私を愛したスパイ(10)



 往年のスパイ映画ならば、きっと豊海水産埠頭での私と榊太郎はなまめかしい音楽とともにフェイドアウトして、次のシーンは彼のマンションのベッドの中、といったところだろう。
 が、私の上司は『任務に色仕掛けはご法度』の主義を持つ男なので、私の仕事にそういった展開はありえないのだ。
 なんて言うと、まるで私が榊氏に対して終始毅然とした態度で臨んでいたかのようだが、まあ正直なところ、埠頭であのキスをした後、『ああ、学校の門が閉まると守衛を呼び出さなければならなくなるから、そろそろ帰るか』と彼があっさり車を学校に向けたというだけなのだけど。
 そんな事のあった翌日、私は保健室で極めて不機嫌なまま仕事をしていた。

 とにかく、何もかもが最悪だ。
 私の正体が榊氏のみならず、跡部にまでばれている事。
 その上で泳がされたまま、任務を続行しなければならない屈辱。
 しかも、正体が割れたと上司に報告する事を、榊氏から禁止された。
 彼はあくまでも、私に今までどおり動けというのだ。
 彼が言うに、私がそれを報告する事でマーキュリーも自分が泳がされているという事に気付く可能性が高い。榊氏はマーキュリーには、彼の正体が割れている事を気付かせたくないとの事だった。
 私は自分の状況を上司に報告しないという事は、相当に気が咎める。が、マーキュリーを泳がせたいという榊氏の考えはわからないでもなく、私は彼の指示に従い上司への報告は留まった。
 そうしたところ今度は上司から、榊氏の自宅の捜索に取り掛かれとの指示が下されたのだ。なんとも頭の痛い話だ。
 そう、とにかく何もかもが最悪だ。
 昨日の放課後からの急展開を、私は頭の中で再度なぞった。
 いや、本当は急展開などではない。
 レユニオンで彼に会った時から、私がどこの誰かなど彼にはわかっていたのだ。
 そこからずっと泳がされていただけ。
 私は目を閉じて、レユニオンのホテルで彼に差し出されて飲んだあのカクテル、あの優雅なダンスを思い出す。
 そして、昨日の埠頭でのキス。
 私はまた自分がぐっと不機嫌になるのがわかる。
 まったく、40男のキスでくらくらさせられるなんて。
 彼は一体どういうつもりで? なんて考えてしまう自分が、これまたなんともいまいましい。
 どういうつもりもへったくれもない。
 彼が私に触れたりキスをしたりする事に、何の意味もないのだ。そんな意味を考える事自体、無駄な事。
 っていうか、そんな事にこだわってる場合じゃないのに、私は何を中学生みたいにキスくらいでオタオタしてんだろ! 腹立つ! そりゃあ彼は、私が今までつきあった事のあるような男とはまるっきり違うタイプで戸惑ってしまうけれど! キスだってとびきりに上手いけど……いや、それはどうでもいいし! とにかく私はなんとか無事に任務を終えて、休暇とボーナスをもらってドバイにリゾートに行きたいのだ!
 そうやってイライラしながら、榊家侵入についてのミッションをどうするのかなどを考えていたら、勢い良く保健室の扉が開いた。
 岳人だった。
 そういえば、もう昼休みか。校庭も廊下も騒がしい。
「どうしたの?」
 私が振り返って言うと、岳人はやけにわくわくした顔で私を見ている。
「先生! 先生って、女スパイなんだろっ!? 盗聴器とかさ、ガムに見せかけたプラスチック爆弾とか持ってんの!?」
 おー、ヨチヨチ、がっくんは可愛いのぅ!
 ……って、岳人!
 私は昨日のトレーニングルームでの跡部を思い浮かべた。
 榊氏はああ言ってたけど、もしかして跡部が!?
「……なあに、岳人、そんな話どこから聞いてきたの」
 私は冷静なふりをして、彼に笑いかけた。
「侑士だよ、ゆーし!」
 岳人は椅子をゴロゴロとひっぱってきて、私の前に座り目をキラキラとさせる。
「侑士がさ、言うんだよ。先生みたいな目立つ美人がただの養護教諭のわけねーって。しかもアメリカ帰りだろ? あれは絶対氷帝学園の秘密をさぐりに来たアメリカの女スパイで、ミネフジコみたいにスカートの下の右のフトモモのガーターベルトのとこにはピストルを隠し持ってるんだって!」
 私は片手で額を押さえて、はああっとため息をついた。
「……氷帝学園の秘密って何よ」
「俺が知るわけねーじゃん! それを探るのが先生の仕事だろ? 例えば、なんでジローは寝てばっかなのかとか、どうして樺地はあんなにデカいのかとか、榊監督はなんで学校で音楽の先生なんてやってんのかとか、あの服はどこで買ってくるのかとかさ!」
「それくらいだったら、新聞部でも調べられるんじゃないの」
「じゃあ、何かもっとスゲー秘密!」
「秘密ね、そう秘密よ。スパイの任務は、常に極秘なの。いくら岳人にでも、教えられないしね」
「えー!? じゃあさ、何かスパイグッズでも見せてよ! 誰にも言わねーからさ!」
 岳人は椅子をガッコンガッコンさせながら、ねだるのだった。
 私はもう一度ため息をついて、ポケットから携帯電話を取り出した。
「ほら、これね。ただの携帯に見えるでしょう。でも、実はスパイ用の盗聴防止機能付の電話なの。地上のアンテナを使うんじゃなくて特別な衛星を介してるからね、ここからの電波は盗聴不可能なのよ。当然GPS機能も付いてるし、無線だって傍受できるわ」
 岳人は私の差し出した電話を手に取って、興味深そうに見た。
「マジ? ……でもどう見ても普通の電話じゃん」
「そうでしょ? でもぜんっぜん普通のとは違う、特別仕様 なのよ」
 実は、それは本当の事。これは仕事用に支給されている電話だ。滅多に触れるもんじゃないから、堪能しときなさいよ岳人。
「……なんだ、つまんねー! もっとスゲーもん持ってるかと思ったのにー」
「ホンモノのスパイなんてね、地味なものなの。岳人、ご飯まだなんでしょ? 早く購買行かないと、美味しいモノなくなっちゃうよ」
「うおっ、マジか! もうそんな時間か! やべっ!」
 岳人は掛け時計が示す時間を見ると、飛び上がって部屋を出て行った。
 やれやれ。
 私は岳人が夢見るような、フトモモにつけるホルスターなんて持ってないけど、可愛い岳人のためだったら今度必要装備として申請してもいいかな。
 それにしてもまったく、忍足ときたらロクな事を言わない。
 寿命が縮まったじゃないの。
 私は改めて時計を見ると、白衣を脱いでロッカーにかけた。
 私もご飯を買いに行こう。今日はカフェで食べる気分じゃない。
 購買部への近道のために、保健室から校庭へ出た。今日は天気が良いからか、外のベンチでお昼を食べている学生も多く賑やかだ。
 ケヤキの下のベンチの傍を通ると、そこに右近慎一郎と数人の女子生徒達が座っているのが目に入った。おーおー、楽しそうじゃないの。ちらりと私と目が合う右近慎一郎は、一瞬だけ冷ややかな諜報員の顔に戻るが、私はふいと顔をそらした。
と、彼を取り巻く女子生徒の一人が私の名を呼んで追いかけてくる。
 それは見覚えのある顔で、そうそう、いつか鳳くんにつれられて保健室にやってきた女の子だ。
先生!」
 彼女は親しげに私の腕を取った。
「うん、なあに?」
「ねえねえ、昨日、榊先生と二人で車に乗ってたって本当?」
 彼女は先ほどの岳人のように目をきらきらさせながら聞いてくるのだった。
 私はちらりと、再度右近に目を向ける。彼はまた私を睨みつけるように見ていた。
 昨日の私と榊氏の接近を、彼が確認していないはずはない。
 私は彼女に向かってにこやかに答えた。
「うん、そうよ。私の車にね、榊先生が乗ってみたいっておっしゃるから少し走っていただいたの。車がお好きのようだからね」
「ほんと? それだけ? 皆がね、榊先生を先生にとられちゃうよーって、右近先生にせっついてるとこなんだよー」
 あー、できることならば、私も女子中学生になってそんな噂話でキャッキャキャッキャしていたいものだ。いやいや、逃避していてもキリがない。
「そうなの? 大丈夫よ、だって榊先生ホモなんでしょ」
 私はさらりと返しておいた。
「あっ、やっぱり先生もそう思うの?」
 彼女はますます目を輝かせる。
「どう見てもそうじゃない。ホモでしょ、ホモ。超ホモ」
 私はもうヤケクソで答えた。今更構うものか。
「えーっ! って事は、先生、榊先生と二人きりでドライブしたのにチューのひとつもされなかったって事? 榊先生の好みじゃなかったのかな? そっかー、じゃあまだまだ右近先生にもチャンスあるよね!?」
 彼女は嬉しそうに跳ねると、友人達と右近慎一郎の待つベンチに走って戻って行った。
 あの、ちょっと! チューくらいはされたけど! と私はのど元まで出かかった言葉を飲み込む。
 あー、くそ。40男のキスでくらくらする自分もイヤだけど、40男に手も出されなかった女という風聞も腹立たしい。
 まあいいや。もう、中学生たちの噂は気にしない。どうせ私は任務が終れば氷帝ともおさらばなのだから。とにかく任務に集中集中!
 と、私は自分で自分に言い聞かせながら購買に向かうと、岳人に言ったように既にたいしたものは残っていなくて、残り物のサンドイッチと野菜ジュースを買ってとぼとぼと保健室に戻るのだった。
 どうにも今回の任務での私は冴えない。
 生意気な中学生たちに、心の読めない不思議な紳士。
慣れない相手だ。
 しかし、おそらくその勝手の違いは右近慎一郎……マーキュリーも感じている事だろう。焦っては負けだ。おそらく、私と榊氏の接近で彼は焦っているはず。これからの彼の行動をしっかりと捉えておかなければ……。
 サンドイッチのパックをぴりりと破ったところで、保健室のドアがノックされる。
 いつもこの時間にやってくる慈郎は、さっき校庭の日当たりの良い場所で寝ているのを見かけた。気分の悪くなった学生だろうか。
「はい、どうぞ」
 振り返って声をかけると、静かに入室してきたのは榊氏だった。
 私は一瞬緊張する。
「……何か?」
 彼は軽く手を上げると、机の前に立つ私のすぐ傍にやって来た。
 そしていきなり私の耳元に口を寄せる。レユニオンのホテルで踊った時のように。
「ここは、盗聴器はないだろうな?」
 心拍数が早まる私の耳元でささやいた。
「……もちろん。いつもチェックしていますから」
 私はつとめて冷静に答える。
「そうか、ならいい」
 彼はすうっと身体を離して、腕組みをした。まったく普段と変わりのない表情だ。
、今夜、私の部屋に食事をしに来ないか」
 そしてさらりと続く彼の言葉に、私は思わず目を丸くしてしまう。
「ええっ!?」
 そんなの困ります! 仕事中ですし!
 なんて、ついついセクハラを受ける新人OLみたいな事を言いそうになってしまった。
 彼はそんな落ち着きのない私にお構いなしで、くいっと右手をこめかみに当てた。
「L.M.Mのエージェントらしき者が、私の自宅周辺を張っている。そろそろにも、私の自宅を探るよう指示が出ているのではないか。私に誘われたのだと上司に報告して、堂々と来るといい」
 私は彼のそんな態度に呆れるとともに、彼の身辺が心配になった。
「……侵入された形跡は?」
「私の部屋のセキュリティは万全だし、うちのSPにたびたびチェックさせている」
 考えれば当たり前の事か。私は少しほっとした。
 榊氏はふと一瞬窓の外に目を向けると、再度私の近くに身体を寄せる。
 そして、私の肩にぐっと手をあてるとまた耳元に唇を寄せるのだ。
 盗聴器はないって言ったのに!
「私の部屋の場所は知っているだろう? 今日は部活もないから私も早く帰宅する。7時くらいに、地下鉄に乗って来なさい」
 今回も私に選択肢はないようだ。
 ささやきながら、彼は私の肩越しに何かを見ていた。
 身体をよじって彼の見る方向に目をやると、食事を終えたらしい右近慎一郎が校庭を歩いて行くのが見えた。
 彼は、間違いなく私たちを見ていた。
 私はふいと視線を戻して、榊氏と身体を寄せたままにする。
 背中に突き刺さる右近慎一郎の視線が消えた頃、榊氏は私から離れ部屋を出て行った。
 私が早速今夜の予定を報告すると、私のボスはゴーサインとともに案の定『言っておくが、色仕掛けはご法度だ』といつものセリフを繰り返す。
 あんな手ごわい男に色仕掛けなんかしようとも思いませんよ、なんて言い返そうとしたけれど薮蛇になりそうだったので、何も言わずにおいた。

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2007.12.13




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