柳生比呂士の憂鬱な日々(8)



 土曜の朝、柳生はと、石倉の家の最寄の駅で待ち合わせた。
 石倉は電話で『遅れないから』と話しており、おそらく遅刻を注意されたのだろう。という事は、外で待ち合わせをするはずであり、そうなるとこの駅を利用する可能性が高い。そう踏んだ柳生は、まず駅で見張りをしようと決めたのだ。さすがに自宅周囲というのは、リスクが高い。
 柳生が駅のモニュメントの傍に腰を下ろしてを待っていると、彼女が駅から出てくるのが見えた。
 彼が指示した通り、大きめのパンツに同じく大きめのパーカーを着て、ニット帽を被り、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いてきた。
「おはようございます、さん」
 彼の前にやってきたに、柳生はいつものように静かに挨拶をした。彼女は一瞬彼を一瞥し通り過ぎようとし、それから足を止め振り返って改めて彼を見た。
「……柳生くん?」
「はい」
 彼女は驚いた顔で、立ち上がった彼を見た。
 ヨーロピアンミリタリーのフィールドパーカーに、レイヤリングされたビビッドカラーのルーズなトップス、大きめのカーゴパンツ、眼鏡を外してニット帽を被った彼を、一目で柳生比呂士と分かる者は少ないだろう。
「えー、ぜんぜんわかんなかった!」
「わかるようでは変装の意味がありませんから」
 柳生は昨日、兄がいるというに、その服を借りて着て来るように指示を出した。ちょうどこうやって並んだ二人は、そろいのファンキーなスタイルで決めたカップルといったように見えるだろう。ウィンドウに映る二人の姿は、休日の町にすんなりと溶け込んでいた。
「……普段、そういう格好してんの?」
「するわけないでしょう。……変ですか?」
 彼が慣れない帽子をぎゅっと被りなおすと、はまじまじと彼を見て笑った。
「ううん、すごく似合っててカッコいいよ。中身が柳生くんだと思わなければね」
「それはどうも」
 柳生はを促して、駅のロータリーが見渡せるファーストフード店に入った。
 石倉の待ち合わせは、よっぽどのイレギュラーな場合でなければ大概10時以降であろうと、二人の意見は一致した。それで少々早めに駅で見張る事にしたのだ。
 ファーストフード店で窓際の席に陣取って、二人は外を眺めた。
「……緊張するなァ。尾行、なんて初めて」
「私もですよ」
 はホットココアを飲みながら、ふうっと息をつく。
 兄から借りてきた服を着ている彼女は、普段よりずっと小さく見えてやけに可愛らしく感じた。普段はピリリとしていて隙のない、あまり『可愛らしい』といった表現のそぐわない彼女なのだけれど。
「こういうのってさ、ああ、部室に忍び込んだのもそうだけどね、もし私一人でやってたら、単に別れた男へのストーカーなんだよね。それが、柳生くんが一緒だと『捜査』だもん。何でも言い様だよねえ」
 おかしそうに言う彼女を見て、思わず柳生も笑った。
「確かにそうですね」
「まあ、ともかく今までありがとう。きっと今日で一気に事件解決ね」
「……まだわかりませんよ。ターゲットを補足するまでは油断できません」
 彼は言ってポケットの懐中時計を取り出すと時間を確認した。
 そして顔を上げて外に目をやると、ロータリーの向こうからタイトなダウンジャケットにジーンズの長身の少年が歩いて来るのが見えた。
「……さん、あれ……」
「来た!」
 それは紛れもなく石倉尚之で、二人はあわてて店を出た。
さん、帽子帽子!」
 店内では暑いからといって帽子を脱いでいたが、慌ててニット帽を目深に被る。
 石倉の後をついて、二人はトラムカードを使って改札を抜けた。上りのホームに立つ。時刻表を見上げる石倉の視線が、一瞬二人の姿を通過したけれどまったく気にも留めないようだった。
「……帽子って、こういう場合必須なの? 私、髪がペタンコになるからあんまり被りたくないんだよねぇ」
「必須ですよ。帽子のあるなしで人の印象はかわりますし、上着ひとつでも随分違うものです」
「へえ。柳生くん、推理小説だけじゃなくて変装なんかにも詳しいんだ」
「まあ、それに関してはトリックスターが友人にいますからね」
 は感心したようにため息をつくと、柳生の体の陰から、ちらりちらりと石倉を眺めていた。きっとあの明るい色のダウンジャケットは、冬の休日、と会う時にもよく着ていたものなのだろう。ふと、そんな事が頭をよぎった。
 上りの電車は、幸い混雑しすぎてもいないし空きすぎてもいないといった状態で、二人は同じ車両の少し離れたところから余裕たっぷりに石倉を見張る事ができた。
 石倉は時折携帯電話をちらりと見たりしながら、扉の近くに立って外を見ていた。
「……まだ、降りなさそう?」
 小柄なは乗客の影で石倉が見え難いのか、時に心配そうに柳生に尋ねてくる。
「まだですね。私からはちゃんと見えているから大丈夫です」
 その度、彼は彼女の耳元で小声でささやいた。電車が進むにつれ、の緊張が増してきているような気がする。
 そんな彼女の顔を上から見下ろしていると、柳生の頭には不意に昨日彼が勝手に奪い取った『報酬』がフラッシュバックする。彼女は結局、あの件に関してはあれ以上なにも彼に問い詰めも、責めもしなかった。フィリップ・マーロウで納得したわけではないだろうけれど。
 次に停車する駅名が告げられた時、石倉の頭がぴくりと動いた。そして、開く方のドアに向かって移動してゆく。柳生はの上着をつかんで、降りる合図をした。
 そこは多くの人が降車をする賑やかな街に位置する駅で、ホームは一段と人が多くなっており、人ごみの中で石倉を見失わないように駅を出るのに一苦労だった。改札を抜け、駅の前から続く通りを歩いてようやく一息入れる。この先の通りはファーストフード店やカフェが多い。おそらくそのどこかで、石倉は相手と待ち合わせをしているのだろう。
さん、行きますよ!」
「……うん」
 人ごみに飲まれないよう、柳生はの背を押して歩くスピードを速めながら石倉の後を追う。駅の近くにはカフェや雑貨屋、古着屋などが並んでいて待ち合わせ後のデート場所には事欠かないだろう。まだ準備中のトラットリアなどの前をどんどん歩いて、石倉が先のT字路を曲がってゆく。見失わないようにと、更に足を速めると、の気配がない。
 振り返ると、彼女は通りの真中で足を止めていた。
さん、見失ってしまいますよ!」
 彼がせかしても、彼女はそれ以上動こうとしない。
 やれやれと、彼は人の流れに逆行して彼女の立っているところまで戻った。
 は石倉の消えた路地を見つめながら大きく肩を揺らして深呼吸をして、つぶやいた。
「柳生くん、ごめん。もう、いいの。彼がこれから会うのは、一条利江だってわかってるから」
 彼女の言葉に、柳生は目を丸くした。
「……わかってる、とは……」
 往来で立ちすくむ彼女を、ひとまず柳生は通りの脇のベンチへ引っ張っていった。
「尚之と付き合い出したのはね、元々は利江の紹介だったの。彼女、チア部だからそれで尚之とは知り合いだったみたいで、私を紹介して欲しいって彼に言われたんだって」
 柳生が買ってきたホットの紅茶を飲みながら、はゆっくり話した。
「最初は私も気付かなかったんだけど、多分、利江は私に紹介する前から尚之が好きだったんだと思う。それから二人に何があったかは知らないけど、とにかく去年私と尚之は『距離を置く』って事になって、ああ多分、利江とつきあう事になったんだろうなって思った。それは単なる勘だけど。でね、月曜日、たまたま部室棟の近くで尚之と利江が話してるのを見かけたの。勿論、二人が話す事ってそれまでも何度もあって珍しい事でもないけど、なんていうんだろ。空気が、それまでと違うんだよね。ああ、二人は良い感じなんだなって。そういうのって、なんとなくわかるじゃない。まあそういう事があったから、あの日は私もクサクサして生徒会資料室で寝てたら『イヤイヤ』なんて始まるもんだから、気が立ってるのもあってあんな風に怒鳴ったりしちゃったわけ」
 彼女はそういってクスッと笑った。
「……だからそうやって本当は私、利江の事はだいたい分かってたんだけど……私の思い込みだけじゃなくて、誰から見ても動かない事実として『尚之と利江はつきあっている』っていう宣告が欲しかったんだと思う。尚之が私に告げる気がないのなら、さっさとこっちからちゃんとその事実にたどり着きたくて、柳生くんにあんな風に頼んじゃった。ほんとあの日にあんなタイミングで私と出くわしちゃって、柳生くん運悪かったよね」
 言い難そうにしながらもゆっくりと話す彼女に、柳生は軽く肩をすくめて見せた。
「何て言うんだろ。尚之に振られて悲しいとかじゃなくて……ああ、もちろんそう思ってる時期もあったけど、一番やりきれないのは、自分がいらない女になったんだなって事。利江は必要だけど、私は必要じゃない。直接彼のそういう顔を見てそういうのがはっきりわかったら、もっとすっきりするかと思ったけど、もうこれくらいで十分。柳生くん、無駄な捜査につきあわせちゃってほんと、ごめんね」
 柳生は上着のポケットから眼鏡ケースを取り出して、いつもの眼鏡を身につけ、じっと彼女の顔を見た。
「いえ、あなたはそれほど愚鈍な女性ではありませんからね、彼のお相手の女性についてある程度心当たっていただろう事には、私はさほど驚きませんよ」
 彼の言葉に、今度はが少々目を丸くした。
「それに、あなたが諸々ご自分で納得されたのならば、この数日間の事はあなたにとって必要で有効な『儀式』だったのでしょう。私は無駄な時間につきあわされたとは思っていません。ご心配なく」
 は紅茶のペットボトルをぎゅっと握り締めながら、隣に座る柳生を見つめた。
「儀式、か……」
 そうつぶやくと、ごくんと一口紅茶を飲む。
「……ありがとう」
 彼女のその声は、賑やかな往来の中でしっとりと柳生の耳に届いた。
「で、どうしますか。『ヤッチマイナァー!』と行きますか?」
 彼が言うと、一瞬うつむいたは顔を上げて、くすっと笑った。
「だから、それは冗談だって。……ああ、そうだ、電話をするわ」
「電話?」
「うん、尚之に。……多分、尚之もいろいろ悩んでたんだと思う。私も利江も傷つけたくなかったんだろうし。まあ、男の子って優しいけど不器用でずるいから、しょうがないよね」
 はポケットから携帯電話を取り出してボタンを押した。
 彼女が受話器を耳に当てて、しばらくして相手は出たようだった。
「ああ、もしもし、尚之? 久しぶり。今、ちょっと良い? うん……。ああ、すぐ済むから。あのね、いろいろ考えてたけど私ももう面倒くさいし、尚之とはもうきっぱり別れたいと思うんだけど。距離をおくとかねえ、わけわかんないし、まだるっこしいじゃない。うん……、うん……、突然にごめんね」
 少し緊張しながら話していた彼女が、だんだんと穏やかな表情になってきた。おそらく、電話の相手の安堵が伝わってきたのだろう。
「うん、大丈夫……ええっ!?」
 不意に彼女が驚いた声を上げる。
「なに、仁王くん? 違うよ、別に仁王くんとつきあってないよ、なにそれ? なんで仁王くんが出てくんのよ。別に私、そんな捨て鉢になってるわけじゃないんだし」
 驚きつつもおかしそうに笑う彼女の言葉に、柳生は学食で石倉と食事をした時の会話を思い出した。仁王の姿で、に気のあるそぶりでカマをかけたとき、石倉はひどく心配そうな顔をしたっけ。
 柳生は、の手から電話を奪い取った。
「ああもしもし、私、3年A組、出席番号20番柳生比呂士です」
「ちょっと、柳生くん、何すんのよ!」
 あわてて電話を奪い返そうとするを、柳生はその長い手で軽くあしらった。
「はい。石倉くん、このたび、私がさんとお付き合いさせていただく事になりましたので。はい……ええ、ご心配なく。はい、それではごきげんよう」
 それだけを言うとピッと電話を切って、彼女に返した。
「えっ、切っちゃったの!? 何なのよ、柳生くん!」
 彼女は面食らった顔で電話を受け取った。
「カチコミへの加勢です。石倉くんは少々驚いてはいたようですが、随分ほっとした声でしたよ」
「……あっ、そう。……探偵の業務はほんっと幅広いのね」
 は呆れたように彼を見上げながら、ため息をついて電話を仕舞った。
「ああ、今のは探偵業務ではありません。あくまでも、私の個人的な意向ですから」
 彼がさらりと言うと、はぎょっとして顔を上げる。
「……ええっ、柳生くん、今のマジ!?」
「ええ、まあそういう事ですね」
 相変わらずの慇懃な調子で言う彼を、は胡散臭そうにじろじろと見た。
「だって柳生くん、柳生くんは私みたいなタイプぜんぜん好きじゃないでしょ?」
「好きなタイプかどうかと言われたら、確かに好きなタイプではありませんね。けれど、この数日あなたと過ごすのは思いのほか楽しかったですし……」
 柳生はその大きな手を自分の胸にあてた。
「この捜査が終れば、あなたとくだらない話で笑ったりする事もないのかと思うと、私のここはひりひりと寂しい。だから、多分私にはさんが必要なのだと思います」
 は、やけに照れくさそうな顔で帽子を脱ぎ、落ち着きなさげに髪をかきあげた。
「なんか告白にしては、慇懃無礼なんじゃない」
「……そうですか。でもさんも、少なくとも私を『話してみると結構面白くていい人だし、割と好き』くらいには思ってくださっているのでしょう?」
 彼の言葉に、は息を呑む。
「なにそれ! 仁王くんが言ってたの!?」
 柳生は再度眼鏡をはずし、帽子を脱ぐと、くしゃくしゃと髪をかきまわして毛先を立たせニッと笑い、『なんじゃ、は柳生が苦手か?』と仁王の声色で言って見せた。
「えー!」
 は声を上げて彼をじっと見ると、次はくっくっと笑い出した。
「柳生くん! 柳生くんって、実はエセ紳士だったのね」
「さあ、どうでしょうか」
 髪を直して眼鏡をかけた彼も、くすっと笑った。
 立ち上がって、彼女に向かって手を差し出す。
「せっかくの休日です。私たちもゆっくりしましょう」
 眼鏡越しの彼の目を、はじっと見て、そしてその手をぎゅっと握った。
 初めて触れる彼女の手は、冬の外気のためかひんやりしていて、けれど彼の大きなそれを握り締める力は存外しっかりと強かった。
 彼女の手をひいて、柳生はその賑やかな通りを歩いてゆく。
 道すがら、街路樹の間のゴミ箱に柳生はポケットの中のプリクラシールをひらひらと放った。
 二人は路地を、石倉が行ったのと反対方向へ曲がる。

(了)
「柳生比呂士の憂鬱な日々」

2008.1.30




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