● 夜明ケ前(4)  ●

 午後の授業を、弦一郎は幸せな気分で受けていた。
 木漏れ日で温まったの柔らかい髪の感触は彼の右手にまだ残っていて、その熱は全身をかけめぐる。
 二年生の時のやりとりを、が印象に残していた事は意外であったし、それはなんとも嬉しく感じた。
 ちらりと時計を見る。
 3時半を過ぎれば。
 今日は12時間以上、彼女と過ごす事になる。
 それは今までの新記録じゃないか。
 そんな他愛無い事を考える自分がおかしかったが、朝、ブン太や蓮二と話して不意に感じた心のざわつきが、今はすっかりどこかへ行っている事に、彼は安堵した。

 授業が終わり、午後の部活に勤しむべく、部室で着替えをすませグラウンドに出た弦一郎は、と昼食を取った藤棚に何気なく目をやった。
 そこにはがいて、弦一郎は一瞬そちらに足を向けようと踏み込むが、すぐに思いとどまる。彼女は一人ではなかった。
 彼女の向かいにいたのは、高等部の制服を着た、少し長めの茶色い髪で細身で長身の、柔らかい表情の男。
 中等部の生徒とは明らかに違う、成人男子に近い雰囲気を持った男だった。
 二人は藤棚の下の木製のテーブルに何かを広げ、それらを見ながら楽しげに話をしている。弦一郎はその場を立ち去ろうとするが、なぜか足が動かなかった。
 じっと二人を見ていると、が顔を上げ、弦一郎に気づいたようだった。弦一郎は顔をそらそうとするが、それより先にが微笑んで大きく手を振る。
 そして男とまた何か話すと、男は立ち上がってに軽く手を振り藤棚を後にする。
 ちらりと弦一郎を見たその表情は、やけに大人びて見えた。
 弦一郎は一瞬こわばっていた足をゆっくり動かし、しばし思案したが、藤棚へと向かった。
「今から部活?」
「ああ、そうだ」
 弦一郎はちらりと先ほどの男の後姿を振り返った。
「……高等部のOBか?」
 ためらいながら尋ねる。
「うん、そう。この前のイベントでバンドをやった人で、写真を頼まれてたんだけど、出来上がったから渡してたの」
「……いろんな写真を、頼まれるんだな?」
「そうね、あちこちの部からも先生を通してよく頼まれるけど、あと私、音楽が好きだから知り合いのバンドのライブの写真をよく撮るの。ライブの写真を撮るのも、結構躍動感があって面白いよ」
 は嬉しそうに話す。
「ああいう、高等部の生徒にも知り合いが多いのか?」
 低い声で質問を続ける弦一郎に、が怪訝そうな顔をする。弦一郎は自分の表情が険しいであろう事に気づくが、どうにもならなかった。
「……そうね、友達のバンドを観にライブハウスやスタジオに行くと、対バンで他校や高校の人なんかもいてそれで知り合いになって、フライヤー用の写真を頼まれたりするし……」
 の話の中には、弦一郎の知らない単語がいくつも含まれていた。が、その意味を尋ねようという気にはならなかった。
「……には、俺の知らぬ部分ばかりが多いな」
 低いしっかりとした声でそう言った彼を、が驚いた顔で見ていた。
 いつしか、朝に感じた胸のざわつきがその大きさを増して彼の胸の中を占めていた事に気づく。の表情を見ていると、更にそのざわつきは大きくなり、のど元までがヒリヒリとしてきた。
「真田くん……」
 の心配そうな小さな声を、彼は遮った。
「今日は部活の後、ミーティングがあるから、先にバスで帰っていてくれ」
 それだけ言って彼女に背を向けると、テニスコートに走った。
 どうにかして、自分の中のこのざわつきを払い落としたかった。


 部活を終えると、弦一郎はそそくさと一人自転車を出した。
 ミーティングがあるというのはでまかせで、どうにもこの胸の中のざわつきを抱えたままと顔を合わせる事は辛かったのだ。
 ひどく軽く、こころもとなく感じるペダルを漕いで、一気にいつもの坂を上った。
 坂の上からは見事な夕焼け。
 自転車を止め、それを眺める。
 二人で見るはずだった、夕焼けを。
 いつもの習慣の脈拍測定と水分補給を、今日は省略して弦一郎はそのまま家まで自転車を飛ばした。


 自宅の裏庭で、弦一郎は道着を身につけ、刀の下緒を帯に絡めた。
 幾度か呼吸をして、すらりと抜刀する。
 目の前には試し切り用の竹。
 抜いた刀の美しい刃文をじっと見つめた。
 今日出してきたのは、いつもの試し切り用の無骨な真剣ではなく、業物だ。
 試し切りは刀に負担がかかるので、業物は滅多に使わない。
 祖父から受け継いだ、このうっすらと薄く鋭くつくられた美しい刃は、いつ見ても弦一郎をぴりりと引き締めた。
 再度その刃を鞘に納め、試し切り用の竹に一歩二歩とにじり寄る。
 何度か呼吸を合わせた。
 鯉口に手をやり、はっと一呼吸、抜刀し、両手で柄を握ると光る刀を斜めに振り下ろした。
 いつも使う無名の真剣とはまったく違う切れ味に改めて感嘆しつつ、静かに刀を鞘に納める。
 かがんで、切り捨てた竹を拾った。
 つるりと鋭い切り口を指でなぞると、うっすら指先が切れ、血がにじんだ。
 無表情にそれを見る。
 自分のざわついた心も、こうやって切り捨てられたら良いのに。
 何をやっていても、藤棚で見たと高等部の生徒の姿はフラッシュバックするように甦り、弦一郎の胸に波紋を広げた。
 ふと空を見上げると、美しい月。
 はまたこの月を見ているのだろうか。
 弦一郎は自分の胸を蝕む得体の知れない感覚を、一体どうやり過ごせばよいのか、まったくわからなかった。


 翌日、ホームルームでの回収物を職員室に提出に行った帰りの弦一郎は、廊下で蓮二に会った。
「今朝はさん、来てなかったな」
 普段どおりの穏やかな笑顔で彼は言う。
「……いつも見に来るわけじゃない」
 ぶっきらぼうに言って立ち去ろうとする弦一郎を、蓮二は足早に追ってくる。
「どうした、喧嘩でもしたのか」
「別にどうもしておらん。……ただ、ブン太も言うように、俺と彼女は性質も違うのでいろいろとわからん事が多いだけだ」
「何だ、穏やかじゃないな」
 話しながら歩いていると、廊下が騒がしい。
「ああ、この前の中間テストの順位発表が出ているのか」
 二人も足を止め、順位表を見上げた。
「ほう、今回は蓮二がトップか、流石だな」
 弦一郎は感心した声を上げ、自分の名前が三番目の順位にあることを確認した。まずまずかと思いつつそのまま順位表を眺めていると、その次の次に記された名前が目に付いた。だった。
「……?」
 驚いて声を上げると、蓮二がくすりと笑うのが聞こえた。
「やはりな。彼女は多分、お前に近い成績を出してくるだろうと思ったよ」
 昨日の朝の蓮二の話を思い出しながら、弦一郎はじっと順位表を眺めた後、蓮二を見た。
「……なぜだ?」
「それは、弦一郎、自分で聞いたら良いんじゃないか?」
 蓮二は笑って廊下を歩いていった。

 ホームルームの後、はさっさといなくなっていて、弦一郎はテニスバックを担いだまま、校庭のあちこちを彼女を探して歩いた。彼女のいそうなところを何箇所か歩いていると、サッカーコートの裏手の草むらで腹ばいになりカメラを構えているところを発見した。
「……パンツが見えそうだぞ」
 近づきながら彼がそういうと、はびくりと体を起こし顔を上げた。
「……びっくりした!」
 言って、くっくっと笑う。
「何を撮っているんだ?」
「ほらこれ、このヒメジョオン、少しピンク色でかわいいでしょう」
 座りなおして、彼女は小さなキク科の花を指差した。
 弦一郎も隣に座る。
「……さっき、中間の結果が貼り出されていた」
「うん」
、学年で5位だったぞ」
「そう、よかった」
「……えらく急に上がったものだな? 一体どうした?」
 彼が尋ねると、はカメラにレンズカバーをしてバッグに仕舞い、恥ずかしそうにうつむいた。
「……高等部に上がったら、クラスや授業、成績で分かれるでしょう? また真田くんと同じクラスになれたらいいなあって、思ったの」
 弦一郎は、突然胸に刺さった彼女の言葉を反芻し、何か言おうとするが言葉が見つからない。急に熱くなったその手で思わずヒメジョオンを一本手折ると、黙ってそれを彼女に差し出した。
 は驚いた顔でヒメジョオンを受け取ると、弦一郎を見上げ、いつも彼女の頭に彼が手をのせた時に見せる、たまらなく幸せそうな笑顔で彼をみつめた。
「今日……乗って帰るか?」
「うん、待ってる」


 部活の後、胸のポケットにヒメジョオンを挿したを乗せて、弦一郎は自転車を走らせた。背中に感じる彼女の熱と重みは、とてもしっくり来るものでありながら、彼の胸を躍らせる。
 いつもの坂を登りきる頃には、今日も見事な夕焼け空が広がっていた。
 自転車を停めると、は弦一郎の腰に手を回したまま、じっとその体と頭を彼の背中に預けている。弦一郎も自転車にまたがったまま、しばし夕焼けを見ていた。
「……、俺は……」
 言いかけて、数回深呼吸をする。
「いろいろ考えたのだが、おそらく俺は、まったく単純に嫉妬深い男なのだと思う。は友人が多いから……単なる知り合いなのだとわかっていても、他の男と話しているところを見ると、やけに落ち着かない。こんな風な気持ちになるのは初めてだったので、どうしたら良いかわからず……昨日はすまなかった」
 空を見たまま彼が言うと、の手にぎゅっと力が入り彼の背中が更に熱くなるのを感じた。
「……しかし、その……大丈夫だ。時々落ち着かないかもしれんが……俺は……大丈夫だ」
 弦一郎はハンドルから手を離し、自分の胸にしがみついているの手にそっと重ねた。
 何と言って良いのかわからず、ただひたすら、大丈夫、とつぶやく。
「……真田くんが言うように私、友達は沢山いるけれど……一緒に朝焼けや夕焼けを見たいって思うのは真田くんだけだし、こんな風に背中にくっついていたいなあって思うのも、真田くんだけ。……私もこんな風な気持ちになるのは初めてだから、落ち着かないわ」
 背中でくすくすとが小さく笑うのを感じた。
「……、悪いが自転車から降りてくれないか?」
 弦一郎が言うと、はあわてて手を離し言うとおりにした。弦一郎は自転車のスタンドを立てると帽子をぎゅっと目深に被る。
 じっと彼を見上げるの頭に手をのせ、その手をするりと背中に滑らし、そうっと自分の胸に抱き寄せた。
「……いつもに後ろからしがみつかれてばかりだからな。ずっと、こうしたいと思っていた」
 すっぽりと自分の腕の中に彼女を抱きかかえながら、弦一郎は夕焼け空を見た。
「……こうやって自転車も乗れたらいいのにね」
 彼の腕の中、は嬉しそうな声で言った。
「そうだな」
 弦一郎はそう言うと目を閉じる。
 には自分の知らない部分が、まだいろいろあるだろう。
 しかし、太陽が昇る瞬間のあの表情や、日が沈むまで自分の背中にもたれているあの熱。それらはおそらく弦一郎以外誰も知らない、の姿。
 それで十分じゃないか。
 自分は何を焦っていたのだろう。 
 彼女を抱く腕にぎゅっと力を入れた。
「……真田くん、今度私がバンドでベースやる時、見に来れる?」
 腕の中でが遠慮がちに言った。
「うむ? あのアフロをかぶってやるという奴か?」
「そう」
 弦一郎は小さく笑って言った。
「そうだな、是非見てみたい」
 二人の体に挟まれたヒメジョオンが、窮屈そうに風にそよいでいた。



2007.4.15

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