● 夢一夜(3)  ●

「今日の担当の看護師さん、新人さんなんだよね。検査室の場所、まだ覚えてなかったみたいだったから、今日、僕が全部案内してあげたよ」

 この日、精市はデイルームで武田健太郎の勉強を見ていた。
 あいかわらずの生意気な物言いに笑いをこらえながら、彼の解答をチェックする。

「健太郎くんは何でも知ってるからね」

 健太郎のノートにいくつか赤を入れて、彼に示した。
「答えは合ってるよ。でももし塾で習ってたら、こっちの式を使った方がいいんじゃないかな。中学レベルになるけど……」
 精市が説明をすると、健太郎は眼鏡の奥の大きな目を輝かせた。
「あっ、そうか! うん、それ習った気がする。学校とか院内学級だと、こっちの解き方しか教えてくれないんだ。さすが幸村さんだなあ」
 嬉しそうに、新たな解方を鉛筆でノートに書きとめた。
「健太郎くんは頭がいいから、きっと受験も余裕じゃない?」
 精市が言うと、健太郎はふっと難しい顔をする。
「……でも受験て、寒い時期でしょ? 僕、暑いのもダメだけど、冬は特に具合悪くなっちゃうんだよね。温度差がダメなんだ。もう少し大きくなってもう一度手術すれば、もっと元気になれるらしいんだけど、まだ体が小さいから手術できないんだって」
 心臓の悪い子供は、その心臓の働きに合わせて体が小さいのだと、入院してみて初めて精市は知った。
 健太郎は弱い心臓と、小さな体で、毎日必死に過ごしている。
 それを改めて思い知らされ、精市は自分の胸が痛んだ。
 何て言ったら良いのか、わからない。
 すると、健太郎は顔を上げてニカッと笑った。
「ごめん、幸村さんも難しい病気で、手術するんだよね」
 精市は、この小さな少年が自分に気遣って、そして笑う事に驚いた。
 そして、一瞬自分が恥ずかしくなった。
「……バカだな、ごめん、なんて言うな。僕は手術は初めてだから、手術の事は健太郎くんにいろいろ教えてもらわないといけないし、頼むよ」
 精市が言うと、健太郎は嬉しそうにうなずいた。
「そういえば、さん、今日からリハビリって言ってたね。張り切ってるんだろうな」
 健太郎はノートやテキストを片付けながら言った。
「そうだね、彼女は後は良くなるばかりだからね」
「……僕もあんな風に生まれたかったな」
 健太郎は僻む風でもなく、本当に素直な感じに言った。
 彼女のすらりとしていながら引き締まった健康的な体、そして太陽を思わせる笑顔は、彼にまっすぐな元気を与えているのだろう。精市も彼の気持ちはよく分かった。ただ、精市は、彼女のようになりたいというより、自分自身胸を張って彼女の隣に立ちたいと、そんな気持ちなのだけれど。
 精市が自分の筆記用具を仕舞おうとしていると、ちょうど中央のエレベータからが降りて来た。
 めざとくそれを見つけた健太郎が、大きく手を振る。
さん! リハビリどうだった!」
 彼の声で、はゆっくり二人のいるテーブルにやってきた。
「うん、これからやる事いっぱい」
 そう言って微笑むのだが、その表情はどこかしら浮かない感じで、精市は不思議に思った。
「……そうなんだ、担当の先生は誰だった?」
「村上先生よ」
「あ、あの先生ね、怖そうな顔してるけどすごく優しいし、トレーニング教えてくれるの上手らしいよ。僕の友達も担当だった」
 彼女のそんな雰囲気を感じ取ったのか、健太郎はやけに元気良くまくしたてる。
 は彼の言葉に笑ってみせ、担当の先生の話などをしばらくしていた。
 健太郎は精市とを交互に見て、そしてまたちらりと精市を見ると、勉強道具を入れた鞄を手にした。
「じゃ、僕、そろそろ検査があるから部屋に戻るね。幸村さん、どうもありがとう」
 そう礼儀正しく言うと、二人に手を振った。
 二人になると、の顔からは、ふっと笑顔が消えた。
「……リハビリ、難しかった?」
 精市は思い切って、切り出す。
「……難しいっていうんじゃないけど……」
 はゆっくりと左腕の装具を外した。
 その細い腕の傷跡にはテープがほどこされてある。
「靭帯がきちんと着くまでこうやって固定してないといけなかったから、なかなかまっすぐ伸びないし、これ以上曲げられないの」
 彼女の腕は、90度よりちょっと緩い角度で固定されていた。そこから動かす事が、どうやら困難らしい。
「こういう怪我でこういう手術したら、勿論みんなこんなものらしいんだけど、私が……思っていた以上に動かないから、びっくりしちゃった。筋肉も……落ちちゃったし」
 言いながら腕を少し動かしてみては、顔をしかめて、また装具を装着した。
「装具外したばかりで簡単に動くはずないよって、先生は笑うけど……やっぱりちょっとショックだったなあ」
 は眉をひそめたままため息をついた。
「あ、ごめん、幸村くんにこんな事……」
「いいよ。僕も手術が終わったらしばらくはリハビリだ。きっと、焦ってしまうんだろうな」
「……うん、そう、なんか焦ってしまうの……」
 は右手を胸の前でぎゅっと握り締めた。
「ロードレーサーは上半身の筋肉もすごく重要だから、すごく頑張って筋トレもしてたのに、こんなに落ちちゃって……またちゃんと戻るのか不安だし。それに、また走れるのかなあって」
「……体が戻ったら、走れるようになるんじゃないのかい?」
 彼の言葉に、はうつむいてなんとも言えない辛そうな顔をする。
「うん、後遺症も残らないみたいだし、すぐ走れるようになるって先生は言ってた。でも……私……今でも時々、下りのコーナーでリアタイヤが滑って落車する瞬間を思い出すの。滑って、ガードレールにつっこんで頭からはね飛ばされて……死ぬのかと思った。私は下りでも思い切り漕いでスピードに乗せて滑るようにクリアして行くのが得意で、ずっとそれでタイムを縮めてたんだけど、復帰して同じように走れるのか、不安。事故を思い出して、下りが怖くなったりしないか、それが不安……」
 うつむく彼女の隣で、精市は何も言わずじっと彼女を見ていた。

精市は心の中で、自分はだめな男だな、と思う。

 は自分と違って、すぐに治る怪我だ。あとはリハビリだけで、希望が一杯で、きっとこれからの事への不安なんてみじんもないに違いないと、勝手に思っていた。
 形は違えど、不安がないはずないのに、どうしてわかってあげられなかったのだろう。
 そっと彼女の背中に手を当てる。
 は一瞬驚いた顔で彼を見上げた。
「そうだね、僕はさんみたいに事故をしたわけでもないし、怪我をしたわけでもないけど、呼吸が苦しくなって人工呼吸器をつけられた時の事を思い出すと、怖いよ。また病気が悪くなってあんな風になるのかと思うと、怖い。それに僕はテニス部の部長だけれど、手術が終わってリハビリを終えて、そして前と同じようにプレイできるようになるのか、皆を率いて行けるのか、ずっと……ずっと不安だよ」
 精市はゆっくりかみ締めるように、自分に言いきかせるように言った。
 彼女に何て言ったら良いのか、わからない。
 大丈夫だよとか、良くなるよ、なんて無責任な言葉を精市は言いたくなかった。
 ただの、不安で焦る気持ちを、きっと自分も近い形で理解しているという事を伝えたかった。
 はうつむきながらその言葉を聞いて、そして心持ち、彼によりかかる。
 精市は今まで女の子とこんな風に触れて近づいた事はない。
 普段だったら、もっと緊張するだろう。
 でも今は、まるで身体を寄せ合って嵐をやりすごす小鳥のような気分だった。
 何をしても嵐は止むわけではないけれど、でもそっと触れたお互いの体温は気持ちを落ち着かせる。おそらくも同じ気持ちだろうと、なぜか精市は確信を持った。

 その時、の名を呼ぶ看護師の声が聞こえた。
 二人はあわてて体を離す。

ちゃん、リハビリ終わった? あのね、リハビリの後に髪を洗ってあげるって約束してたんだけど、ごめん、緊急入院の子が来るらしくて、ちょっと無理そうなの。明日の担当さんに言っておくから、今日は我慢してもらえる?」

 あわてた様子の看護師は、申し訳なさそうに口早に言った。

「……あ、はい、いいですよ」
「本当にごめんねー」

 看護師は言うと、頭を下げてまた忙しそうにデイルームを去って行った。
 はその後姿を見送りながら、ふうっとため息をついた。

さん」

 精市の静かな声に、ははっと振り返る。

「よかったら僕が髪を洗ってあげるよ」

 彼がそう言うと、は目を丸くして、そして少し顔を赤らめた。
「ええ! そんな、いいよ。悪いし、それに、なんだか恥ずかしい!」
 精市の予想通りの反応だった。

「僕、明後日が手術だからね、しばらくはさんに何も手助けをしてあげられないんだ。手術の後は少しの間、さんに助けてもらわないといけないかもしれないし。だから今のうちに、さんに何かしてあげたいんだよ」

 精市が一言一言丁寧に言うと、はそんな彼をじっと見て、そしてまた恥ずかしそうにうつむいた。



 洗面所の洗髪台の前にを座らせると、精市は彼女の首まわりにタオルとケープを巻いた。
「……幸村くん、人の髪を洗ったりした事あるの?」
 はまだ恥ずかしそうに、精市の準備を見ていた。
「おばあちゃんが入院した時にね、何度か洗ってあげた事があるんだ。上手だって言われたから、安心して」
「ううん、心配はしてないけど。……男の子に髪を洗ってもらうなんて初めてだから」
 精市は笑って鏡越しに彼女を見た。
「僕もおばあちゃん以外の女の子の髪に触るなんて初めてだから、少し恥ずかしいよ。でも大丈夫、まかせておいて」
 精市はそう言うと、彼女に洗髪台に向かってうつむくよう促した。
 の、肩より少し長い髪をシャワーでゆっくり濡らし軽く洗い流すと、シャンプーをつけて丁寧に洗って行った。
 彼女のうなじは、他の部分の肌より少し白くてとても滑らかだった。
 髪の生え際や後頭部の部分を丁寧にマッサージするように洗っていると、白いうなじが心なしかピンク色に染まってきたような気がする。
「お湯、熱くない?」
 シャンプーの泡を洗い流しながら、彼は尋ねた。
「……うん、大丈夫」
 は小さな声で答えた。
 トリートメントを洗い流すと、タオルで髪を拭いて、そしてドライヤーをかけた。
 の髪は柔らかくて、とてもサラサラしている。
 髪を乾かされている間、は目を伏せて、鏡越に精市と目が合わないようにしている。
 顔が少し赤いまま。
 精市はがうつむいているのを良い事に、ドライヤーをつかいながらそんな彼女をじっと見ていた。
 ドライヤーを片付けて、ブラシで髪を整えると、精市はケープやタオルを畳んだ。
「はい、おしまい」
「……」
 は恥ずかしそうな顔のまま、精市を見上げると、くすっと笑う。
「ありがとう、すごくさっぱりした。幸村くん、本当に上手ね」
 右手でくしゃっと髪を触って、嬉しそうに言った。
「そう言ったでしょう」
「……幸村くんの手術終わったら、今度は私が幸村くんの髪を洗ってあげる」
「なんだか恥ずかしいな」
 精市が言うと、はおかしそうに声を上げて笑う。
 の笑顔を見ると、自分は本当に幸せな気分になるのだと、精市は改めて気付いた。

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2007.6.8

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