを飲み干した。
マリーはハッと戸惑った顔で彼の方に視線を戻す。
そして、また背筋を伸ばしてまっすぐ次元を見た。
「……そう、そんなところ」
次元はふっと笑ってカップを置いた。
心の中では震えながら、それでも意地を通し続ける女っていうのは苦手だ。
しかし嫌いではない。
「俺は次元大介。婚約者らしくして、好きなように呼ぶがいい」
「……ありがとう、ジゲン」
マリーはほっとしたように息をついてグラスの水を飲んだ。
数十分後、二人はジュネーブのコルテラソフトウェア社の前でタクシーから降りた。
「アヌシーからの迎えの車には少々待ってもらわねぇとならねえな」
「……それはもう連絡したから良いけれど……」
マリーは落ちつかない様子で次元を見る。
そこには金茶色の髪の青年。
次元大介の見事な変装である。
「グラビアモデルを口説き落とす社長に見えるか?」
「あんまりそっくりで、ひっぱたきたくなってきてしまうわ」
マリーのまじめな顔での返答に、思わず次元はくっくっと笑う。
「いや、それは勘弁してくれ」
「ねえ、冗談は置いといて、一体どうするつもり?彼になりすまして本社に来るなんて」
心配そうな顔でフレデリックに扮した次元をのぞきこむ。
「あんたの依頼を引き受ける条件さ。俺だって用もなしにジュネーブくんだりに来てるわけじゃねぇ。依頼を引き受ける前に俺の用事をすませたい。あんたがちょっと手伝ってくれたらあっという間にすむ」
次元はきゅっと背筋を伸ばし、窓ガラスに映った自分の姿を改めてチェックする。
「手伝うって?」
「一緒に来てくれるだけでいい。ここには来たことはあるんだろう?」
「それはあるけれど……。一体何をするつもり?」
あいかわらず怪訝そうに眉をひそめて彼に問う。
「ちょっとしたデータをいただくのさ」
「……あなた、もしかして産業スパイ?」
「惜しい、ちょっと違うな。世界一のガンマンでかつ、世界一の大泥棒の相棒をつとめる男さ」
次元はわざと大げさな身振りでおどけて言った。
「ええ?まあ……っ」
マリーは湖の色の目を大きく見開いて改めて彼を見上げる。しばらくして、ぷっと吹き出す。
「それは、ものすごくエキサイティングね」
おかしそうにくっくっと愛らしく笑う。
次元も優男のマスクで満足そうに笑った。
マリーは笑いながらも呼吸を落ち着け、ふっとまたまじめな顔をして言う。
「……でも、あなたがそのデータを持ち出してもしあとでバレて、彼の留守中の社員の責任になったらそれは気の毒だし、私は手伝う事は気は進まないわ」
次元はまた背筋を伸ばし、マリーの目をじっと見た。少し考える。
「データ持ち出しの証拠は残さないし、データを対外的にもらすわけでもない。そのプログラムを使った警備システムがいくつか、役立たずになるだけだ。だから責められるとしたら、プログラムを最終チェックしてリリースにゴーサインを出した男前さ」
「……本当?」
マリーは一歩彼に近づいて、ゆっくり言う。
「ああ。もし信じられなくなったら、途中で俺の顔をひん剥いて、非常ベルでも鳴らすがいい」
言いながら、まったくいつもの自分らしくないと、苦笑いをする。そもそも仕事に素人の女を使うのも特例だし、しかもこんな青臭い事を言ってしまうなんて。
煙草が吸いたくなって、右手がジャケットの内ポケットに伸びる。
と、マリーの手がするりとからんでそれを止めた。
「彼は職場では吸わない。……さっさとすませましょう」
そのまま腕をからめて、次元を正面玄関に促した。
玄関から入ると、さっそく受け付け嬢が二人を見止めた。
「あら、社長さきほどの会議の後はオフだったのでは?」
「空港で忘れ物に気づいてね」
コルテラに扮した次元は階上を指差し肩をすくめて見せた。
二人エレベータに乗る。
「どこに行くつもりか知らないけれど、この先どうなってるのかはわかってるの?」
「心配ありがとうよ。どの道、こういうやり方じゃねぇが忍び込む予定にしてたんだ。知らねぇ訳ないだろう?ま、今回は効率よくやらせてもらうがな」
次元は4階で降りて、エレベータを乗り換える。
「ラボへ行くのね?」
「最新のデータをいただくんだ。当然さ」
「でもここから先のエレベータには……」
次元はさっと人差し指を鼻の前に立てて、マリーの声を制した。
「おや、社長、おでかけだったのでは?ああ、ブリル嬢もご一緒で」
ラフな格好で首からカードをかけた30代半ばくらいの男がにこやかに声をかける。
「お久しぶりです、カッセル主任。彼ったら、なかなかオフのモードにならないんですよ」
マリーは次元によりそって、カッセルという男に笑顔を向けた。
「もう一度チェックしたいところがあってね、気になって戻ってきた。もう帰るところかい?」
男はたいして驚きもせずに肩をすくめる。
「社長がチェックをするというのに、帰れますか。ラボへ行くんですよね」
カードを通して階上に向かうエレベータを呼んだ。
あっというまにやってきたエレベータに3人は乗り、最上階に向かう。
エレベータを降りてしばらく歩くと、ものものしいドアと窓口が現れる。
「……前にも一度来たけれど、ここはなんだかいつも緊張してしまいますね」
マリーは大きく息を吐いて、カッセルに携帯電話を差し出した。
「ああ、どうも、マドモアゼル。ここは社長以外は何人もいかなる通信機器も禁止ですからね。ご配慮ありがとう」
カッセルはマリーの電話を預かると、窓口の女性に預けた。
「……バイオメトリクスよ、どうするの……?」
歩きながらマリーは心配そうに次元にささやく。
「……いちいちうるさいな、黙ってろ……いや、にくたらしい男前をひっぱたいてくれ」
「ええ?」
「いいからはやくしろ」
次元はいらだたしげにささやいた。
マリーの平手が次元の頬に飛んだ。
「……おい、マリー、僕は何も女からの電話なんか……」
豪快な音に、カッセルも窓口の女も驚いて振り向く。
「携帯をさわったからって、何も女からの連絡を待ってるなんてわけないだろう」
痛そうにほほをさすりながらマリーを見る。
「信用できないわ、あなたがこの間、彼女と二日もミラノで過ごしていたのを私が知らないとでも思ってるの?」
「やめないか、マリー。誤解だって言ってるだろう」
アタッシュケース片手に、痛そうにほほをさするあわれな上司を尻目に、主任は茶目っ気たっぷりにバイオメトリクスキーのボックスへ行って、手首を差し出した。
「早いとこ仕事をすませて、二人で楽しい休暇に入ってくださいな。」
ラボの扉を開けて、二人を中に招き入れた。
「早くすませてきて」
マリーの心からの声が、次元の背中を押す。
「今、デモで動かしている端末はあるか?」
「社長、こっちで立ち上がってますよ。ご覧になりますか?」
中の研究員が手を上げて、一つの端末を指した。
「ありがとう、見せてもらう」
次元は堂々と指定された端末に向かう。
モニターではけたたましいまでに数字が流れていた。
ちらりと周りを見渡すが、社長の集中を欠かそうという社員はおらず、皆それぞれの作業に没頭していた。リリース前はいつも集中力が勝負だ。
次元はさっと媒体を差込、キーボードを操作してプログラムを読み込み、ダウンロードを始める。データ読み込みのバーが延びるのをイライラしながら見て、ふと振り返ると、マリーが不安そうに彼をみつめていた。
不機嫌そうなバカ女の顔をしてろよ、といちいち言ってこなければならないのか。次元はため息をつく。
ダウンロードが終わるとすばやく媒体を抜き取り、もとの画面に戻した。
「うん、やはり問題ないね。みんな、これで頑張ってリリースしてくれ。くれぐれも障害は出さぬように」
次元はにっこりとラボの全員に向けて手を広げた。
ラボからは拍手が飛んで、彼はカッセルに目配せした。
「悪かったね、カッセル。休憩に行くところだったんだろう?」
「お気になさらず。ついでだ、もう一仕事していきますよ。ここへの出入りは面倒くさい」
マリーは困ったように次元の顔を見た。
「……なんだ、つれない男だな。ここから外への道のりは長い。その間、また僕が彼女にひっぱたかれそうになったら、その時こそは彼女の手を止める役を、是非きみにお願いしたいのに」
カッセルはおかしそうに笑った。
「確かに。しかし、社長の悪いクセを止める役にでも雇っていただいた方が、結果、平和かつ効率的じゃないかと思いますけどね」
言って、カッセルはラボの扉を開けた。
To be continued >>next