柳生比呂士の憂鬱な日々(4)



「おぅ、柳生、わざわざ持って来てくれたんか。悪いのぅ」
 朝、授業が始まる前に柳生はB組の仁王のところに、貸す約束をしていた本を持って行った。クロフツの「樽」など、古典ミステリーを数冊。
「いいえ、どうせ隣ですぐですからね」
 言いながら、彼はちらりと周囲を見渡す。丁度その時、二人の傍を石倉が通った。
「よぉ、石倉、今日は珍しく遅いんじゃのぅ」
 仁王が親しげに挨拶をした。
「ちょっと寝坊しちまって。おっ、柳生!」
 爽やかな笑顔を彼に向けて、軽く手を上げて見せた。柳生も微笑んで、おはようございます、と返す。石倉は仁王の斜め前の席に座った。
 仁王は柳生から受け取った本を鞄に仕舞い、立ち上がった。
「……で、柳生。俺に言いたい事があるんじゃなかか?」
 そして、にやっと笑う。
 柳生は眼鏡をくいっと持ち上げて、軽く頷いた。

 柳生はとの顛末について、一時は仁王にその全てを話して相談をしてみようかと考えた。彼ならば、の奇妙な脅迫をチャラにする何か上手い手を思いつくかもしれないと思ったからだ。
 が、元来律儀なところのある柳生は、一旦から石倉とのプライベートな話を聞いてしまうと、どうにもそれを自分の口から第三者に話すという事に抵抗があった。
 それで、結局彼はこの件を仁王に相談するという考えは却下した。
 そのかわり、一つ頼みごとをする事にしたのだ。

「珍しいのぅ。柳生の方から入れ替わりたいなんて言い出すなんざ」
 男子トイレで、仁王は柳生から眼鏡を受け取り、くすっと笑って言った。
「ウチのクラスに好きな女でもできたんか?」
「そんな事ではありませんよ」
 髪を、仁王のそれように軽く立ち上がらせながら柳生はさらりと答える。
「まあ、いいさ。お前さんが何も言わんのなら、俺も何も聞かんぜよ」
 眼鏡をかけた仁王は、鏡の前で表情を作りながら静かに言う。
「……ありがとうございます」
 柳生は、仁王のこういうところがとても好きだった。



 仁王と入れ替わった柳生は、この日はB組で存分に石倉を観察する事にしたのだ。
 教室での石倉は、人気者らしく友人は多かった。もちろんその中には女子生徒も多く、柳生は注意深く観察していたが、特別な親密さを匂わせるような相手はざっと見たところいないようであった。女子生徒の方では、石倉に思いを寄せているのか積極的に話し掛ける者もいたが、石倉は明るい調子であしらっておりそのような女子生徒の中に特に興味を持っている相手がいる様子もない。
「石倉くーん、とは別れたって? 何、やっぱり、性格キツいから?」
 彼ととの事は、彼を取り巻く女子生徒にとってはホットな話題らしく、今日柳生が聞いていただけでもざっと4〜5回は尋ねられていただろうか。
 その度の石倉の返答の概要は、こんなところだ。

・ 別れについて、否定も肯定もしない
・ 新しい恋人の存在について、否定も肯定しない

柳生はそんな彼の態度がどうも釈然としなかった。からの話でもそうなのだが、おそらく石倉がすでにに気持ちがないというのは明らかだろう。だとしたら、なぜ別れを明確にしないのか。はっきりとした性格に見受ける石倉の印象からすると、少々違和感がある。が柳生に石倉の話をしながら、なんでもないように振舞いつつ時によぎるふっと寂しそうな表情からは、彼女自身もすでに恋の終結を覚悟しているように思えた。だったら、『距離を置く』などといった形ではなく、きちんと終わりを告げられた方が、も楽なのではないだろうか。
 斜め前の石倉を見ながら、柳生はそんな事を考えるのだが、しかしそのあたりの事情は探偵には関係のない事だった。

 昼休みになるやいなや、柳生はすいっと立ち上がって石倉の席に近寄った。
「おぅ、石倉。学食、行くじゃろ?」
 彼がいつも食堂で昼食を取るという事は、調査済みだ。
「今日は仁王も学食か?」
 柳生が頷くと、石倉は笑いながら立ち上がった。
「よし、じゃ行くか」
 二人は連れ立って学食へ向かった。
 食堂の奥のテーブルで、二人は向かい合って日替わり定食をかきこむ。
「しかし、あれじゃな。石倉はモテるから、大変じゃのぅ。と別れたからって、女が寄ってきてばかりじゃ」
 軽い調子で言ってみて、そして柳生は石倉の表情を観察した。石倉は苦笑いをして、彼を見た。
「仁王ほどじゃないだろ。仁王は、今は彼女いねぇの?」
 期待はしていなかったものの、柳生は内心落胆のため息をついた。石倉はとの事を、他人に話す気はあまりないようだった。
「俺か? どうじゃろな〜」
 仁王のいつもの調子で答えて、笑った。
「石倉がと切れとるんじゃったら、を狙ろぅて見てもええかのぉ」
 冗談めかして言ってみる。
 すると、石倉は一瞬真剣な表情になって、そしてまた穏やかに笑った。
「仁王かぁ。仁王は、女と長続きしねぇだろ?」
 柳生は彼の口調と表情が、少々意外だった。
 言外に『いいかげんな気持ちで手を出してくれるな』という空気が読み取れたからだ。
 柳生は、にも話した通り、男女の機微のその実際について詳しい方ではない。
 だから、明らかにから手を離していながら、どこか彼女を気に掛けているような石倉がよくわからなかった。そういえば石倉は、女子生徒たちから、どのように誘導されても一言も彼女を悪く言う言葉は発さなかった。
「……石倉は、新しい女とは長続きしそうなんか」
 柳生の誘導に、石倉はまた苦笑いをして水を一口飲んだ。
「新しい女? さあ、どうじゃろな〜。おっ、これ、仁王っぽい?」
 笑いながら、あいかわらずののらりくらり。



 石倉と学食で別れて、柳生は購買でノートを買った。
 今日の石倉の様子を整理してみる。確かに、女性とのつきあいについてあまり他人に言いたがらない人間というのも多い。石倉の印象からして、そういうタイプには見えなかったので、少々意外な気がした。どうも彼は、ちょっとやそっと話したくらいでは、そういった事を打ち明けはしないようだ。
 それにしても果たして、事実はどうなのだろうか。
 石倉には、新しい女がいるのかいないのか?
 彼の口ぶりからすると、いないようにも思えるし、いるようにも思える。
 単純な調査だと思っていたのに、想像以上に真実をつきとめるのは難しい。
 そんな事を考えながら廊下を歩いていると、ちょうどに会った。
 知らん顔をして通り過ぎようと思ったのだが、ふと、柳生にちょっとした悪戯心が芽生えた。
「よぅ、
「ああ、仁王くん、なに?」
 声をかけると、彼女は顔を上げて立ち止まった。その、リラックスしたような穏やかな表情がちょっと意外だった。彼女は気の置けない友人なんかには、こんな顔を向けるのだろうか。
「これ、柳生に渡しといてもらえんか」
 柳生は先ほど買ったノートを差し出した。
「……いいけど」
 はそれを受け取りつつ、意外そうに彼を見上げてからノートに一瞥をくれた。
「柳生くんか……」
「なんじゃ、は柳生が苦手か?」
 彼が問うと、はノートを口元に持っていってくすっと笑った。
「うーん、苦手……じゃないけど、まあちょっと説教くさくて姑みたいだしね。今、私の前の方の席なんだけど、元々体が大きいのに授業中めっちゃめちゃ手を上げるから、すんごい目に入ってきちゃってそれもちょっとウザい」
 自分が聞き出した事とはいえ、さすがに柳生はムッとした。
 バカみたいな事で脅迫をして面倒な事を依頼しておいて、ウザいとは! 思わず、『それが、クラスメイトに対する言い草ですか!』と言いたくなったが、堪えた。
「でもね」
 は笑いながら、続けた。
「正直、苦手だなーって思ってたけど、話してみると結構面白くていい人だし、割と好きよ」
 私はあなたを相変わらず苦手だし、強引なやり方で面倒な事を頼んでくるし、まったく好きではありませんよ。
 柳生は心の中でそう返してみたが、ノートを手にしながら相変わらずおかしそうに笑うから目が離せなかった。彼女が、こんな風に素直に物を言うのかと、意外だったのだ。
「……なら、ええんじゃが。じゃ、頼んだ」
 柳生は、仁王スタイルの髪をクシャッとかき回すと、彼女に手を振って教室に戻った。

 午後には仁王とお互いそれぞれに戻る約束でいたので、柳生は馴染み深い自分の眼鏡をかけて、自分の教室・自分の机で、ほっと一息ついていた。
「ああ、柳生くん、これ」
 すると、がやってきた。
「仁王くんが、柳生くんに渡してくれって。預かった」
 先ほどのノートだ。彼が午後に使おうと思って買った物。
「ああ、ありがとうございます」
 柳生は慇懃に礼を言って受け取った。
「……なに?」
 じっと彼女を見上げる柳生を、は怪訝そうに見下ろす。
「……私があなたの前の方の席で挙手をすると、ウザいですかね」
 静かに言うと、は慌てたように口元を押さえる。
「ヤダ、それ、仁王くんが何か言ってたの? あのね、ウザいっつーかね、ほら私が黒板見てると、ちょうど前の方にいる柳生くんが目に入っちゃうからね、ちょっとそれで。ごめん、でも気にしないで」
 その慌て方が予想外で、柳生はつい笑ってしまう。
「仁王くん、他に何か言ってた?」
 やけに真剣な顔で言ってくるを見上げて、柳生はふっと笑いながら眼鏡の位置をなおした。
「いえ、他には何も」
 は露骨にほっとした顔をする。
「あー、ええと、柳生くん」
 彼女は柳生の両隣がいないのを確認して小声で続けた。
「この前は言い損ねたけど、あの、席、替わってくれてありがとう。助かった」
「いえ、まあ礼を言われるほどの事ではありませんが。……おおよそ48時間後ですか」
「は? なにが?」
「あなたのその言葉、席がえをしてから約48時間後にようやくですね」
 彼が言うと、はため息をついて眉をひそめ、しばし間を置いてから苦笑いをする。
「だから、そういうところが姑みたいなんだってば!」
 そう言いながらも、おかしそうに笑って手を振って自分の席に戻って行った。
 ありがとう、か。
 彼女の言葉を反芻しながら、柳生も自分の席で小さく笑った。

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2008.1.26




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