● 夢一夜(1)  ●

 病院の朝は早く、そしてせわしい。
 金井総合病院の四階病棟のデイルームでは、朝から学童や幼児で賑やかだった。
 大騒ぎをしながら朝食をとる彼らを、穏やかな笑顔で見つめている少年がいた。
 すらりとした長身はどこかしら線が細く、その整った顔立ちは少女のように美しいのだが、まなざしからはきりりとした強い意志をのぞかせる。
 彼、幸村精市は昨年の冬からこの小児科の混合病棟に入退院を繰り返している。
 精市の病室は個室だが、いつも食事は中央のデイルームでとる事にしていた。
 衛生上その方が好ましいという事と、それと小児科病棟のデイルームは賑やかで彼の気持ちを明るくするからだ。
 混合病棟には1〜2歳の幼児から精市と変わらぬ年齢の少年少女まで、幅広い年齢の患者がいた。
 先天的な難病を抱えて手術を繰り返す者、外傷を負って治療中の者、その疾患や背景は様々だった。
 ただ、デイルームに出て食事をしているような患児はその中でも比較的快方に向かっている元気な子供が多く、そんな彼らの姿を見るのが精市は好きなのだ。

さん、もう食べ終わった? 今日は僕が片付けてあげるよ」
 
 デイルームのテーブルで、少年の可愛らしい声が聞こえた。
 細身で小柄な少年は得意げにそう言うと、トレイを持ち上げた。少年の視線の先には、ちょうど精市と同じくらいの年齢の少女が笑っている。

「健太郎くん、大丈夫? 持てる?」
「当たり前じゃん。僕、先週まで点滴台をつけたままだって、一人で何でもできてたんだから」

 健太郎と呼ばれる少年はトレイを持って下膳用のワゴンに向かい、その途中で精市と目が合った。彼は精市を見ると、嬉しそうに笑った。

「幸村さん、おはようございます!」
「おはよう。体調、いいみたいだね」

 精市もにっこりと笑って挨拶をした。
 彼、武田健太郎は11歳の少年で、心臓の疾患で長期に入院をしている。
 中学受験をめざす彼に精市が勉強を教える事もしばしばで、病棟内でも特に仲のよい少年なのだ。
 健太郎は、年齢のわりに体が小さく幼い印象があるが、病院で大人と接する機会が多いためか、口ぶりなんかは大人びていて、他の少年たちは精市を「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言ってくるのに、健太郎は「幸村さん」と呼ぶのだ。しかしそういうところも、彼の愛らしいところであった。

「彼女……新しい友達?」

 精市は少し考えてから、健太郎に尋ねた。
 健太郎と一緒に食事をしていた少女の事だ。
 今までこの病棟で見かけた事のない少女。
 左腕に装具をしていて、おそらく外傷を負ったのだと思われる。
 が、そのうっすら日焼けをした健康的な肌や、すらりとしなやかな体躯の内からは、まぶしいエネルギーがあふれてくるようで、初めて見た時から精市の視線を捉えたのだった。

「うん、さん。幸村さんと同い年だったと思うよ。この前、整形外科病棟から転科してきたんだ。肘を怪我して手術をしたらしくて、まだちょっと不自由でしょう? 食事の時は下膳とか、手伝ってあげる事にしてるんだ」

 得意げに言う彼の表情からは、とても彼女を慕っている様子が伺えた。
 そんな様子が微笑ましくて、幸村は思わずクスリと笑った。

「幸村さん、今日、もし検査とか何もなかったら、また勉強教えてくれる? 院内学級もあるんだけど、算数がね、ぜんぜん物足りないんだよ」
「ああ、いいよ」
 精市が言うと、健太郎は嬉しそうに頭を下げた。
 そして精市と、という少女に手を振って、デイルームを出て行った。
 食事が終わって検温が終わると、長期入院のこども達は院内学級に行く。
 健太郎はその準備で自室に戻っていった。
 残された精市は、ふと少女の方を見た。
 すると彼女も精市をじっと見て、そして微笑んだ。
 その笑顔は、まるで太陽の光がさしこんできたようで、精市の体をふわりと暖かく包み込んだ。彼は一瞬、なんとも言えないその彼女のパワーに驚いてしまう。
 思わず立ち上がると、ゆっくり彼女のいるテーブルに向かった。

「……おはよう。健太郎くんと仲良いみたいだね」

 そして静かに言った。
 彼女はおかしそうに笑う。
「うん、いろいろと世話をやいてくれるの。あの子、病院の事詳しいでしょう? 看護師さんの事もよく知ってるから、誰々さんは採血すごく上手とかね、教えてくれる」
 健太郎が得意げにそんな説明をする様が容易に頭に思い浮かんで、精市も思わず笑った。
「……健太郎くんがね、すごく頭が良くてテニスの上手いお兄さんがいて、よく勉強を教えてもらうって自慢してた。あなたの事?」
 彼女の質問に、精市は恥ずかしそうに肯く。
「幸村精市といいます」
「私は。多分……学年、同じ? 私は中三だけど」
「僕もだよ」
 互いに簡単な自己紹介をすませると、住んでいる場所や学校の話になる。
 精市はおしゃべりな方ではないが、ちょうど同じくらいの年頃の話し相手は久しぶりで(このところ入院していなくても、自宅療養が多かったため)、自分でも意外なくらいいろいろと話をした。
「へえ、幸村くん、立海大付属のテニス部なんだ。すごい! 有名だよね、私もうちの学校のテニス部の子から聞いたことあるよ。立海がいるから、神奈川では絶対勝ち抜けないんだって、悔しそうにしてた」
 彼女の言葉に、精市は改めて自分の留守を預かってくれている部員たちの事が頭に浮かび、心が暖かくなった。
「うん、いいチームだからね。今は関東大会の期間なんだけど、僕が退院する頃には全国大会で一緒に戦えるはずなんだ」
「うわー、楽しみだねえ」
 は本当に嬉しそうに、身を乗り出して精市に笑いかけた。
 彼女は腕の装具以外、まったく健康そのものといった感じで、精市は彼女のあふれる力を感じるとともに、今の自分との違いにほんの少し戸惑いをも感じた。

「ああ、幸村くんにちゃん、ここだったんだ」

 その時、明るい声が飛んできた。
 振り返ると、20代後半くらいの愛らしい笑顔の看護師がやってきた。

「二人とも部屋に戻ってないから、どうしたかと思っちゃった」

「あっ、もう検温だっけ。ごめんなさい、今日は私の担当、滝本さん?」

 が嬉しそうに言うと、滝本と呼ばれる看護師は肯いた。

「そうよ。今日は幸村くんもちゃんも私の担当。ちゃん、こっちの病棟慣れた? 整形とはちょっと雰囲気違うでしょう」
「うん、でも健太郎くんがいろいろ教えてくれるから、もう慣れた。整形もみんな親切だったけど、こっちも賑やかで楽しいよ」
「そう、よかった。肘はどう? 痛みはない?」
「うん、時々ちょっとだるいけど大丈夫。早くリハビリしたい」
「そろそろリハビリに行くって、先生言ってたよ」
「ほんと? めっちゃ嬉しいなあ」
 看護師の言葉に、は飛び上がらんばかりに声を上げた。
 彼女の検温は、それで終了のようだった。
「ええと幸村くん、ごはんはもう食べた?」
「はい、終わりました」
「じゃあ検温するから、部屋に行こうか?」
 看護師は笑顔で精市を部屋に促した。
 精市は少し考えて、そして『はい』と返事をすると、立ち上がった。
さん、じゃあまた後でね」
 に手を振った。
「うん、またね。話せて楽しかった」
 も手を振って、彼に笑った。

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2007.6.6

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