柳生比呂士の憂鬱な日々(7)



 自室の机で、柳生は今日持ち出してきた『証拠品A』であるところのプリクラシールを眺めていた。男女の友人同士でこういったものを撮る事もあるだろうが、ハートマークに囲まれた二人の写真は明らかに恋仲といった様相だった。写真の中の二人は私服でおそらく冬物、学校帰りではなさそうだ。まだ新しげなこのシールは、多分この冬に撮ったものだろう。
 柳生はふうっと何度目かのため息をつく。
 種明かしをされればなんとも単純な、安っぽい推理小説だ。というよりも、三流の恋愛ドラマ。
 石倉は、の友人であり以前からとの共通の知り合いでもあっただろう一条利江とつきあっている。部室にあった写真の日付などから見れば、少なくとも一年の頃から彼女と顔見知りであった事は分かる。
 石倉は、の友人である一条利江に心変わりをした。が、おそらく一条利江がから石倉を奪ったという風評が立つのを恐れたのだろう。にも、その他の周囲の誰にも一条利江との事を内密にしているに違いない。そして、どうやって別れを切り出すのか決心のつかぬまま、『距離を置く』といった形にしているのだろう。
 写真の中の一条利江は、のような華やかな容貌ではないが、くりくりとした目の可愛らしい女子生徒だった。チアリーダーとしての彼女に何度か接した事があるが、少し大人しめの静かなタイプ。
 例えば柳生自身だったら、どちらの女子生徒を好ましいと思うだろうか、などと意味のない事を考えてみた。まあ、どちらが好きなタイプかと言われたら、一条利江だろうな、と思いながら指でつまんだプリクラシールを机に置いた。
 本来ならば、土曜の『捜査』を待たずしてこのシールをに渡せば、今回彼女の『脅迫』と引換えに受けたこの依頼は完了となるだろう。
 それが一番時間のロスが少ないやり方だ。
 が、彼は完璧主義である。
 プリクラに写っている一条利江、今日の石倉の電話の相手、そして明後日土曜の待ち合わせ相手、それらが全て一致して初めて事件解決だ。
 今の段階で、このシールをに見せる事はしないと、彼は決めた。
 それはまだ証拠不十分だから。
 こんなちっぽけなシール一つでは、のあの凛とした顔を曇らせるためには役不足だ。



 週末を控えた金曜日、日直が回ってきていた柳生の相手は、たまたまだった。
「うわー、柳生くんとかー。初めてだよね、一緒に日直やるの」
「そう言われてみればそうですね」
 柳生は日誌に二人の名前を書き込みながら答えた。
「柳生くんとの日直って、すっごく大変かすっごく楽かのどっちかって感じ。ありえないくらい真面目に取り組むのにつきあわされてバカを見るか、なんでもかんでも柳生くんがさっさとやってくれて楽ちんか。どっちだろうね」
 彼女がいつもの調子で、ちょっとからかうように言うので、彼は眉をひそめて見上げた。
「さあ。大変なのか楽なのかなんていう事は主観的なものですしね。私は、日直のやるべき役目をきちんとやるだけですよ。そしてあなたも同様にやるべき事をやるという、日直というのはそれだけの事でしょう」
 柳生が言うと、はハイハイと言いながら自分の席へ戻って行った。
 さて、日中のの日直としての働きっぷりは、まあおおよそ柳生が想像していた通りのものだった。
さん、黒板のそちら側、もう少し端まできちんときれいに消してください」
「あのね、柳生くんがそっち側をきれいに拭きすぎるから、こっちが汚く見えるんじゃない」
「いえ、私の拭き方で普通です。あなたが雑すぎるんです」
 案の定は柳生の説教に口答えをしてヤイヤイとうるさかったが、柳生は気にせずに業務をこなしていった。
「これは、ちょっとないよねえ? 柳生くん。昼休み終っちゃうじゃないの。もうお腹へったよ!」
 4限目が終った後、は台車を押す柳生の隣を文句たらたらでついてくる。
 空腹をごまかすために口に放り込んでいた飴玉を、彼女は腹立たしげにガリガリと噛み砕いた。
「仕方ありませんよ。毎回の日直の仕事なんですから」
「だけど、なにも今日に限ってこんなに沢山資料使う事ないじゃないねえ!」
 これから、先ほどの歴史の授業で使った文献等の資料を、社会科資料室に返却に行かなければならないのだ。確かにこの日はグループワークだった事もあり、年表の他、写真集やら歴史書やら多くの資料を使ったのでこれらすべてを所定の位置に戻すには時間がかかるだろう。
 資料を乗せた台車を押して資料室に入ると、柳生は保管庫に戻しやすいよう、資料を種類別に分けていった。
「……柳生くん、明日、どうする?」
 保管庫の間で作業をしながら、は静かに口にした。それは石倉の逢瀬の件を言っているのだと、すぐにわかった。
「言ったでしょう。尾行ですよ」
「……私も一緒に行って良いよね?」
 柳生は一瞬手を止めて、彼女を見た。
「ええ、どうぞ。ご自身で確認するのが一番良いでしょうし」
 柳生はさらりと答えた。
「……さんは、石倉くんの『お相手』を確認して、どうされるおつもりなのですか?」
 当初の疑問を、柳生は口に出した。
 は手にしていた本を置いて、くすっと笑う。
「そりゃあ、決まってるじゃない。『キル・ビル』のルーシー・リューばりに、『ヤッチマイナァー!』ってカチコミよ」
 そう言って、日本刀を振りかざすふりをしてみせた。
「……なんてね、勿論それは冗談」
 思わず柳生は胸をなでおろす。
「別に、どうもしないよ。ふーんって思うだけ」
 分類し終えた資料を、彼女は保管庫に仕舞ってゆく。
「実質的に私と尚之はもう終っているんだって、それはわかってるの。彼とやりなおしたいんだとか、そういう風に思ってるわけじゃない。ただ、ああ新しい相手って誰なのかなーって、知りたいじゃん。多分そのうち分かるんだろうけど、そうやって時間と共になし崩しにいつのまにか知らされるとかそういうんじゃなくて、自分からアクティブにつきとめて、それで『あっ、そう』って思いたいだけ。それで、たまたまああいう事があったから、柳生くんに協力を願い出たの。柳生くんが有能な探偵でよかった」
 何でもないように言う彼女の姿を横目で見ながら、柳生の頭には、昨日の固く握り締められた白い手がよみがえった。
 今週に入って月曜に彼女と生徒会資料室で居合わせてから今日まで、ほんの数日だけれど、柳生はそれまでより大分彼女が分かってきた。
 は、泣かないタイプの女だ。
 他人に、悲しいだとか辛いだとかを決して言わないし、そういうところを見せない。それはおそらく石倉に対してもそうなのだろう。
 そして、決して人前で泣かない。
 泣く時は、誰にも見られないようなところで一人こっそり泣くのだ。
 きっと月曜、柳生にああやって脅しをかけて来た時、彼女はたった一人でぎりぎりのところに立っていたのだろう。
 あの時柳生を脅してくる彼女のひどく真剣な顔を思い出しながら、そんな事を考えたけれど、おそらくはそんな推測をされる事すら嫌がるに違いない。
 手元の本を戻し終えて、は柳生の隣に来て次の分を催促してきた。
 考え事をしていて作業が留守になっていた柳生はあわてて本を取り上げる。
 と、資料室の扉が開く音がした。ああ、誰かが調べ物にやって来たのだろう、と柳生は気にも留めず写真集の類を台車から拾い出していると、が指先でトントンと柳生の腕をつついてきた。
 顔を上げて『何ですか』と問いかけようとすると、は人差し指を口元に当てて、『静かに』の合図。そしてその指先がゆっくりと指す方に視線を移して、柳生は軽く肩をすくめた。入って来たのは例の愛のジプシーの二人だったのだ。
 二人は何やらしばらく話をしたあと、壁際に寄って抱き合い、口付けを始めた。
 呆れたようにそれを保管庫の隙間から眺める柳生の隣では、が笑いを堪えている。
 の意見ではないが、まったくこの二人はどうしてこう場所の選び方に芸がないのだろう。今日の授業の流れからして、この資料室はまだ片付けで使っていると分かりそうなものだが。
 この二人の情事にさえ遭遇しなければ、あの日、によってこのような面倒事に巻き込まれる事もなかったのに。そう心で思いつつ、彼はこの数日の事を思い返していた。
 隣にいるが、背伸びをして柳生の耳元でささやいた。
「どうする? 思い切り怒鳴りつけてびびらせる? それともこのまま知らん顔してやらせとく?」
 ちょっと意地悪く笑いながらささやくの声が、吐息とともに柳生の耳元をくすぐった。彼女がさっきまで舐めていた飴玉の甘い匂いがする。
 見下ろすと、昨日バスケ部の部室で潜んでいた時よりも少し離れて立っている彼女の、その悪戯っぽく二人を眺めているまなざしと、楽しそうにほころばせている口元が見えた。
 柳生は彼女の問いには答えず両手で本を持ったまま、すっとかがんで彼女の顔を覗き込むと、その唇に自分のそれを重ねた。
 が驚いて目を丸くするのが見えたけれど、彼女は声を立てない。
 彼女の唇は柔らかくて、思ったより随分暖かく、そしてかすかに人工的なオレンジの甘い味がした。そのふっくらとした下唇を軽く口に含んでそうっと舌でなぞり、彼はゆっくり彼女から顔を離す。ほんの、数秒の出来事。
 相変わらず驚いた顔のは、昨日のように彼の上着の裾を握り締めていたけれど、それはふうわりと柔らかく。
 彼はくるりと踵を返して保管庫の間から歩き出ると、パンパンと手を鳴らした。
「さあ、おふざけはこれにて終わりです。学校はそのような事をするところではありませんよ」
 彼がよく通る声を張り上げて言うと、愛のジプシーたちは月曜と同様飛び上がらんばかりに驚いて、これまたものすごい勢いで部屋を出てゆくのだった。
「アデュー」
 去ってゆく二人に、柳生は静かに声をかける。
「……びっくりした」
 保管庫の間から出てきてつぶやくに、柳生はくいっと眼鏡を持ち上げて答える。
「真田くんではありませんが、ああいった手合いには、やはりはっきりと注意をしなければなりません。同じ失敗を繰り返しすぎです」
「そうじゃなくってさ、柳生くん。学校はそのような事をするところではないんでしょう?」
 は自分の口元を指でなぞりながら、少し戸惑ったように笑って言った。
「ああ……『タフでなければ生きてゆけない。優しくなれなければ生きている資格がない』。フィリップ・マーロウですよ」
「はあ? 何それ!」
 さらりと言う彼に、は眉をひそめて聞き返す。
「知りませんか? レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に出てくる探偵マーロウの、最も有名な名台詞です」
「はあ〜? 知らないよ! 柳生くんってポワロじゃなかったの? っていうか、わけわかんないんだけど!」
 彼女の問に、柳生はそれ以上何も答えず、さっさと資料を片付けはじめた。
 なし崩しに依頼を引き受ける事になったフィリップ・マーロウは、確かその仕事の報酬として依頼主である麗しき人妻のキスを奪っていた。
 慇懃で頭脳明晰な名探偵ポワロを彼はこよなく敬愛しているが、時には少々ロマンティックで気障なハードボイルド探偵も悪くないだろう。

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2008.1.29




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