● 夢一夜(4)  ●

 明日は関東大会の決勝、そして同時に精市の手術日でもあった。
 この日の午前中、精市は入浴をしたり手術後に使用する物品をそろえたり、スケジュール通り淡々と過ごしていた。
 しかし自室のベッドに腰掛けて、担当看護師から手渡されたオリエンテーションの用紙を眺めていても、頭に思い浮かぶのは試合の事や自分の手術後の様々な課題だったり、なかなか目の前の事には集中できなかった。
 用意した物品を床頭台の中に仕舞って、カレンダーを見る。
 何度確認をしても、明日は手術日、そして関東大会の日。
 部員達が相手チームと戦う間、自分は自分自身と戦うのだ。
 先日、頼もしい副部長は、全国まで無敗で勝ち進むと精市に改めて誓ってくれた。
 部員達は、今更精市を励ますような事を言ったりしない。
 ただただ、「無敗で帰りを待つ」との誓いを立てただけ。
 けれどそれが、彼らが精市に対して何より力になれる事なのだと、精市にも部員たちにもわかっていた。
 だからどんな言葉よりも、副部長からの勝利の報告はいつも彼に力を与えた。
 じっとカレンダーを見つめていると、扉をノックする音が聞こえた。
 精市はゆっくりと立ち上がり、病室の入り口に向かう。
 扉を開けると、そこにはがいた。

さん……」

 精市は思わず声を上げた。

「……明日、手術よね?」

 はかしこまったように言う。
 見ると、の左手に装具がなかった。
「うん、そうだよ。準備も一段落したところ」
 彼がそう言うと、は彼を見上げて笑った。
「そっか、手術の前の日は忙しいよね。あの……昨日……」
 そして少し言葉を選びながら、切り出した。
「……なんだか幸村くんに、思い切り愚痴みたいな事をいろいろ言っちゃって、ごめん。ごめんっていうか……聞いてくれてありがとう」
 精市はゆっくりと話す彼女の言葉を、丁寧に受け止めた。
 の言葉も、声も、彼にとってとても心地よい。
 乾いた土に水が染み込んでくるようだ。
「……幸村くん?」
 頭の中で彼女の声と言葉を反芻して沈黙したままの彼に、が心配そうに声をかけた。
 精市はあわてて、彼女に微笑む。
「いいんだよ、聞くだけで何もできないけど。僕もさんに『不安だよ』って一言話して、とてもすっきりしたから」
 精市は自分が思わず彼女を『さん』と名前で呼んでしまった事に気付くが、彼女は特に気にする風でもなくにこっと微笑んだ。
「幸村くんは、聞くだけじゃなかったじゃない。髪を洗ってくれたでしょう。何て言ったらいいんだろ……」
 は少しうつむいてから、また彼を見上げる。
「心と体はつながってるから」
 真剣な顔で彼を見上げていた。
「うん?」
 精市は彼女の言葉の意味を聞き返そうと、彼女に続きを促した。
「……幸村くんが丁寧に私の髪を洗ってくれて……とてもすっきりして気持ちよくて、そういうのがね、私の……焦ったようなイライラしたような不安な気持ちをやわらげてくれたの。私、今まで……先生や看護師さんがどんなに親切にしてくれたって、私の腕がすっかり元通りにならなきゃ、この不安な気持ちやなんかはどうしようもないって思ってたけど……それだけじゃないんだなあって、昨日、分かった」
 は照れくさそうに言いつつも、精市をじっと見つめる。
 の言葉は、まるで果てを知らないようにどんどん精市に吸い込まれてゆく。
 鉢の植物が水を吸収して生き生きと甦るように、それは精市の血流とともに体中をめぐった。
 二人、何も言わずじっとしていると、不意に廊下に放送が響き渡る。
 昼食の準備ができたという、病棟詰め所からの放送だ。
「……ああ、お昼ご飯の時間だね、行こうか」
 精市はを促した。
「幸村くん、胸の手術だけど今日もご飯食べられるの? 私は腕だから、晩御飯まで食べられたけど」
「うん、僕も晩御飯まで食べていいんだって」
 話しながらデイルームに向かった。
 いつものように、の分のトレイも取ってテーブルにつく。
「……腕の装具、もうつけなくてもいいの?」
 精市は先ほどから気になっていた事を尋ねた。
 は、その、右手よりも心持ち細い左腕をゆっくりかすかに曲げ伸ばししてみせた。
「だるさや痛みがない時は、外しててもいいんだって。で、日常生活の事で少しずつ使って動かしていきなさいって言われた」
 そして嬉しそうに精市を見る。
「……無理したわけじゃないけど、暖めたりしながらちょっとずつ動かしたらね、昨日装具を外した時より大分曲がるようになったの。ほんのちょっとだけど……やっぱり嬉しい」
 精市はそんな彼女を見ながら、ゆっくりと食事をした。
 病気になってから、いろいろな人が精市を支えた。
 家族、医師、看護師、真田を始めとするテニス部員たち……。
 勿論、誰もがそれぞれに彼の力になってくれており、誰が一番だとか、そんな順序などない。
 けれどの存在は、今までにないものだった。
 励ましあったり、そんな事をするでもない。
 ただ、お互いのありのままを触れ合うだけ。
 それだけの事が、こんな風に心に響くのか。
 精市は、一昨日ここでと会って話す機会を得た事に感謝をした。
「幸村くんは明日手術で、幸村くんのところのテニス部は明日、確か試合なんだよね?」
「そう、関東大会の決勝なんだ」
「みんな張り切ってる?」
「ああ、僕が復帰するまで、一敗もしないと誓ってくれてるチームなんだ」
 精市が言うとは目を丸くする。
「すごいね。シンプルな言葉だけど、敗けないって誓うのはすごく勇気と力の要る事だから」
 感心したように、嬉しそうに精市を見た。
 なぜだかふと、精市は、そう遠くない将来にに自分のテニスを見て欲しいと思った。
 自分が勝つところを見て欲しかった。



 午後になると、はリハビリに、そして精市は家族とともに手術説明にとそれぞれスケジュールが忙しい。
 デイルームの隣にある、インフォームドコンセント用の小さな部屋で精市は医師の説明を聞いた。
 全身麻酔によるリスク、手術の手順、どんな傷ができるか、手術後にどのような合併症が出現するのか、手術による効果云々……それまでにも聞いていた事を、あらためて詳細に説明され、そして承諾書が彼の前に置かれた。
 精市が静かに肯くと、家族がそれにサインをした。
 

 一旦帰宅する家族を見送りに精市も正面玄関まで出てきて、そしてふと空を見ると大きな太陽がゆっくりと沈んでゆくのが目に入る。
 先日、真田弦一郎達と見た屋上からの夕焼けを思い出す。
 彼はゆっくり病院内に戻り、1階の「理学療法室」の前で足を止めた。
 通り過ぎようかどうしようか一瞬迷っていると、中の廊下を通ってが出てきた。

「あれ、幸村くん、どうしたの?」
「手術説明があってね、家族が来てたから見送って来たところなんだ」
「あ、そうか、前日だもんね。手術説明って、おっかないよね、これこれこういう危険性は5%の確率でありますとかね、思いつく限りの悪い事全部聞かされるんだもの」
 の言葉に、精市はくすっと笑った。
「そうだね、うちは僕よりも母親の方がびっくりして心配してたみたいだよ」
 二人は歩いてエレベーターホールへ行った。
さん……ちょっと、屋上まで行かない?」
 エレベーターを待つ間、精市はに申し出た。
「うん、いいよ。どうしたの?」
「この前、屋上から夕焼けを見たんだけど、なかなか良い眺めだったんだ。屋上行った事ある?」
「ううん、ないの」
 やってきたエレベーターに乗り込むと、精市は最上階のボタンを押した。

 最上階から屋上への階段を上がり、外に出るとちょうど目の前には見事な夕焼けが広がっていた。
 目を丸くしているを、精市はいつも真田弦一郎と座って話をするベンチに促した。

「うわ、きれいね。ここ、初めて来た……」
「いつも部員達が見舞いに来てくれると、皆騒がしいから、ここに来て思う存分話すんだ」
 精市はいつものその楽しい時間を思い出しながら、を見た。
「……さん、手術の前の日ってどんな感じだった?」
 彼が尋ねると、は背筋を伸ばして改めて精市を見た。
「私は……そうね、とにかく肘が痛かったし、手術しないと治らないし、でも怖いし……なんでこんな怪我しちゃたんだろう、どうして落車しちゃったんだろうって、ぐちゃぐちゃ考えて……実はベッドでめそめそ泣いてたの」
 恥ずかしそうに言って笑った。
「手術室に行く直前まで、手術嫌だなあなんて思って、どうしようもなかったなあ、私。ごめん、幸村くん、手術の前の日なのにこんな参考にならない事しか言えなくて」
 精市は笑った。
「ううん、参考になるよ。さんでもそうだったんだね。僕も……さっき承諾書にサインした時、まだ胸の中はもやもやしたままだったよ」
 は黙ってうなずくと、また夕焼けを見上げた。
「僕は……手術が終わったら絶対にやりたいと思う事があって。それは、必ずテニスに復帰して、そして部員達と全国大会を戦うって事なんだ」
「うん」
 は嬉しそうな顔で力強くうなずいた。
「でも、もうひとつ増えた」
 の顔をじっと見ながら続ける。
さんが自転車で走るところを見たい。そして、僕も一緒に走ってみたいよ」
 は背筋を伸ばしたまま、少し驚いた顔で精市の目を見つめ返した。
 青空と共存していた夕焼け空は、今はすでに赤一色。
「……私も、幸村くんがテニスをするところ、見たいわ」
 彼女の言葉を、精市は何度も何度も頭の中で繰り返す。そしてゆっくり嬉しそうに笑った。
「今日ね、リハビリ室の先生に宣言したの。私の今一番の目標」
 はきりりと精市を見つめて言う。
「目標? レースに復帰する事?」
「ううん、それはもう少し先の目標。一番最初に達成したい目標はね、幸村くんの手術が終わったら幸村くんの髪を洗ってあげられるようになる事。それができるように、リハビリしておくから」
 はそう言うと、左手をゆっくりと動かしてみせる。
 今度は精市が驚く番だった。
 そして二人、顔をあわせてくすくすと笑う。
 夏の間に一緒に走れると良いね、と彼女は言って、そして二人は黙って沈む夕日を見つめた。
 精市は自分の中の、もやもやしたものがいつの間にかなくなっている事に気付いた。
 精市とは、傷ついた羽を木陰で休める二羽の小鳥だ。
 そして羽の傷を治す時間は、神様がくれた休暇なのだろう。
 それは精市らしくない牧歌的すぎる発想だったが、思いのほかしっくりとくる。

『迷いはないかい?』

 そう自分に問う。

 明日の手術は迷う事なく受ける事ができるだろう。

 それが自分の中から出てきた答えだった。
 精市は、そっと隣の少女の手を取り、立ち上がった。
 彼女はまるでそうする事が自然であるように、彼の動きに沿う。

 明日になって手術が終われば。
 すぐにでも彼女と、二人で走り始める事ができる。
 二人の夢に向かって。

(了)
「夢一夜」


<注>
 幸村精市の罹患している病気は、原作で「ギランバレー症候群に酷似した、免疫系の疾患」と記されています。この記載と原作での治療展開に近似したものとして、本作では病名は作中に出していませんが、彼の疾患を「重症筋無力症」と仮定し、そして彼が受ける手術を「胸腺摘出術」と設定しています。この点につきまして、原作の設定を若干逸脱していますがご了承いただければ幸いです。
 尚、上記の疾患と治療については、以下のサイトを参考にさせていただきました。

「名古屋市立大学第二外科 医療のページ 重症筋無力症」
http://www.med.nagoya-cu.ac.jp/surg2.dir/mg/index.html

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