● 夜明ケ前(2)  ●

 校庭に自転車を乗り入れる頃には、そろそろ各部活の朝練にやってくる生徒もちらほら姿を見せるようになっていた。
 弦一郎は自転車置き場でを下ろす。
「では、俺は朝練に行って来る」
 荷物を持って弦一郎を見上げるは、少し考え込んでから言った。
「……あの、練習を見ていても良い?」
 真剣な顔で改まって言う彼女を、弦一郎は帽子を被りながら見下ろした。
「ああ、構わんぞ。また、写真を撮るのか?」
「ううん、もうフィルムは使っちゃったし。ちょっと真田くんがテニスしてるところを、改めて見てみたくなったの」
 彼女の言葉に、弦一郎はなんとも照れくさくぎゅっとその帽子のつばを下げた。
「……そうか。だったら外のベンチから見てるがいい。朝練なら他の見学者もほとんどいないだろう」
 そう言うと、くるりと彼女に背を向け部室に向かった。

 弦一郎がコートに入ると、既に来ている他の部員達もそれぞれにストレッチなどのアップを行っていた。彼もそれに混じり、入念に体の筋を伸ばす。
 ちらりと外に目をやると、がコートの外のベンチに座っているのが見える。
「あれっ、センパイじゃん!」
 既にアップを終えた切原赤也が、嬉しそうに彼女に向かって手を振っていた。
 他の部員達も、ちらりちらりと彼女を見る。朝、人気の少ない時間の見学者は存外目立つようで、弦一郎は少々気にはなったが、すぐに練習に集中していった。

 練習を終えた後の部室は、いつもながら騒がしかった。
 その日のそれぞれの課題や上手くいった点などを、口々に話し合ってゆく。
 彼らが伸び伸びと話し合うのが一番であろうと、弦一郎はよっぽどのアドバイスがない限りそういった話に参加する事は少ないが、部員同士での活発なフィードバックは非常に好ましいと思いながら一人、ロッカーの前で着替えをしていた。
「ああ、そうそう、真田!」
 丸井ブン太の明るい声が響いた。
「うむ、何だ、丸井」
 弦一郎がシャツのボタンを留めながら振り返ると、ブン太は相変わらずガムを噛みながら楽しげに笑っている。
「今日、さんが見に来てたけど、彼女、真田と同じクラスだった?」
「……ああ、そうだが、を知っているのか?」
「まあ、知ってるっていうか、彼女ちょっと目立つだろぃ? 去年の海原祭で、ウチのクラスの出し物の写真を撮ってくれて、それを貰った事があるよ」
「そうか」
 弦一郎は表情を変える事もなく、ネクタイを首に巻いた。
「で、真田がさんとつきあってるって、ホント?」
 ガムを膨らませながら尋ねてくるブン太を見て、弦一郎はネクタイを結ぶ手を止めた。部員達が耳をそばだてる気配を感じる。
「……ああ、そうだが」
 低い声で答えた。
 わざわざ話す事でもないが、隠し立てする事でもない。
そう思ってはいたが、こう面と向かって尋ねられると、なんとも気恥ずかしい事であった。
「へえー、マジでかー!」
 ブン太はまたガムを噛みながら言った。
「ええっ、真田副部長、センパイとつきあってるんスか!」
 赤也が驚いた声を上げる。
「……それが、どうかしたのか」
 そういった事でからかわれるのを好まない彼は、あからさまに不機嫌そうに言う。
「いや、どうっていう事はないんだけど、真田はもっと大人しくて真面目な感じの子が好きだと思ってたからさ。ああいういかにも目立つタイプの派手な子とって、意外だなあって、ジャッカルが」
 ブン太が笑いながら振り返ると、褐色の肌を赤くしたジャッカルがあわてて着替えの手を止めた。
「なんで、俺が!」
「でも、いいんじゃないの。たまにはああいう子とつきあってみて世俗を学ぶってのもさ、真田。きっと、丸くなるぜぃ」
 ブン太はにやにやと笑いながら、真田の肩をポンポンと叩いた。
 着替えを済ませた弦一郎は、何も答えずに部室を後にした。
「……弦一郎」
 走りよって来て隣を歩くのは、柳蓮二だった。
「気にするな」
 蓮二は静かに言う。
「別に気になどしておらん」
 そうは言いつつも、ブン太の言葉は、まるで自分とでは不似合いだと言っているように聞こえ、確かに良い気分ではなかった。
「奴ら、からかい半分のやっかみ半分だろう。さんは人気があるし、ジャッカルも彼女を気に入っていたらしいからな」
 そう言うと、蓮二はくすりと笑った。
「しかしお前のアフロの人が、さんだとは少々意外だった」
「お前もを知っているとは、はそんなに有名人か」
 蓮二もブン太と同じような事を言うのかと、眉をひそめて言うと蓮二は頭を横に振った。
「丸井が言うように彼女は確かに目立つけれど、俺が言ってるのはそういう事じゃないよ。……彼女、ああやって奔放に遊んでいる子だと認識されている事が多いが、とても聡明な人だろう? ちょっと珍しいタイプだと、思っていた」
 弦一郎は蓮二の言葉が意外だった。は話していると確かに頭の切れる女だと分かるが、学校での成績は確かまったく記憶に残らない程度のものだったように思う。蓮二の目を引いた理由がわからなかった。
「去年の期末だったかな」
 弦一郎の疑問に答えるように蓮二は話を続けた。
「数学でどうにも解の難しい問題があってね、覚えてないか? 気になったんでテストが終わったすぐに、俺は先生に模範解答を求めに行ったんだ。その時に丁度よかったと見せられた解答が、さんの答案だったんだよ」
 去年の期末、確かに難問がひとつあった。弦一郎も正解を出せなかった問いだったと記憶している。
「……あれをが?」
「ああ。シンプルで美しい解だったよ」
 蓮二は思い出したようにくすりと笑った。
「あんな難問をするりと解くのに、なぜ彼女の成績はいつも目立たないのか不思議だろう? 俺もそう思って、ちらりと彼女の答案の他の部分を見ると、きっちり上から6〜7割のところまでしか解いてないのだよ」
 よくわからないという顔で蓮二を見ていると、彼は相変わらずくすくすと笑ったまま。
「多分、他の科目の答案も同じようなものだろうと思う。学校の成績っていうのは、良すぎても悪すぎても、先生に目をつけられやすい。さんはその辺りも分かっていて、最も目をつけられにくい、自由に行動しやすい程度の成績を狙ってキープしているようだ。面白い人だろう?」
 弦一郎は驚いた顔で、蓮二を見つめた。
「でも多分、先週の中間テストの結果は……」
 蓮二は言いかけてくすりと笑い、口を閉じた。
「なんだ?」
「いや、なんでもない。……俺はさんと話した事はないが、きっと、お前とよく合う、聡明で奥深い人だと思う。部の奴らは、しばらく面白がってからかったりするかもしれんが、気にするな」
「気になどしていないと、言っているだろう」
 そう言いつつも、蓮二の言葉は弦一郎にとって心強いものであった。
 しかし同時に。
 蓮二が言う、の成績の意識的な調整など、彼は知らなかったし想像もしなかった。ブン太が言うような『派手で目立つ』彼女の具体的な姿と同様に、成績を思うままコントロールする彼女も弦一郎が知らない部分の一つであり、それらの事は不意に彼の心をざわつかせた。
 彼自身は、の前で見せている姿がほぼすべてであると言っても過言ではない。
 が、思えば、の事は知らない部分がほとんどのような気がしてきた。
 
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2007.4.5

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