私を愛したスパイ(9)



 ロータス・エキシージのシンプルなシフトレバーは、榊氏の大きな手の平にすっぽりと包まれてしまう。
 その長くて美しい指で優しくレバーを握り締め、彼は軽快にシフトアップを繰り返した。
 夕暮れの首都高速は今のところ快適に流れている。
 私は助手席から、榊氏のなめらかなハンドル捌きを眺めていた。
 彼は理想的な回転数でシフトチェンジをする。シフトダウンのタイミングも絶妙だ。きっと、このエグゾーストノートも彼の頭の中では美しい音符の並びへと置き換えられているのだろう。
 榊太郎がシフトレバーを操作する余裕たっぷりの手首と指の動きは、まるでピアノを弾いているかのようで、それでいてやけに艶っぽかった。
 氷帝の校門を出てから首都高に入っても、彼は何も言わない。
 私はいわゆる尋問待ちの捕らわれのスパイなわけだけれど、もうここまで来たら腹をくくるしかなく、愛車の走りを助手席から楽しむ機会を甘受するばかり
 車内にかすかに漂う彼のスパイシーな香りのせいで、まるで自分の車じゃないみたい。

「ああ、そうだ、

 ようやく口をひらいた彼の言葉に、わたしはどきりとする。
 まるで私の本当の職場の上司のような口調で私を呼び捨てにするものだから。
 まあ、捕らえたスパイを今更先生よばわりする必要もないのだろうけど。

「私と、新任の右近先生はホモカップルだそうだな」
 
 トップギアに入れたまま、彼はピンキーリングが光る右手をこめかみに添えて、ちらりと横目で私を見た。
 どうやらレジェンド・オブ・ホモはあっというまに構築されたようだ。
 私は彼のその鋭い目で見つめられながら、思いがけない話題に当惑してしまう。
「……それ、私が言い出した話になっているんですか?」
「忍足の話しぶりでは、そのような感じだった」
 お・し・た・り〜。
 本当にどうしようもない奴だ。あの関西人め。
 ていうか、今はホモネタどころじゃないと思うんだけど。
 まったくこの男は何を考えているのかわからない。
 私を尋問する前フリなのだろうか。
「いえ、あの、誤解ですよ。私は、右近先生がホモっぽいと言っただけで、決して榊先生の事は一言も……」
 言い訳がましいが、とりあえず一応本当の事を言っておく。
 彼は私をじろっと見てから、前のトラックを追い越すためにシフトダウンし右車線に車線変更し加速をした。
「……まあ、いい。数年に一度、生徒達にそんな事を面白おかしく言われたりする事があるからな」
 さいですか。
 ああでも、お金持ちで男前でいい年してるのに独身て、確かにそんな噂を立てられがちかも。いや、実は本当にそうなのかもしれない。私の調査が不足なだけで。
 なんて呑気な事を考えつつ、私はシートに背中を預けて加速感を楽しんだ。
 運転席の榊氏の表情はやけに穏やかで、この軽量のスポーツカーのドライビングを心から楽しんでいるように見える。
 けれども、これが単なるドライブではない事だけは確かなのだ。
 車は東京湾の方へ向かっていた。まさかいきなり海に放り込まれるという事はないと思うけれど……。
 私の状況は最悪ではあるけれど、窓の外に見える暮れかけた東京の夜景は美しいばかり。
 東京タワーが赤く光って私を見守っていた。
 六本木を越えて首都高を降りると、私はだいたいの行き先に見当がついた。
 豊海水産埠頭だ。
 埠頭の先端付近まで車を走らせ、そこでようやく止まった。
 正面には竹芝埠頭の光、左手にはレインボーブリッジ。まあ、よくある男女のドライブコースだ。
 榊氏は運転席を出ると、手馴れたように助手席のドアを開け私をビューポイントまでエスコートした。
 彼はそこから満足そうに私のオフホワイトの車を眺めてから、海の方を見る。
 彼は何も、私にホモ伝説のクレームをつけるためだけに連れ出したわけではあるまいに、一体いつ肝心の事を切り出すのだろう。
 私はじりじりとしながら彼の言葉を待つ。
「……レユニオンで会った時……、資料の写真よりも髪が長かったので一瞬わからなかった」
 彼の静かな声に、私は目を丸くする。
 レユニオンで? 資料? どういう事?
「氷帝学園に入ってくる職員については、全員、我が榊グループの情報網を使って綿密に調査を行っている。勿論、私が個人的にだ。自衛のためなんでね、お許し願いたい。、きみと右近慎一郎は申し分のない履歴だが、私の目から見て明らかに不自然なタイミングの入職だ。それぞれ前任者には、不相応に待遇の良い職場からの誘いが来ていたからな。少々時間はかかったが、3月の間にきっちりときみ達の所属は明らかにさせてもらった。その時に報告された資料の写真が、おそらくきみが組織に就職した時の写真だったのだろう。今より若干幼くて髪も短くてね、女性は数年で変わるものなのだなと感心した」
 彼の言葉は私の頭からつま先をつきぬける。
 正体を見破られる事を、もちろんまったく想定していなかったわけではない。しかし、レユニオンで会った時からすでに身元が割れていたなんて。
 私は彼の言葉のどこからどう返せば良いか、考えを巡らせた。
「……写真よりもだいぶとうが立ってるとおっしゃりたいの?」
 かろうじてそんな事を言うと、彼は一瞬フッと口元を緩める。
「まさか。洗練されて美しくなっていると、驚いたんだ」
 海から吹いてきた少し冷たい風が私の髪をすくいあげ、私は片手でそれを軽く押さえた。
 一体彼は私をどうする? 甘い言葉は第一楽章で、徐々に死刑宣告を言い渡す?
 彼がその気ならば、私は明日から氷帝には顔を出せなくなるだろう。
「私と、あの跡部は若干特殊な立場だ。わかるだろう? それ故に学園内での自衛のため、こういった調査には力を入れている」
 そうか、跡部グループの情報網もかなりのものだと聞く。彼も私の身元など、簡単にたどり着く事ができただろう。
「セイレーンの事を……」
 私は彼の目を見据えながら、ようやく言葉を搾り出した。
「セイレーン?」
 彼は聞き返す。
「ああ、そういう名前で呼ばれているらしいな」
 あいかわらず表情も口調も穏やかだ。
「……L.M.M社のエージェントが血眼でその長距離音響装置に関する新システムの情報を探しているのだと、あなたもご存知でしょう?」
「ああ、私とホモカップルと噂のあの右近の所属が、L.M.Mなのだろう? 知っているとも」
 コンコンと右手の指でこめかみを軽く叩きながら言った。
 彼の背後には、レインボーブリッジの光が夜の空に徐々にコントラストを高めて行って、私はここでしている会話とこの状況とのギャップに戸惑ってしまう。
「そしてそれがL.M.Mに漏れた場合、どのように利用されるかも?」
「ああ。L.M.Mが何を生業にしている企業なのかくらい、当然知っている」
「……だったら……」
 私はぎゅっとガードレールを握り締めた。
「何か手立てを。私たちは、L.M.Mへ情報が漏れる事を全力で阻止したいと思っています。マーキュリー……右近慎一郎の諜報活動をなんらかの形で阻止する事はできませんか?」
「それは、私と手を組みたいという事か?」
 彼の言葉はあいかわらず、冷静だ。声はしっとりと甘いのに。
「……はっきり言うと、そういう事です。セイレーンに関する情報をある程度私たちに明かしていただければ、L.M.Mへの対策もより強化できます」
「が、それは彼らに情報のヒントを与える事にならないかね? きみたちの人員が強化されるところ、すなわち彼らの探すものがある」
 私は一瞬言葉につまってしまう。
「私自身、どの組織とも通じるつもりはない。私のやり方でやってゆくし、今のところセイレーンの情報は、奪われて他者に活用されるなどという事は不可能だ」
 セキュリティの万全さへの自信からだろうか。彼の言葉には余裕があった
 そして何より、自分で自分のやり方を貫く自信とプライドが感じられた。
「それに、私の権限で氷帝から右近を解任したとしても次のエージェントが送られてくるだけだ。何か徹底的な排除をしないと意味がないだろう」
 甘い声でつむがれる言葉は、ひとつひとつ冷静でそして正鵠をついており私は自分の考えが短絡的であった事を恥じてしまう。
 私はどうしたら良いのだろう。
 上司に報告し、任務交代を願い出た方が良いのだろうか。
 一瞬そんな弱気が頭をよぎった。
と右近の事については、当然私と跡部しか知らない。跡部には、きちんと言っておく。、きみは今まで通りに右近の動きを探り、諜報活動を続けるがいい。私は私でL.M.Mの動きを調べる」
 暗くなってきた空は、レインボーブリッジの明かりで少しグリーンがかった紺の部分から上空は群青で。
 街の明かりがまぶしすぎて、星は見えない。
 榊太郎は甘い声で、私を右近とともに学園内で泳がせると言っている。
 私に、選択肢はなかった。静かにこくりとうなずく。
「ああ、そうだ、ひとつ言っておく事がある」
 彼の言葉に、うつむいた私ははっと顔を上げた。
「私は、たびたび噂にはなっていても実際に男色というわけではない」
 は? と私があっけにとられている隙に、彼の右手の指がするりと私の首に添えられた。
 煌びやかな夜景は、軽くかがめた榊氏の顔でさえぎられ、バカみたいにうっすらと開きっぱなしだった私の唇には彼のそれが重ねられる。熱い舌の感触は一瞬で、体も合わせないまま彼は唇を離した。海の香りと彼の匂いが混じりながら、私の鼻腔をくすぐる。
 いつもきっちりと整えられている榊氏の髪を、海風がほんの少し乱す。彼はそれを直す事もせず、右手を私の首から背中に滑らせて再度くちづけた。
 今度のキスは最初のそれよりもだいぶ長くて、私は思わず目を閉じる。私の漏れ出る声は、彼の頭の中でどんな楽譜になっているのだろう。

Next

2007.12.12




-Powered by HTML DWARF-