私を愛したスパイ(12)



「……は、本当に男子中学生のようだな」
 アストンマーティン・ヴァンキッシュを運転する榊氏は助手席の私を横目で見ながら言った。彼の部屋の窓辺でピアノを楽しんだ後は、こうやって彼ご自慢のボンドカーの助手席におさまっているわけだ。
「だって、しがない諜報員はヴァンキッシュに乗る機会なんて滅多にないんですから」
 私は子供のように運転席のスピードメーターを覗き込んだり、ソワソワと落ち着かない。
 心から私をわくわくさせる、なんともスタイリッシュでクールなクーペだ。
「今度、アルコールの入っていない時に運転してみるといい」
 彼は優雅にハンドルを操作しながら機嫌良く言った。
軽く言うけれど3,000万円の車ですよ、榊先生。
 ヴァンキッシュは、すっかり夜の帳の下りた東京の町をL.M.Mの尾行をつけたまま、私のマンションに向かった。
 マンションのエントランスに車を止めると、彼は昨日のように手馴れた様子で助手席のドアを開けてくれる。
 ゆっくりと並んで歩き、入り口で足を止めた。
「では、今日は楽しかった。また明日」
「こちらこそ……」
 会話が聞かれている事はないのに、私たちはまるで恋人同士のような会話までして、そして彼はそっと私の頬に手を触れるとそこに軽く唇を寄せた。
 ヨーロッパ人同士でするような、優しい穏やかな挨拶代わりのキス。
 彼の表情はあいかわらず冷静なのに、ひどく優しく感じた。
「おやすみ」
 彼はさっと身体を離してそう言うと、軽く手を上げてボンドカーに向かった。
 私はマンションのエントランスのロックを外して中に入り、小さくなってゆくアストンのテールランプを見つめる。そしてため息をついた。
 さて、甘い時間の後にはシビアな仕事が残っている。
 私は神経を研ぎ澄ませて、自分の部屋に向かった。
 中に入ると、見慣れた部屋。
 一見、出かける前と何一つ変わってはいない。
 しかし、明らかに空気が違った。
 予測はついていたが、侵入者の形跡があった。
 やれやれ、甘い余韻に浸りながらベッドで休む事はかなわないようだ。
 私は部屋中のチェックを開始した。
 結果、部屋の中から盗聴器二個、そしてPCのデータのバックアップを取った形跡あり。
 私が何か情報を得ていないかを、L.M.Mが死に物狂いで探したのだろう。
 残念ながら私を探っても何も出てこない。
 こんな作業が増える事に私は内心悪態をつきつつも、こちらの予想どおりに彼らが焦り始めているという点は満足だ。
 盗聴器を使用不可能にしてから、念のため外に出てボスに今日の報告をし、夜中の3時近くになってようやく私は眠りにつくことができた。


 そろそろ疲れがたまり始めていた私は、翌朝少々寝坊してしまい、危うく遅刻をしそうになって慌てて学校に向かった。
 職員室に届いている書類を持って保健室に向かう。
 身体測定やら内科検診やらが終ったと思ったら、今度は全校避難訓練だ。
 その際に、消防署の人が来て救命救急の話をしてゆくのが通例で、私がその手配と準備をしなければならなかったり、これまた私の仕事は多い。
 忘れていたわけではないが、ここ数日のバタバタでさっぱり作業も進んでおらず頭が痛い。今日もまともに昼食が取れるかどうか。まあ、昨夜たっぷりと美味しい食事をいただいたからいいけれど。
 私は昼になる前に、校舎を走り回って非常口や避難はしご等のチェックをした。まったく、これだけ広い校舎だときりがない。
 廊下を小走りで移動していると、音楽室からピアノの音が漏れ聞こえてきた。
 ちらりと中を覗くと、榊氏がいつものようにピアノの前に座っている。ああそうか、今は彼の授業のない時間だ。そんな時、彼はいつも音楽室にいる。
 私はゆっくりと扉を開けて中に入った。
 彼のピアノの音を聴くと、いつも落ち着く。
 今日はラフマニノフの美しい旋律が奏でられていた。
「……昨日は、どうもご馳走様でした」
 私が静かに言うと、彼はちらりと私を見て軽く肯くだけ。
 でも彼のそんな何気ない仕草は、私がそこにいる事をおだやかに迎えてくれる空気をかもし出した。
 私はそれ以上何を言うでもなく、昨夜彼の部屋でそうしたようにピアノの傍に立って演奏を聴いた。
 彼が奏でるピアノの音はとてもなめらかで、目を閉じると、彼が耳元でささやくあの声を聞いているかのようだ。温度があって、抑揚があって、人の肌に触れているような、そんな感覚。
 彼が弾くピアノの傍にいると、まるでそこだけ特別な時間の空間にいるようで、じっと留まってしまう。
 榊太郎も私も、今は厄介ごとを抱えている。
 けれど、そんな事をまったく歯牙にもかけない不思議な高みにいる榊氏の振る舞いは、なぜか私を落ち着かせるのだ。
 私を落ち着かせたり、どきどきさせたり、まったくおかしな男。私は苦笑いをしてため息をつく。
 その時、私たちを取りまく静かな空気をぐらりと揺らす物音がした。
 音楽室の前の出入り口から入って来たのは、右近慎一郎だった。
 彼は私を一瞥もせず、まるで存在しないかのように榊氏に向かって近づいた。私の事がよっぽど忌々しいのだろう。
「榊先生、オーケストラ部の二年生の5人が、弦楽五重奏でコンクールに出たいという事なんですが、どうでしょう。何かお勧めの曲はありますか?」
「……そうだな、メンバーは?」
 榊氏はピアノを弾いたままで彼に尋ねた。
 ちらりと右近慎一郎の顔を見ると、彼も寝不足のようだ。お互い忙しい。
 彼はオーケストラ部のメンバーの事、いつのコンクールをめざすのかなどを榊氏に説明していた。そして榊氏はいくつかの曲を候補で上げてゆく。
 私はそんな二人の会話を聞きつつ、ピアノの鍵盤の上下で奏でられる弦の動きを見ていた。
 右近は相当焦っている。私と榊氏が二人でいる場で、何かのヒントをつかもうと必死なのだ。しかしあいにく、私も何かをつかんでここにいるわけではない。
 そんな事を考えながらピアノの音を聴いていると、私ははっとした。
 昨日、榊氏の部屋で聴いたピアノの音。
 彼の自宅のピアノと、この音楽室のピアノは見たところブランドもモデルも同じだ。
 けれど、明らかに音が違う。音楽には詳しくない私でもわかるのだ。
 もちろん、部屋の音響が異なるせいもあるだろうが、それだけではない。
 ピアノの中の響板をちらりと覗き込んだ。やはり、榊氏の自宅のものと、少し違う。どちらがオリジナルだ? 私は自分にピアノの知識がない事を恨んだ。
 そしてはっと顔を上げると、先ほどまで私など無視していた右近慎一郎が私の表情を見ている事に気付いた。
 私はピアノと彼から顔をそらした。
 そうだ、一流のエージェントというのは、こういうところを逃さない。
 何かを見て、何かを気付いた時の人間の顔を。
彼は明らかに私の表情を見ていた。
「わかりました」
 右近は凛とした声で言った。
「ありがとうございます、榊先生。それでは、それらの楽曲を候補に入れて練習させてゆきたいと思います。大変参考になりました」
 彼はそう言って頭を下げると、静かに音楽室を出て行った。
 私は自分の背筋を冷や汗がつたい、そして心臓がバクバクと動くのを感じる。
 榊氏のピアノが、マーキュリーの探すものなのか?
 ピアノが、『セイレーン』?
「……榊先生、あの、もしかすると……」
 だとしたら、私の表情が読み取られたとしたら、まずい事になる。
 私が焦って声を上げると、榊氏は立ち上がって私をじっと見る。
 そしてぐいと、ひどく険しい目をして私の前に立った。
 私は思わず壁際に後ずさる。
 榊氏は左手で私の肩を押さえると、突然私のシャツの胸元のボタンに手をかけるのだった。
 その、あまりに彼に似つかわしくない行動に、面食らってしまう。
「ちょっ……先生、何をなさるんですか!」
 私はあわてて彼の手を振りほどこうとするけれど、彼の力は存外強かった。
 私のシャツのボタンはパチンとちぎれて床に飛ぶ。
「先生、一体何を!」
 まったく何をするんだこのおっさんは、とさすがに憤慨して私が叫ぶと、彼は人差し指を口元に当て、シッというそぶりをする。
 そしてその人差し指を、床に飛んだボタンに向けた。
 そうっとそれに顔を近づけると、私はあっと声を上げそうになった。
 それは、巧みに偽装したボタン形の小型の盗聴器だったのだ。昨日の侵入者が仕掛けていったものだ。私は部屋の捜索に精一杯で、すっかり見逃していた。
「乱暴をして悪かった。いやなら、無理にとは言わない」
 彼は涼しい顔で続け、そして幕引きにとばかりに、靴のかかとでそれを踏みつけた。
「……すいません、そんなものをつけたままで私……」
 まったく、プロ失格だ。
 いかにただものではない榊太郎とはいえ、素人に指摘されて気付くなんて、大失態だ。
 私は自分のミスが恥ずかしくて、謝ってすむような事ではないと思いながらも唇を噛んで頭を下げた。
「気をつけろ」
 私の上から、彼のそんな静かな一言が降ってくる。何を言われても仕方がない。
 何しろ、セイレーンのヒントになるかもしれない事を私の口から漏らしてしまいそうになったのだから。
 私は何も言えずそのまま頭を下げていた。
「だから、気をつけろと、言っている」
 すると榊氏は、ぐいとその両手で私の白衣の襟元を掴んで、私の顔を上げさせた。
「男子中学生には刺激的すぎる。私も、以前に言ったとおり男色家ではないんでね」
 突然の彼の行為に私が呆気に取られていると、彼はシャツのボタンが飛んであらわになっていた私の胸元を、白衣の前をぎゅっとあわせて隠しボタンを留めた。
 私は何と言ったら良いかわからなくて髪をかきまわしながら、どうも、と言って彼を見上げる。
「……榊先生、もしかすると先生のピアノが……?」
 私の質問の意味を彼はわかっているはずだ。
 けれど彼の答えを待って見つめていても、彼は首を縦にも横にも振らなかった。
 静かに美しいラフマニノフの曲が流れてくるだけ。
 私はしばしその旋律に耳を傾けた後、再度頭を軽く下げると音楽室を後にした。
 保健室に戻ると、大至急彼が使っているドイツ製のピアノに関する資料を取り寄せる。
 同モデルのピアノの詳細な写真を私は穴があくほど見つめた。
 そのオリジナルの形は、どうやら榊氏の自宅にあった物の方が正解のようだ。
 音楽室にある方は、オリジナルとは少し異なる。
 つまり、何らかの手が加えられているという事だ。
 私はボスに連絡を取り、直ちに氷帝学園周辺に24時間の見張りの増員を依頼した。

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2007.12.17




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