私を愛したスパイ(11)



 榊太郎氏の自宅の周囲に、L.M.Mのエージェントらしい者がうろついている事を、私のボスも把握しているようだった。
 マーキュリーの要請かL.M.Mの上層部の判断かはわからないが、榊太郎本人を探るために多くの人員がさかれてきているようだ。
 ボスは私に、うちも人員を出した方がよさそうか判断を求めてきたが、私はまだ不要だと返した。今、こちらのエージェントを増員して投入すれば要らぬ火種になる可能性も高い。それによって、榊氏および学園内の生徒に危険が及ぶ事が考えられる。
 ボスも私の考えに賛成で、ぎりぎりまで私に判断を任せると言った。
 彼は、これからは特に周囲に気をつけろ、とだけ告げて私との交信を終了した。

 さて、私は大慌てで仕事を終え早めに学校を後にする。
 帰って仕度をして、榊氏の自宅に伺わなければならない。
 化粧を直して着替えをしながら、私はなんとも複雑な気分になる。
 まるでデートに出かけるみたいじゃないの。
 いやいや、これは仕事だと、私もあの人もわかっている。
 私はさっと髪を整えると、バッグを持って家を出た。

 当然調査済みの榊太郎氏の自宅のマンションに、私は迷う事なく到着した。
 一見してセキュリティの高さの伺える瀟洒なマンションのエントランスは、バイオメトリクス認証のオートロックで、私はインターホンで榊氏の部屋の番号を押した。
 すると、彼はわざわざ下まで降りて私を迎え入れてくれた。
「ようこそ。迷わなかったか」
 カシミアのセーターに着替えた彼は、私をエレベーターに乗せながら言う。
「迷うわけありませんよ。プロのエージェントですから」
 私はくすっと笑って答える。
「そうだな」
 彼もかすかに口元を緩めた。
 招き入れられた彼の部屋は、北欧系の家具で統一され広々とした中、シンプルで落ち着く雰囲気が作り上げられていた。もちろん、広いリビングにはピアノ。
 ぐるりと部屋を見渡してから、私ははっと思い出して手提げ袋の中から手土産を取り出した。
「先生、これ、お邪魔にならないと良いのですけれど」
 黒に近い赤の、珍しい色のガーベラをあしらったフラワーアレンジメントのバスケットを差し出す。
「ああ、気を遣わせたな。……たまには花もいいものだ」
 彼はそれを受け取ってしばらく見つめると、テーブルに置いた。
 思っていた以上に、その深い赤のガーベラは彼に似合っていた。
「盗聴器もカメラも仕掛けていませんから、ご安心を」
 私が言うと、彼はふっと笑って私の上着とバッグを受け取り、コートハンガーにかけた。
「すぐに食事の用意をする。座っていてくれ」
 ちらりとキッチンを見ると、オーブンに火を入れて何かを焼いている様子。
 ああそうか、当たり前といえば当たり前だけれど、彼が料理するのか。
 想像していなかったわけではないけれど、やはりちょっと意外だ。
 男の手料理に迎えられる事など初めてではないけれど、こんな極上の環境はなかなかない。
 一旦キッチンに引っ込んだ彼は、キッチンに対面しているカウンターにグラスを置いた。
「用意ができるまで、アペリティフでもやっていなさい」
 スマートなロングのグラスのそれは、レユニオンで彼が勧めてくれたティオペペとチンザノのカクテルだった。私は勧められるままカウンターのスツールに腰掛け、その爽やかなカクテルで唇を濡らす。
 オーブンからのこうばしい香りが漂う中、榊氏はセーターを腕まくりしいつものようにピンと背筋を伸ばした姿勢で、器用に真鯛の半身をさばいていた。
 愛しいティオペペに、完璧な男の手料理。
 これが仕事でなければ、完璧なデートなのに。
 カクテルを飲んで彼の凛々しい後姿を眺めながら、私は苦笑いをする。
「……料理は、いつもなさっているの?」
「いつもというわけではないが、一人住まいなのでね、自分の食べるものは自分で作らなければならないだろう? まあ、料理は嫌いではない。今日はたまたま、家から良い鯛が届いたのだ」
 彼は振り返りもせず、さっさと魚を切りながら答えた。
 薄く美しく切った鯛を大皿にならべ、オリーブオイルをふりかける。
 鯛のカルパッチョだ。
「私の調査の記録では、は特に好き嫌いはないという事だったが、羊は大丈夫か?」
 鯛の周りにケパーやパセリを振ってから、その大皿を私に手渡して、彼はオーブンを顎でくいっとさした。
「もちろん。大好きです」
 私は皿をテーブルに運んで、そしてわくわくしながらオーブンから取り出されたものを眺めた。チリチリと美味しそうに焼けた、子羊の肉だ。
 榊氏はそれを手早く皿に取り分けると、温野菜の盛り合わせを添える。
 そして、後は鯛のリゾット。
 アペリティフを飲み終える前に、見事なディナーが用意された。
 
 新たに作り直してくれたカクテルとペリエで、私と彼は乾杯をした。
 新鮮な真鯛のカルパッチョはさっぱりとしていながら鯛の味が濃厚で、そしてレモンをしぼった子羊は外側はカリカリに焼けていながらも中はジューシーで最高に美味しかった。
 リゾットは鯛の他にも野菜が入っていて、鯛の火の通り方が絶妙。
 榊氏はナイフとフォークを置いて、ペリエを一口飲み、くっと笑った。
「……は中学生のようによく食べるな」
 私は思わず顔が熱くなる。
「仕事柄、きちんと食事の時間が取れない事も多いので、美味しいものが食べられる時はきっちり食べておく事にしているんです」
 実際、このところ学校で昼を食べる時間もろくに取れない事も多く、こうやって美味しいものをゆっくり食べるのは久しぶりだった。勿論、現に今も仕事中という事にかわりはないのだけれど。
「そうか、じゃあゆっくり存分に食べて行きなさい」
 まあ、これじゃまるで私が可哀想な子みたいじゃないの、なんて思いながらもリゾットは本当に美味しかったので、ふうふうと熱をさましながら食べつづけた。
「赤ワインは飲まないか?」
 そんな私を見ながら、榊氏は静かに言う。
 きっと彼が出す赤ワインなら、羊に合う最高の品だろう。
「好きですけれど、仕事中ですから。これで十分」
 私はティオペペのカクテルをチンと指先で弾いた。
「そうか」
 彼は軽くうなずく。
「先生こそ、お飲みにならないの?」
「私はを車で送っていかなければならない。泊まって行くというなら、別だが」
 わざと意味深に言う彼の言葉に、私はさすがにもうどぎまぎする事はない。
「泊まりの用意はしていませんもの。ヴァンキッシュの助手席、楽しみです」
 食事を終えると、食器をディッシュウォッシャーに放り込んだ彼は、エスプレッソコーヒーを振舞ってくれた。
 満足な食事に、私はほうっとため息をつく。
 コーヒーを飲み終えた榊氏は、ピアノの前に座りゆっくりとビル・エヴァンスの曲を弾きはじめた。
 まったく、何から何まで完璧だ。
 いい男が作る最高の食事に、上等の音楽。帰りはアストンマーティンでエスコート。
 これで、周囲を敵のスパイに見張られているのでなければ。
 窓際に置かれたピアノの傍らに立って、私は窓の外を眺めた。
「周囲の状況は?」
 私はようやく本題を切り出した。
「……辺りを探る者は、今日は昨日よりも増えているようだ。おそらく、が来たせいだろう」
 ピアノの鍵盤をみつめたまま彼は言う。
 まるで他人事のように言うのだから、この人は。自分が仕向けたくせに。
 私はふうっとため息をついた。ここの周囲の警護を、と言いかけて、彼にその必要はないのだという事を思い出す。それどころか、彼は私の身を気遣って地下鉄で帰そうとはせず車で送ると言っているのだから。
「これくらいの事は、私も、うちのSPも慣れている。のところのエージェントはまだ来ていないのか?」
「それはまだ必要ないと思っていますから」
 私が答えると、彼は満足気にうなずいた。
「正しい判断だな」
 グランドピアノの弦の動きを眺めながら、私は今後の自分の行動についてを考えた。
 昨日と今日の動きによって、私は今後の行動の方向性を修正せざるを得ない。
 結局のところ、私は榊氏の筋書きに従う形になるのだ。
 つまり、私と榊氏の接近によって、マーキュリーの焦った行動を引き出すという方向性に。要は、マーキュリーとL.M.Mの動きを阻止すれば、私の任務は遂行される。私はこれから、セイレーンを探る必要はなく、ただただマーキュリーが動くのを待ち、動いた瞬間の彼を確保すれば良いのだ。勿論、それは簡単には行かないだろうけれど。
「下には、だいぶ見張りがいそうか?」
 榊氏はピアノを弾く手を止めた。
「さあ、よく見えませんけれど、まず間違いなく下からここを見張っている事でしょうね」
「そうか」
 彼は大して気持ちを動かされた様子もなく答えた。
「……今日は本当にご馳走様でした。先生の手料理は、本当に美味しかった。今までご馳走になった男の人の手料理の中で、多分最高の食事」
 私は窓の外から視線を彼に移して、笑って言った。
 窓辺の私たちは、きっと談笑する恋人同士に見える事だろう。
 そうやって取り入った私が彼からどうやって情報を引き出すのかと、L.M.Mのエージェントは思う存分焦れば良い。私はマーキュリーの理知的で冷ややかなあの顔を思い出した。
 榊太郎はピアノの前から立ち上がって私の隣りに並んだ。
「料理については合格点か。それは光栄だな」
 そして珍しく、そんな殊勝な事を言うので、私は少しおかしくなった。
「あと、車の運転ともちろんピアノも最高」
 だから思わずそんな事を言ってしまう。
「それだけか。他には?」
 すると彼はすっと右手で私の髪に触れてつぶやいた。
 ああ、彼の次の行動はわかるし、私はそれに逆らえない。
「……そうね、ダンスと……キスも」
 よくできました、と言わんばかりにうなずくと、彼はゆっくり私にくちづけた。
 最高の食事の後の、最高の音楽、そして最高のキス。
 L.M.Mのエージェントに見せるための演出だとわかっていても私は目を閉じてしまい、ふらつきそうな自分を、彼のセーターを握り締めて支えた。

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2007.12.14




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