柳生比呂士の憂鬱な日々(1)



 昼休みの生徒会資料室は、柳生比呂士にとって絶好の読書の場所だった。
 休み時間になど滅多に人の来ないこの部屋の、書庫の奥に設置してある資料閲覧用の椅子にゆったりと腰掛け、彼はいつものように本に集中する。彼の手元の推理小説に登場するベルギー人のちょび髭の探偵は、今まさに灰色の脳細胞を駆け巡らせ、名推理を披露するところだった。
「あっ、いや……いや、あ……。んんん、いやっ……」
 その場面に全く不似合いな女性の声のその効果音に、柳生は思わず本から顔を上げる。
 声のする方にそうっと顔を向けると、壁にもたれた女子生徒の首筋に男子生徒が顔を埋め、その手を今まさにスカートの中にしのびこませているところが、書庫の隙間から見えた。
 いつの間に二人がいたのか、気付かなかった。
 おそらく彼が本に集中している間に、入室してきたのだろう。
 聞こえるのは、女子生徒の『いや』という言葉ではあるが、それが本来の意味ではなくこれは二人の合意の行為である事は、さすがに彼にも分かる。
 彼は肩をすくめて一瞬考えるが、ここは何かわかりやすい物音でも立て、人がいるのだという事を彼らにさりげなくアピールし、自主的に退室いただくというのが穏便で妥当な方策だろう。そう考えた柳生が、咳払いでもしようかと軽く息を吸い込んだ時。
 ガタン、と何かの倒れる大きな音がした。
「イヤならやめとけ、うるせー!」
 そして怒鳴り声。
 書庫の隙間から見える二人は、飛び上がらんばかりに驚いて、まず女子生徒が逃げるように部屋を走り出るのを男子生徒が慌てて追いかけていった。
 物音に驚いた彼が思わず書庫の間から顔を出すと、倒れたパイプ椅子が目に入る。
 そして、ミーティングテーブルの壁際に並べた椅子から体を起こし、鼻白む様の生徒。
 柳生は立ち上がって歩き、倒れた椅子を持ち上げた。怒鳴り声の主は、目を丸くして彼と目を合わせる。
「……びっくりした、柳生くんか。いたんだ」
「……あまり、お行儀がよくありませんね、さん。そんなところで横になっているとは」
 声の主……は彼のクラスメイトだった。
 特に親しいわけでもない、まさに単なるクラスメイトとしか言いようのないクラスメイトであるが。
 尚、先ほどの男女もクラスメイトで顔見知りだが、同じく単なるクラスメイト。
「……昼寝してたのよ。ここ、昼休みなんか滅多に人来ないでしょ。いい感じで寝てたのに、いきなりあんな声で起こされたらたまんないよね」
 彼女は伸びをして、床に放り出していたローファーに足をつっこむ。すっかり目がさめてしまったようだ。
「お気持ちはわかりますが、女子の言葉遣いとしてあれは少々はしたないですね」
 開いたまま手にしていた文庫本に栞をはさみながら彼が言うと、両方の靴を履き終えた彼女は、眉をひそめてキッと柳生を睨んだ。は整った眉に大きな目の華やかな容色の少女だった。そんな目で睨みつける事が、それなりに迫力を持つと彼女自身もわかっているだろう。
「じゃあ何、こんなところでいちゃいちゃするのは、はしたなくないワケ?」
 柳生を睨みつけたまま、彼女は軽く頭を振ってその明るい色の髪を整えた。
「勿論、感心できる事ではありませんね。ただ、私が今直接ご意見できるのは、目の前にいるさん、あなたしかいませんから」
 は脱いでいたジャケットに袖を通すと立ち上がった。
「あそ。じゃあ、もう消えるから、ご意見は無用! じゃあね!」
 腹立ちを隠さない声で言うと、彼女はさっさと資料室を出て行った。
 ようやく部屋に一人になった柳生は大きくため息をつき、彼女が使っていた椅子を整えてテーブルの中に仕舞った。
他人の感情の昂ぶりに巻き込まれるというのは、彼の好むところではなかった。例の『いやいや』も、の怒鳴り声も、柳生にとっては災難としか言いようがない。
 そもそもこの資料室で昼休みに彼以外の人間が訪れるというのが、非常に珍しい事だったのだ。そこにクラスメイトが4人居合わせるとは。
 まあ、今日の彼以外の利用者も、その使用目的からして滅多に人が来ないという理由でこの部屋に白羽の矢を立てたのだろうから、ありえない事ではないのだが。
 彼は再度ため息をついて、ゆっくりと部屋を出た。

 一月に入ったこの時期、三年生である柳生比呂士は他の多数の生徒と同様、部活動も引退し、間もなくやってくる受験の準備に入っている。とは言っても、自己管理の下トレーニングも続けているし、学校の成績も常に上位をキープしている彼は、高等部への内部進学にさして特別に準備する事もない。春までのしばしの間、彼はゆっくりと自分の時間を楽しむ事にしていた。高等部へ上がれば、またテニス部に入る予定であるしそうすれば今まで以上に多忙になる事は目に見えていたからだ。
 そんな彼にとって、勉学の合間に好きな本をゆっくりと読むというのは非常に心癒される貴重な時間だったのだ。そういった時間を邪魔された本日の昼休みは、業腹だと言えなくもないが、あの資料室は彼のプライベートなスペースなわけでもないし、本日居合わせたそれぞれにとって災難な事であったには違いない。生来穏やかな性質の彼は、そうやって自分の気持ちを落ち着かせ、今日の事はすっぱりと忘れようと気持ちを切り替えて午後の授業を迎えるために教室へ向かった。
 決して気持ちの切り替えが不得意ではない彼なのだが、どうにも昼休みの出来事をフラッシュバックさせる事がその日に起こった。
何と言う事のない、ホームルームの席がえでなのだが、彼が新しい自分の席に座ると、その前方に、例の『いやいや』の男女が席ひとつ分を隔てて隣同士になっていた。
 それだけならば、単にああ席が近くて良かったではないか、と思うだけなのだが、何気なくその間の席を眺めていると、その前にためらいがちに立ったのは、だった。あの時、豪胆に怒鳴った彼女だが、さすがに相当に気まずそうにしている。それはその両側の二人にしても同様だった。
柳生は自分の席から、前方のその三人をしばらく観察し、軽く肩をすくめると立ち上がって三人の元へ向かった。
さん」
 腹を決めたようにその席に座ったを、上から見下ろして静かに言った。
「私は目が悪いので、もしよろしければ、席をかわっていただいてもよろしいでしょうか。私の席はあちらなのですが」
 は彼が指した方を振り返り、そしてすぐに立ち上がった。
「……うん、わかった」
 おそらく柳生の席がどこでも関係なかっただろう。
 彼女はすぐさまその場を立ち去り、そして柳生は『いやいや』カップルの間の席に腰を下ろした。
 彼は今日、二人に姿を見られていないし、特に彼はその席に抵抗はなかった。
 


 その日の放課後、柳生は市営の図書館に寄ろうか、まっすぐ家に帰って本を読もうかと考えながら校門へ向かっていた。マフラーを巻いて、大きく息を吐くと眼鏡が曇ったので、彼はマフラーをきゅっと引っ張り下げて位置を調節した。そんな事しながら歩いていると、自分の名を呼ぶ者があった。
 足を止めて振り向くと、それはであった。
 彼と同じく、学校指定のマフラーを口元近くまで巻いて立っていた。
 相変わらず強い目をしているが、そこには昼間に資料室で別れた時のような苛立ちは見受けられなかった。彼女が柳生を呼び止める用件については、なんとなく予測がついた。おそらく、席がえの件についての一言であろう。
 彼は礼を言われるつもりはなかった。
 自分の目の前で気まずそうに苛立つ人間がいて、それが終始視界に入るくらいなら、特に気持ちをかき乱される事のない自分が成り代わった方が良い。そう思っただけなのだから。
 何かを言われたら、そう返そうと思いつつ、『はい、なんでしょう』と答えると、彼女の言葉は、柳生が予測していたものとは違った。
「柳生くん、今日資料室であの子たちがいちゃついてんの、黙って見てたでしょう。私が怒鳴らなければ、あのまま続けてただろうしね。はっきり言って、のぞきよ、アレ」
 はにこりともせず、彼を見上げてきっぱりと言うのだった。
 柳生は冷たい北風が襟元に侵入する事も気にせず、思い切りマフラーを緩め、クリアになった眼鏡の奥から彼女をじっと見返した。

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2008.2.23




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