私は今までそもそも仁王くんを視界に入れる事はほとんどなかったのに、彼とのその出来事があってから、
『あれが彼女でもない女の子とキスをする男!』
という恐いもの見たさがあり、どうにもちらちら見てしまうようになった。勿論接触自体はそれまでよりも更に避けたいものだから、それでうっかり目が合おうものならば、まさに恐怖に近い感覚で顔をそらして、彼を見てしまった事を激しく後悔する。
よくある「好きな人をついつい避けてしまう」というのじゃなくて、本当に私は心から彼が苦手で、避けたいのだ。
彼はそんな私を面白がるように、傍を通るとわざわざ挨拶をしたり(それまでした事なかったくせに)、意味もなく声をかけてくるようになった。
多分、からかっているのだろう。
本当に変わってて、嫌な感じの人だ。
こういうのは無視無視。
こっちが相手にしなければ、きっとすぐに飽きてくれる。
私はその日の朝、今日一日一度も仁王くんと目が合わなければ良い、と思いながら廊下を歩いて自分の教室に向かっていた。
そしてある場所になると、歩くスピードをゆっくりと落としてゆく。
四組の前だ。
「……おはよう」
私はすまして歩きながら、今気が付きました、という感じで挨拶をする。
その相手は、廊下で友達と話している四組の佐橋くんだ。
「あ、おはよう」
彼もふっと口元を緩めて挨拶をしてくる。
私はそれだけでそこを通り過ぎ、自分の教室に向かう。
佐橋くんは前に同じクラスだった事のある剣道部の男の子。
黒目がちな目がくりくりとした、大人しくて真面目な男の子で。
私がずっと片思いをしている男の子だ。
彼は四組で、いつも朝、廊下で男の子の友達と話している。
私は朝、そこを通って彼に『おはよう』って挨拶をする。
それだけの事が私の毎日の活力で、そして一日で一番大切な行事だった。
私が彼の「おはよう」を頭の中で反芻しながら歩いていると、後ろから誰かが近づいてくる気配。
嫌な予感がして、ちらりと振り返ると仁王くんだった。
「おう、、おはよう」
「……おはよう」
私もひとまず挨拶を返した。
「なあ、。お前さん、佐橋の事、好いちょるんか?」
おはようという挨拶と変わりないくらい平然と言う彼を、私は息を飲んで見上げた。
そして、彼の制服の袖をつかんで、廊下の人気のないところまで引っ張って走る。
「突然、何を言うのよ!」
私は多分顔が真っ赤になってたんじゃないかと思う。
「いや、だって、そうじゃろ?」
私の頭の中では、もういろいろな事がかけめぐった。
どうしてわかるの。
どうしてそういう事言うの。
本当にこの男は!
「……どうしてそう思うのよ」
私が騒げば、また仁王くんは面白がるだけだと思って必死に冷静を装って尋ねた。
「どうしてもなにも、、お前、わかりやすすぎじゃ。さっき挨拶するの見ちょったら、あー、は佐橋が好きなんじゃろなって一発でわかった」
彼のその言葉に、私は若干のショックを受ける。
「……マジで? すぐ分かった?」
「ああ」
彼は得意げに大きく肯いた。
「……佐橋くんにもバレてると思う?」
私が思わず尋ねると、仁王くんは笑う。
ちょっと不思議だ。
仁王くんは、付き合うつもりのない女の子とあんなどぎついキスをするような、ヘンな男の子なのに、目はすごくきれいで笑顔もすごく優しい。まあ、だからモテるんだろうなあ。
私はこんな時なのに、ふとそんな事を考えてしまった。
「さあなぁ、まあ、あいつにはバレちょらんのじゃないか?」
彼がそう言うので、私はほっと胸をなでおろす。
「ほんと?……よかった」
「よかったって、お前さん、ずっと片思いしちょるつもりなんか?」
彼は不思議そうに私に尋ねてきた。
「……そういうわけじゃないけど。まあ、なんて言うかねえ、なかなかきっかけがねえ」
「まあ、そうじゃろうなあ。しかしそんなにガキじゃ、いつまでたっても彼氏できんぜよ」
仁王くんの言う事はもっともではあるんだけど、当然ながら私はムッとする。
「仁王くんには関係ないじゃん」
しかし、まさにそんな子供みたいな事しか言い返せない。
「……お前さんに彼氏ができるよう、俺がちょいと協力しちゃろか?」
すると彼はそんな事を言い出すのだ。
「ノーサンキューでシルブプレ!」
私は、ついつい最近の兄の口癖を発して、その場を走り去った。
これ以上、仁王くんに面白がられてたまるもんですか。
背後では仁王くんが声を上げて笑っているのが聞こえる。
まったく、ヘンな人だ!
しかしその後、ちょっと意外な展開が私を待っていた。
私が、仲の良い友達の美紀と一緒に下校をしている時だった。
彼女がこう言い出したのだ。
「……あのね、私……実は仁王くんの事が好きなんだけど……」
美紀は突然に、思い切ったように私に言った。
私は驚いて彼女の顔を見る。
「多分は、仁王くんて苦手なタイプだと思ってたんだけど、最近時々仁王くんと話してるでしょう? 同じクラスだしもしかして、結構仲良い?」
私は彼女の告白を驚いた顔のままで聞いていた。
「仁王くん? 美紀、仁王くんが好きなの?」
というのは、今まで彼女が好きになるタイプと仁王くんはかなりタイプがかけ離れていて、ちょっと驚いてしまったから。
「うん、そう。彼、人気あるから無理めだなーとは思うんだけど……」
美紀は恥ずかしそうに笑った。
「へえ、仁王くんかあ。私は……別にそんなに仲が良いわけじゃないけど、最近時々話すっていうか……その程度かなー……」
私が彼と話すようになったきっかけについては、さすがに美紀に言う事はできず、言葉を濁した。
「ほんと? 話しはするんだ? ねえ、休み時間とかにね、のクラス行っていい? そんでちょっとでも仁王くんと話したいなあ」
彼女はちょっと切なそうな、でもぱあっと嬉しそうな顔で言う。
いかにも恋をしてる女の子だなあっていう感じの顔。
「協力してっていうのは難しいかもしれないけど、が仁王くんと話してる時にね、私が遊びに行ったら、話に入れてくれたりすると嬉しいなあ」
彼女は可愛らしく言うのだ。
そりゃあ嫌とは言えない。
「……うん、私がいつも仁王くんと話せるかどうかはわかんないけど、努力する。遊びにおいでよね」
私はそう言ってしまった。
私はその日、いつもより少し早く学校へ行って、まだ部活の朝練をやっている生徒たちを眺めながら校庭を歩いた。武道場では剣道部の声が聞こえる。うん、佐橋くんの声もこの中に入ってるんだなあと、しばらく立ち止まって聞いていた。
美紀ちゃんの事を思い出した。
正直、仁王くんはおすすめかというと否という気分ではあるけれど、彼女のあの一生懸命な感じっていうのはやっぱりいいな、と思った。
やっぱり何か動かないとダメなんだ。
それをどうしたらいいのかが、私はさっぱりわからなくて。
もし少しでもそれが分かると言うのなら、やってみようじゃないの。
美紀のあの顔を思い出しながら、私は自分を励ますようにうんうんとうなずいた。
そして武道場を見て、『待っててよ、佐橋くん』、と誓うように心でつぶやいた。
が、まず私が向かうのはテニスコート。
ちょうど練習を終えたテニス部員達が、タオルを首に巻いてコートから出てくる。
いつもは避けたくて避けたくて仕方のない仁王くんを私が発見すると、向こうもすぐに私に気付いたようだった。少々驚いた顔で私の近くにやってくる。
「おう、どうしたんじゃ?」
いつも逃げるように目をそらす私が自らやって来たんだから、そりゃあ意外だろう。
「あのね、前、言ってた件」
「ああ?」
「……私に彼ができるよう協力するって言ってたじゃない。ちょっと頑張ってみようと思うんだけど」
私はぶっきらぼうに言った。
彼は嬉しそうにクククと笑う。
「おう、その気になったか。ええよ、作戦開始じゃな」
「よろしくお願いします」
そんなわけで、突如、仁王くんは私の恋の総監督となったのだ。
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2007.6.27