精市の個室に戻ると、彼はベッドに腰掛けた。
彼が検温のたびに答えなければならない項目は、だいたい以下の通りだ。
息苦しさはないか。
食事を飲みこみにくい事はないか。
疲れやすい事はないか。
ものが見えにくい事はないか。
力が入りにくい事はないか。
彼はすべての項目にNOと答えた。
看護師はほっとしたようにメモをする。
「やっぱり朝は調子良いみたいね、薬も効いてるみたいだし、よかった」
そう言うと、脈拍と血圧を測定し、そして聴診器を彼の胸にあてて呼吸の音を聞いた。
「じゃあ、また顔見に来るから。あ、そうそうあのちゃん……同じくらいの歳の子、来てよかったね。最近、中学生くらいの子の入院少なかったから、良い話し相手になるんじゃない?」
「ふふ、そうですね」
看護師の言葉に、幸村は微笑みながら答えた。
看護師は彼に手を振って部屋を出てゆく。
先ほど看護師が精市に気を遣い、デイルームから自室に促した理由は分かる。
看護師から見て、今、精市との体の状態が如何に違うか、そして精市がそれをどう感じるか、容易に察する事ができたのだろう。
そして彼の難しい病気の症状について、の前で尋ねる事をはばかったのだ。
精市は自分のベッドの頭元を見た。
酸素吸入器、人工呼吸器、挿管セット。
まず間違いなく、の病室には必要のないものだろう。
彼は去年の冬、全身の筋肉が弱くなるという自己免疫疾患を発症し、呼吸が止まりかけて一時期人工呼吸器の世話になった。
それから投薬治療で症状は緩和しており、調子の良い時には退院をしたりしているが、少しずつ全身の筋力が弱まってゆくという病気の進行に変わりはない。
午前中は概ね体調が良いのだが、病気の性質上、いつも午後から夜になると身体がだるく疲労感が出現し、時によっては眼球の筋肉の疲労のため物がダブって見える事もある。
そんな時、自分の病気を改めて自覚する。
発症した当初よりずいぶん落ち着きはしたが、幸村精市とて、『なぜ自分が、こんな病気に』という思いは拭えない。そして、見舞いに来てくれる真田弦一郎をはじめとする部員達の顔を見るたび、気が晴れる反面、自身と彼らの格差を感じてしまう。
そんな葛藤と、日々戦っていた。
今日会って話をしたのまぶしさは、精市に久しぶりにそんな思いを甦らせた。そして同時に、そんな思いを抱きながらも、また彼女とは顔を合わせて話したいとも思った。
精市はベッドサイドのカレンダーを見る。
関東大会の日に印がつけてあるのだが、その決勝と同じ日に、『手術日』と書いて赤丸がしてある。
そう、今回精市は手術を目的として入院した。
が、まだ完全に決心したわけではない。
彼にはまだ迷いがあった。
彼の疾患の治療として、免疫の中心臓器である胸腺を摘出するという手術を主治医から提案されたのは春先の事だった。
検査の結果、彼は手術の適応となるし、年齢的に胸腺を摘出しても問題がないと判断されたからだ。
しかしこの手術は、症状が劇的に改善する事もあれば、改善されない事もあり、また手術後一時的にかなり症状が悪化する事もあるという。
要するに、手術によって必ずしも病気が治ると確約されるわけではないのだ。
自分は手術を受けるべきか、このまま投薬治療でしのいでゆくべきか。
悩みながら夏が近づき、今は関東大会目前、そしてその次は全国大会。
自分が全国大会で選手として戦うためには、手術を受けるほかない。
そう心を決め、手術を受ける前提で今回入院をしているのだが、心の片隅にまだ決心しきれていない自分がいるのを、自分自身が誰よりもわかっていた。
精市はベッドに横たわりながら、窓の外を眺める。
晴れ渡った空に、もくもくとした入道雲は本格的な夏の到来を示していた。
自分は夏の間に、またテニスをプレイする事ができるだろうか。
そんな事を考えながら、精市はじっと空を見上げる。
昼食を摂りにデイルームに向かうと、ちょうど廊下での後姿を見かけた。
精市は「やあ」と声をかけながら、近寄った。
は一瞬驚いた顔をするが、すぐにあの太陽のような笑顔を浮かべる。
一緒に配膳車の前に行くと、精市は「」とネームプレートの立てられたトレイと自分のトレイを取りテーブルに運んだ。
「あ、ありがとう」
彼女は嬉しそうに礼を言った。
朝、健太郎が得意げに彼女の下膳を手伝っていた気持ちが精市にもよく分かる。
ほんのちょっとした事だけれど、彼女の感謝の気持ちは本物で、その気持ちが自分に向けられるというのは胸の中に明るい火が灯るような気がした。
「君のナイトは、昼はお休みなの?」
精市がからかうように言うと、はおかしそうに笑った。
「健太郎くん? さっきお母さんが来ててね、お部屋で一緒にごはん食べるみたい。まだ小さい子だもの、やっぱりお母さんが来ると二人でいたいんじゃないかな」
いつも生意気で大人びた事ばかり言う少年が母親に甘えている姿を想像すると、精市も思わず口元がほころぶ。
精市もも特に食事に制限があるわけではないから二人の献立はまったく同じもので、今日は鮭のムニエルがメインだった。
精市ははっと気がついて、トレイのタルタルソースの袋を開けての皿に添えた。
「ありがと!……片手が使えないと、こんなちょっとした事が自分じゃできなくって、すごく助かる」
はまたとても嬉しそうに笑った。
「……私ね、学校で自転車部なの」
ムニエルを箸でくずしながら、は話し出した。
彼も箸を動かしながら、彼女を見る。
「オフロード? それともレーサー?」
「ロードレーサーよ。5月にレースがあって、山岳コースのダウンヒルでね、私は下りが得意だから思い切り飛ばしてたら、落車しちゃったんだ。それで肘を脱臼して靭帯を痛めて、手術したの」
彼女は言いながら、装具をつけたままの左腕を軽く動かして見せた。
「怪我は腕だけだった?」
精市は、坂道を下りながらクラッシュする様子を思い浮かべると思わず心配そうに尋ねた。
「うん、巴投げされたみたいになって、ごろごろ転がったから運良く他にはダメージはなかったの。見てた人はもっとすごい怪我かと思ったらしいけど。擦り傷は全身にできたけどね」
彼女はなんでもないように言う。
「お昼前に回診があって、先生が明日からリハビリ室に行くようにって。もう少ししたら、鈴鹿サーキットでやるレースに出たいって思ってたから、やっとリハビリできて嬉しい」
そしてとても嬉しそうに言った。
そうだ、彼女は後はただただ前に進むだけなのだ。
精市はわくわくしたような笑顔の彼女をじっと見た。
「僕は、明々後日、手術なんだ」
は穏やかな表情のまま、精市を見て、そして黙って彼の次の言葉を待っていた。
「ちょっとややこしい病気でね、筋肉の力が落ちていってしまうんだ。手術をすれば、半々ぐらいの確率で改善するだろうっていう説明を受けたから、僕も試合に出るため、手術を受けてみようかと入院してきたんだよ」
彼の説明に、は難しい顔をしながら食事を続けた。
「……そうなんだ。手術、難しいの?」
「手術自体はそんなに難しいものじゃなくて、かなり確立されたものらしいんだけどね、手術をしたからといって確実に治るっていうわけじゃないから、やっぱり迷ってしまうんだよ」
言ってから精市は、こんな事を人に話すのは初めてだったと気づく。
真田や柳や部員達には「手術を受ける事にした」とだけしか話していない。
どうしてだろう。
どうして、今日会って話したばかりの少女に、自分の今最も重要な事を語ろうとしてるのか。
どうしてかはわからないけれど、彼女にならば、自分の上手く言葉にしきれないような気持ちを伝えたいと思った。
「……手術って、怖いよね」
彼女は鮭の皮を丁寧にはがしながら言った。
「私、全身麻酔だったの。ほら、人工呼吸器をつけて……っていうやつ。簡単な手術だから、すぐ済むよって言われたけど、説明を聞くとすごく怖くて……。だって、手術の間、自分で息できないんでしょ。やってみたら、麻酔であっというまにわけわからなくなって一瞬の出来事みたいだったけど……やっぱり手術の前はずっと怖かった。肘も、傷が治ってリハビリをしたらすぐによくなるよって言われてるけど、不安だし」
そう言って、手術の事を思い出したのか一瞬眉をひそめると、まっすぐに精市を見た。
とても真摯なまなざしで。
「……私、手術も治療も不安だったけど、きっと幸村くん、もっと不安ね?」
精市は彼女の視線がまるで自分の目を通して、体の奥まで入ってくるような気がした。
そして、自分で自分の中を一瞬で旅したような気持ちになった。
「うん、不安だ。怖いし、不安だよ」
部員達にも。
家族にも、主治医にも、担当看護師にも言った事のない言葉を、彼は今ぽろりとこぼした。
今まで、彼はそう口にする事で、不安や恐怖が自分にとって動かしがたいものになってしまうのではないか、そう考えていた。
でも口に出してしまうと不思議な事に、それらはなぜか自分の中で一緒に共存できるような気がした。
病気や治療に対する不安は、なくなる事はない。
でも、自分の中で折り合いをつけて一緒にやってゆく事はできるのではないか。
彼女と話していて、初めてそんな気になった。
なんていう事のない一言で、自分にそんな事を気付かせてくれたこの女の子に、精市は尊敬の念を送った。
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2007.6.7