● 夜明ケ前(1)  ●

 月の美しい夜だった。
雲ひとつないその夜空をちらりと眺めてから弦一郎が床に就こうとしていると、充電器にセットしてある携帯電話がチカチカと光りながら振るえるのが見えた。
 手に取って画面を見ると、からの着信だ。
「俺だ……」
 低い声で答えると、受話器の向うからはいつもと変わらぬ明るい声が聞こえてくる。
「ねえ、外、見た? 月がすごくきれいね」
 弦一郎は思わず口元が緩み、そして心臓がドクンと大きく拍動した。
「ああ、丁度俺も見ていたところだ」
 男女のつきあいらしきものを始めた同級生との、まだ数回目の電話は思いがけずロマンティックな内容で、柄にもなく弦一郎の胸を熱くした。
「真田くん、もう寝るよね?」
「うむ、ああいや、しかしまだ大丈夫だ」
 またすぐ明日に会えるというのに、まだ彼女の声を聞いていたかった彼はそんな事を言った。
「いえ、すぐに寝て。東の方に高気圧が来てるの」
 弦一郎は彼女の言葉の意味がわからず、返答することができない。
「明日はきっときれいな日の出よ。写真を撮ろうと思うんだけど、もし早起きが嫌じゃなかったら、一緒に行ってもらえない?」
「……俺が早起きの苦手な男に見えるか?」
 ぶっきらぼうに言うと、小さな笑い声が聞こえた。
「そうね、じゃあ、家に3時半くらいに来てくれる?」
「ああ、わかった」
 の指定した時間の思った以上の早さに、少々動揺しつつも彼は答えた。
「よかった、ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」
 嬉しそうな声で言って、電話を切った。
 弦一郎は急いで部屋の電気を消し、床に就く。
 恋しい女の声は、寝しなの彼の耳からなかなか消える事はなかったが、目を閉じていると甘やかな心持のまま、彼はいつしか眠りについていた。

 目覚ましが鳴るほんの一瞬前、弦一郎は目覚めた。
 家人を起こさぬよう、そうっと身支度をし自転車で家を出る。当然外はまだ真っ暗で、自転車のLEDライトをカチリと灯す。
 の家の前に行くと、彼の姿を見つけた彼女が手を振ってきた。
 今日は機材を入れたバッグを背負っていた。
「ごめんね、こんな早くに」
「元来早起きだから、構わん」
 自転車を停めると、はするりと後ろに乗り、いつものように彼の腰に手を回してつかまった。
 弦一郎の背中に体を預ける彼女の柔らかい重みと熱は、もう何度もこうしているのに、毎回彼をなんとも言えない幸せな感覚に陥らせる。そして同時に、遠吠えでもしたくなるような狂おしい甘さを彼にもたらした。
「何処へ行けば良いのだ?」
 ペダルを漕ぎながらに尋ねた。
「いつも通っている坂道あるでしょう? あそこから裏手に上って行こうと思うの。あの辺り、きっといい景色なんじゃないかなあってずっと思ってて」
「うむ、わかった」
 弦一郎は通いなれた道を飛ばした。
 家から学校に行く時は比較的ゆるやかな坂で、弦一郎は後ろにを乗せていても難なく上る事ができる。普段は上りきるとそこからまっすぐ下って学校へ向かう道を、今回は山側の道へと入って行く。そこからは更に上りだった。
 さすがに呼吸が乱れてきた頃、傾斜が緩やかになる。
「ここらへんかな」
 が言って、彼は自転車を停めた。
 道沿いに自転車を停めると、はさっさと機材を出して三脚を立て、準備を始めた。うっすらと明るくなってきている中、手際よく作業をする。
「……今は日の出は何時頃なんだ?」
「4時31分」
 彼が尋ねると、はさらりと答えた。準備を終えたと見えて、ふうっと息をついて空を見つめた。
「あ、そうそう」
 バッグの中から何かを取り出した。
「これ、よかったら食べて」
 彼に差し出したのは、まだ暖かい握り飯と水筒だった。
「……ああ、すまない……」
 弦一郎は少々意外に思いつつ受け取り、そういえばまだ何も腹に入れていなかったと思い出し、それを頬張った。鮭の入った、ふんわりとした旨い握り飯だった。
「旨いな」
「あ、それね、私が作ったんじゃないの。私が朝バタバタしてたら、お母さんが起きちゃって。真田くんと日の出の写真を撮りに行くのと言ったら、そんな事につきあわされちゃって気の毒な子ねって作ってくれた」
 は恥ずかしそうに笑った。
 自分との事を彼女は母親にどう話しているのだろうと、弦一郎は若干照れくさく気にしつつも、悪い気はしなかった。
「……はいつも朝早かったり遅かったり、親御さんも大変なんじゃないか」
 握り飯を頬張りつつ、弦一郎はからかうように尋ねた。
 の登校時間というのは、二年の時からそうだったが、まったく読めない。
 ずいぶんと早くから来ていると思えば、遅刻。遅刻かと思えば、昼過ぎにやってきたり。
 は声を上げて笑う。
「そうなの。私、こうやってものすごく早起きして家を出る事もしょっちゅうだし、でも場合によってはせっかく早く出たのに、写真を撮ったりしてて学校に行くのは遅くなっちゃったりするんだけど。そうやって、早く行く事も多いから、夜遅くに帰ってきて寝坊しても、親は、もう出たと思って気づかなくて、起こしてくれなかったりするんだもの」
 弦一郎もつられて笑った。
「……あ、ねえ、真田くん、もうすぐよ」
 が弦一郎の制服の袖を引っ張って、太陽の昇る方を指した。
「しかし、まだ30分程あるぞ?」
「太陽が出る前のね、朝焼けが、今日はきっときれいよ」
 薄明るくなってきた空を、はじっと見つめる。弦一郎も黙ってその視線の先を眺めた。
 すると彼女の言葉どおり、すうっと空に朱が広がるようにうっすらと朝焼けが始まった。初め、それは気のせいかというくらいの薄い色使いだったのが、何回か呼吸するうちにあっというまに、水面に波紋が広がるように一面に広がっていった。何色と言えば良いのだろうか。夕焼けとは違う、もっと濃い紅の色。
 弦一郎がその光景に見とれていると、はすでに三脚にセットした愛用のコンタックスのシャッターを何度か切っていた。
 カメラのファインダーから顔を上げると、彼女も何も言わずじっとその朝焼けを見る。
 うっすらと唇を開けて、少し切ないような表情でいる彼女はなんとも美しく、弦一郎は朝焼けと彼女の顔を交互に見続けた。
 こんな時間を他人と共有するのは初めてだった。
 例えばテニスで。
 自分の限界ギリギリまでを使う、思い切りピリピリとした試合をする。
 そんな時というのは、なんとも言えない充実した時間だ。
 しかしまた、そういったものとは異なる感覚。
 この季節の、この時間の、ほんのわずかな瞬間。
 その貴重なひとときを共有する相手として、が弦一郎を選んでくれた事がなんとも喜ばしかった。
 何を言うこともできずその朝焼けを見ていると、ゆっくりと太陽が昇る。
 はどんどんシャッターを切った。
 不思議だ。
 昼間は太陽の刻々とした動きなど気づきもしないのに、今、目の前にある紅く大きな太陽は、どっしりとしていながら確かに力強くその姿をあらわにして行っていた。
 一度そのすべてが現れると、空はまるで何事もなかったようにどんどん明るくなって行く。弦一郎はふうっと息を吐いた。まるで息を止めていたかのように。
 隣を見ると、同じようにも大きく深呼吸をしていた。
「……なんだか、息、ひそめちゃうね、日の出って」
 ほっとしたように笑って言った。
 路肩に腰を下ろすと、水筒の中の熱い茶を一口すする。
 弦一郎も隣に座り、残りの握り飯を食した。
「……真田くん、今日は一緒に来てくれてありがとう。……好きになった男の子が、こうやって一緒に日の出を見てくれるような人でよかった」
 頬に両手を当て、少し恥ずかしそうには言う。それは照れくさい時の彼女の癖のようだった。
 弦一郎は彼女の言葉に、自分の顔が熱くなるのを感じる。しかし多分、赤くなっていたとしてもこの朝焼けでは気づかれる事はあるまいと、じっと彼女を見たまま、その手を彼女の頭にそっとのせた。
 を自転車の後ろに乗せるようになってから、時折彼女に対して行うようになった、その弦一郎の仕草。そうした時の、なんとも嬉しそうなの笑顔が弦一郎はとても好きだった。
 堂々とした太陽が辺りを染めるのを眺めながら、二人はゆっくりと、たわいない様々な事を話しながら時を過ごす。
 弦一郎の部活の朝練が始まる時間がやってくるのは、あっと言う間だった。

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2007.4.4

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