● 夜明ケ前(3)  ●

 弦一郎の練習が終わる頃、もベンチから立ち上がって教室へ向かった。
 大きく深呼吸をする。
 今まで、頼まれて様々な部の活動状況の写真を撮ったりしていたけれど、写真を撮るためじゃなく純粋にそのトレーニング風景を見るのは初めてだった。
 カメラを持っている時とそうでない時の、自分の視点の違いに少々驚く。
 カメラを持たずに見ていると、自分はただただ、弦一郎を目で追っていた。彼がどこにいても、周囲の風景がどうであっても構図などお構いなしに。
 自分は本当に弦一郎を好きになってしまったのだと改めて感じると、妙に照れくさくて、今まで感じたことのないそんな感覚を持て余してしまうような、胸がいっぱいになるような、そんな気持ちになった。しかし、その甘くて痛いような感覚は、間違いなくを幸せな気分にしていた。

 教室に入って授業が始まる前の時間、はいつものように友達と盛り上がって過ごしていた。
 今日は、友人のバンドで演奏する曲目についてだ。
「どうする? ホルモンみたいなんでガンガン行く?」
 ボーカルをやる千佳がわくわくとした声で言う。
「でも思い切りナツメロで、サディスティック・ミカ・バンドのコピーなんかもいくない?」
 ギターを担当する祥子も食い下がった。
 そんな風に話していても結局は、だったら衣装はどうする? なんて話で盛り上がってしまうのだが。
「ねえねえ、バンドをやるイベントの時、真田くんも見に来たりするわけ?」
 ふと千佳がからかうようにに言った。
「……ええ? 多分、テニス部の練習があるから無理なんじゃないかな」
 は照れくさそうにそっぽを向いて答える。
「なによ、見に来てって誘えばいいじゃない。千佳のステージ衣装をに着せたら、真田くん、何て言うかな? やっぱり、『たるんどる!』って怒ると思う?」
 祥子は声を上げて笑った。
「やめてよ、もうー!」
 耳を塞ぐようにするに、女友達は容赦なくからかいの言葉を浴びせ続けた。
「……けど、が男と付き合うと、こんなにオトメになるなんてすっごく意外。それに正直、が真田くんとつきあうなんて、すっごく意外」
「ねえ? 真田くんは、私達みたいのって、存在自体を無視してるっていうかぜんぜん興味なさそうだったし。どうなの、ああいうクソ真面目で融通のきかなそうな男とつきあうって、大変?」
 二人はバンドの曲目の話はどこへやら、興味深そうにに尋ねた。
「どうって……別に……優しいし、楽しいよ」
 きょとんとして答える彼女に、二人はやってられないという顔をする。
「だめよ、千佳。ってば、自転車に二人乗りだもん。信じらんないわぁ」
 言って、また二人で大笑いする。
 いいようにからかわれっぱなしのはさすがにムッとして、そっぽを向いた。
「でもさあ、に告るなんて、真田くんああ見えて、結構見る目あるよね」
「そうそう、ちょっと見直しちゃった」
 二人の言葉に、は窓の外から視線を戻して言った。
「……そうでしょ?」
「すぐ調子に乗るんだから!」
 祥子が譜面での頭を軽く叩いて笑った。
「あ、そうそう……」
 ふと千佳が真面目な顔をして言う。
「多分、そのうちの耳にも入るかもしれないけど。……真田くんてあれでも結構女の子からは人気があるらしくて……専ら真面目なタイプの女の子にだけどね。で、一部のそういう子たちが、と真田くんがつきあうようになったからって、ちょっとの陰口たたいたりしてるみたいよ。7組のレイコさんが、そんなのを聞いたって心配してた」
「……遊んでばかりのワルイ女が、真田くんをたぶらかしちゃって、真田くんカワイソーって?」
 がさらりと言うと、千佳はぷっと吹き出した。
「そう。よくわかるね」
「だって、男の子の友達と噂になるたび、そんな風に言われてたじゃない」
「皆、いつも自由に楽しくやってるがうらやましいんだよ。だから、遊び人のワルイ女って事にしたがる。気にしなくていいよ、
 祥子が落ち着いた声で言った。
「うん、気にした事もないし。あ、でも……」
 はふと、口元に手を当てて心配そうな顔をした。
「今まではいろいろ言われても、その男の子と実際につきあってるわけじゃなかったからどうでもよかったんだけど。今は……そんな風に言われたりすると、真田くんがかわいそうかな……」
 そんなの背中を、祥子はバンと叩いた。
「何言ってるの、男・真田がそんな陰口、真に受けるわけないじゃない。のため、濱口ばりにピンクのアフロを校庭で振り上げた男よ?」
 真面目な顔で言う祥子に、は思わず吹き出した。
「……うん、ありがとう」
 
 昼休みになって、この日は当然弁当など用意していないのでは購買へ向かう。
 と、ふと思い立ち、まだ教科書を片付けている弦一郎の席へ引き返した。
「真田くん、今日はお弁当じゃないでしょう? 天気も良いし、何か買って外で食べない?」
 彼女が言うと、弦一郎は緩やかに口元をほころばせ、うなずいた。
「ああ、そうだな」
 二人、昼食を買って校庭の隅の藤棚の下のベンチに座った。藤はまだほんの少ししか花開いていないが、ほどよい木漏れ日が二人を照らす快適な場所だった。
「……今日はヘンな感じ。ものすごく長い事、真田くんと一緒にいるような気がする」
 サンドイッチを食べながら言うの言葉に、弦一郎はくっと笑った。
「そりゃあ、3時半からだからな」
 言われて見ても笑った。
「ほんとね。でも……きれいだったな、あそこの日の出。いい場所みつけちゃった」
 思い出して、うっとりした顔をする。
「今日は本当にありがとう。去年の今頃は、真田くんと日の出が見れるとは思わなかった」
 は言って、またおかしそうにくっくっと笑った。
「……そりゃあ、俺もそうだが……」
 そんなを見て、弦一郎は決まり悪そうにつぶやいた。
「真田くん、二年の時って私たちほとんど話した事なかったと思うけど、一度だけ面と向かって話したの、覚えてる?」
 の問いに、弦一郎は頭を思い巡らせるように少しの間沈黙をした。
「……ああ、ホームルームの事でか?」
「そう。私、よくホームルームの時いなくなっちゃってたから、真田くんに注意されたじゃない。『授業をサボるのはの勝手だが、ホームルームはクラスで話し合いを要する。その責任と義務を放棄するという事だけは、ならん』って言われたんだったかな」
 弦一郎は思い出したというように、何度かうなずく。
「真田くんが真面目な人だっていうのは最初からわかってたけれど、改めて本当に、まっとうな事を言うまっすぐな人なんだなあって、思った」
 は当時のことを思い出して、嬉しそうに笑う。
「……うむ、まあ……クラス委員だからな……」
 彼は照れくさそうに牛乳を一口のむと空を見上げた。
 はそんな彼の横顔をじっと見る。その視線に気づいたか、弦一郎はちらりと彼女を見た。
「何だ?」
「……ああ、ううん、ええと……」
 は言いかけて、少し考える。言葉を探る彼女を、弦一郎がじっと見ているのを感じ、は更に緊張してまう。
「あのね、真田くんは真面目で優等生だから……その……私みたいな毛色の違う人間とつきあったりして、人から何か言われて、嫌な思いをしたりしてない?」
 思い切って言った。弦一郎は驚いた顔でを見る。
「……何か言われたとして、俺がそんな事を気にする男に見えるか? それに、は確かに授業をサボったり奔放にすごしているが、誰かに迷惑をかけるような事をする生徒ではないだろう? 何も問題ないではないか。どちらかといえば……」
 弦一郎は牛乳を飲み干すと、コホンと咳払いをした。
「俺がとつきあっていると知って、やっかんで憎まれ口をたたく奴がいるくらいのものだ」
 言って、弦一郎はその手を、そうっとの頭にのせた。
 はほうっと一瞬目を閉じ、口元がほころぶのを感じながらまた目を開けた。
 そこには優しい顔をした弦一郎がいる。
 朝、坂の上から見た大きな太陽のように。

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2007.4.6

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