私を愛したスパイ(13)



 世界の注目する長距離音響システムの要、『セイレーン』は榊氏愛用のピアノに仕込まれているのだという仮説を私は立てた。
 そして、まず間違いなくL.M.Mのエージェントであるマーキュリーも同じように考えている。
 彼も愚かな男ではない。
 狙う物を手に入れようとするその瞬間が、私が彼の尻尾を捕まえるチャンスなのだという事はよく分かっているはずだ。下手な動きはしないだろう。
 あのピアノが例のものだとすると、いかに熟練のエージェントとはいえ、この氷帝学園の警備の目をかいくぐってグラウンドピアノのサイズのものを誰にも気付かれずに運び出すのは至難の業だ。もちろん、フレームは解体するとしても、仕組みの分からない『セイレーン』をそうそう細かく分解するわけにはゆくまい。
 怪しい動きがあればすぐに対応できるよう、私は上司に周囲の警戒を依頼した。



 音楽室で三人顔を合わせたあの日から、私もマーキュリーも、そして榊太郎もまったく何も変わらない静かな数日が過ぎた。
 マーキュリーは、私が増員させたうちのエージェント達の見張りに気付いていないはずはない。一体彼はどう動くだろうか。気分の張り詰めた日々に私は少々疲れてきたが、何を企んでいるにしろそこは敵も同じ事だろう。
 放課後、私は数日ぶりにテニスコートを訪れた。
 このところ忙しいので、慈郎を引っ張って行くのは彼と同じクラスの宍戸に任せている。なんだかんだ文句を言いつつも、きっちり彼を迎えに来る宍戸はまったくいい奴だ。
 テニスコートに入ると、榊氏がいつものように鋭い目つきでコートを眺めていた。正確に言うと、彼の場合耳を傾けている、という方が正しいのかもしれない。
 今日もVTRで映像を記録したり、PCにつなげた『テニス見る見る上達する君』とやらで、神経質にコートでの音を録音したりしているようだ。
 ボールやラケットが空気を切る鋭い音、インパクトの瞬間の澄んだ音、コート上で繰り広げられるそんな様々な音を。
 彼の立っている場所まで、私がゆっくりと歩いてゆくと彼はコートのプレイヤー達から私へと視線を移した。
「……疲れているようだな。きちんと寝ているか?」
 まったく、誰のせいだと思っているのだろう。この人は。 
 私はため息をついて彼の隣りに立った。
「少しはね。……先生は……心配にはならないんですか?」
 彼はなんだってあのピアノをあんな無用心に音楽室なんかに置いてあるのだろう。しかもそもそもどうして、彼があんなややこしい物を開発しようとしているのだろう。
 この男は、まったく何から何までよくわからない。
「心配? 何をだ?」
 そしてこの期に及んでまでこんな事を言う。
「何をって……」
 私がこれみよがしにため息をつくと、ふっと彼は小さく笑った。
「……大丈夫だ」
 そして小さいけれど、しっかり私の耳に響く低い声で言った。
「心配しなくていい。たまにはゆっくり寝ろ」
 私がそんな事できるはずがないのに、彼は穏やかに優しい声で言うのだ。
 その口調は、私のマンションの前で夜の挨拶をした時のように優しげで、そして不思議に私を安心させる。
 それでも、私は彼の言葉そのままに寄りかかる事はできない。彼もそれはわかっているはずだ。
「そんな事無理だとわかっていて、おっしゃるんだから」
 私は文句を言うようにつぶやいた。やつあたりだと自分でもわかっているのだけれど。
 それでも、しばらくそうやって彼の傍に立っていたらなぜだか私は落ち着いて、コートを走り回る少年達を見渡すと今度はため息ではなく深呼吸をしてコートを後にした。
 保健室に戻ろう。
 周囲のL.M.Mのエージェントの動向について報告を聞かなければならない。



 さて、相変わらずの膠着状態で日々は過ぎて氷帝学園の周囲は、わが組織とL.M.M双方のエージェントであふれており、おそらく今までになくエージェント密度が高くなっているだろう。地域住民の方々には、迷惑極まりない事だ。
 そんな緊迫した状況ではあるが、当然ながら学校生活は普段どおり流れてゆく。
 今日は避難訓練だ。
 そう、あったあった、こういう行事。
 っていうか、今でも職場でやってる。
 学校に行ってた時も今も、かったるいなーなんて思いながら参加していたっけ。いや、正確には学生の頃は適当にサボっていたかもしれない。
 しかしここでは一応教員の立場なので、忙しいからといってサボるわけにいかない。
 しかも養護教諭なので、自分が担当する場面もありまったく面倒だ。
 避難訓練は午後からだけれど、午前中は設備のチェックや講習の段取りのため、私は消防署の職員と学内を巡回するなど打ち合わせをしていた。
「ハイ、これで避難口は全部オッケーですね。消火栓もヨシ、と」
「デモンストレーション用の消火器と、救命救急の講習の機材などは校庭で使えるように準備しておきますから」
 ちなみに消防士達は屈強そうな若い男ばかりで、まあ目の保養にはなる。
 姿勢がよく訓練された身のこなしはキリリとしていて、嫌いな感じではない。
 なんていう風にでも思っていないと、まったくやっていられない。
 そうやって消防署の担当者と話しながらも、私はどうもひっかかる事があった。
「……そういえば、お電話でお話した担当者のタケウチさん、ではないですよね?」
 一緒に歩いてチェックリストを見ている消防士に、ふと私は尋ねた。
 彼はうっすらと日焼けをして、ややがっちりとした顎の凛々しい青年だ。
 電話で打ち合わせて話をした担当者は、若干の茨城なまりがあったけれど、今話している相手はきれいな標準語だった。
 すると彼はさわやかな笑顔を私に見せて、そしてIDカードを取り出した。
「はい、電話対応した竹内は急な出動があり勤務シフトが変更になったので、私が来ました。私は武内といいます」
 はあ、タケウチ違いね、と字を説明されて私は納得する。
 なんてね。
 そんな簡単に私が納得するわけないじゃない。
 打ち合わせを終らせると、私は至急本部に連絡を取って消防を調べさせた。
 嫌な感じだ。
 一旦疑ってかかると、凛々しい消防隊員全員が油断ならないエージェントに見えてくる。
 が、こういう切羽詰った時に限って本部からのレスポンスは遅い。
 昼休みにジリジリしながら本部からの連絡を待ちつつ、消火器などの物品を用意していると、耳慣れた足音がした。その軽やかで楽しげな足音、岳人だ。そして校庭に響く低い機械音。
「おっ、来た来たー! ひゃー、かっこいーい! 乗ってみてーなー!」
 彼はぴょんぴょんと飛び跳ねながら空を見上げる。
 ああ、デモ用のヘリコプターだ。氷帝の避難訓練は毎年ヘリまで出動させての大掛りなイベントなのだそうだ。ヘリは屋上の専用へリポートに見事着陸し、毎年楽しみにしているという生徒達はそれを眺めながら歓声を上げた。
 私は連絡用の電話を何度も見るけれど、まだ着信はない。
 私の考えすぎだと良いのだけれど。
 生徒達がいるところで、L.M.Mのエージェントが大きく動くのは感心しない。
 彼らが巻き込まれる事だけは、なんとしても避けたいから。



 本部からの連絡はないまま、避難訓練の定刻がやってきた。
 非常ベルが鳴って、そして『……ただいま3階理科室より出火いたしました、生徒の皆さんは先生方の指示に従って速やかに避難してください……』というお決まりの放送。
 私は一足先に校庭に出て、そこで職員と生徒達が出てくるのを眺めていた。
 本部からの連絡を待ってはいられない。
 私は生徒達が校庭に出終わったら、学内に突入する事に決めた。
 L.M.Mのエージェントが動くとしたら、学内が無人になったその時に違いない。その瞬間を、私は逃すわけにはいかない。
 が、生徒がいる間はだめだ。
 もしも消防士がエージェントだとしたら、彼らは私の侵入を阻もうとするだろう。そんな動きに、生徒を巻き込んではならない。
 マジで速やかに避難してきてください、早く早く! と心で怒鳴りながら校庭で仁王立ちになっていると、なんとか全学年全クラスがぞろぞろと出てきた。すばやくそれを確認すると、よし! とばかりに私は校舎の中に向かった。
 ふと、見慣れた長髪。ああ、宍戸ね、と何気なく彼を視界の端に捉えた私は、はっと足を止めて彼に視線を戻した。
「宍戸!」
 思わず叫ぶ。
「ああ、先生」
 なんだよ、とばかりい彼は私を見た。まあ、ぶっきらぼうだけれど良い子なんだ。
「慈郎は?」
「え? あー、慈郎? だめだめ、あいつこういうの出てこねーよ。どっかで寝てる」
 あいつまだ学内にいるのか! まったくもう! という事はまさか、保健室!? ばたばたしていて保健室を不在がちにしていた自分を呪ってしまう。
 いつもの事だからいいんだよ、と呑気な宍戸を後に私は生徒達をかきわけて走り出した。
「うわ!」
 そしていきなり私の動きを妨害する壁。
「あかんやん、ちゃん。避難する時は走ってはいけませんて、先生が言うてたでぇ。俺と手ぇつないで避難しよか」
 嬉しそうに私の肩を支えるのは、丸眼鏡の少年。
 残念ながら彼の軽口に付き合っている時間はない。
「慈郎がいないのよ」
 私はそれだけを言うと彼の手をふりほどいて走った。
「あいつがこないな時にどっかで寝てんのなんか、いつものことやん」
 彼は生徒の流れに逆らって私について走ってきた。いや、お前はついて来なくていいんだって。
「いいから忍足は避難してなさいよ」
「けど、あいつ起きひんかったらちゃん一人で連れてくんの大変やろ」
 まったくいらない時にばかり気が回るんだから。
 いいから戻れ、と言い合いながら走っていると、最悪な事にまた一人合流する。
「おい! 侑士、どこ行くんだよ! まさか学内に戻ってこっそりヘリコプターを間近で見ようってんじゃないだろうな!」
「ちゃうちゃう、慈郎を起こしに行くだけや。丁度ええわ、岳人も来ぃや」
 いや、だから誘うなって!
 私は二人にヤイヤイ言いながら、おそらく慈郎が寝ているだろう保健室に駆け込んだ。
 まあいい、慈郎を発見したら二人に任せて私は先に行こう。
「慈郎!」
 私は叫びながらいつも彼が寝ているベッドのカーテンを開けた。
 そして、あっと息をのむ。
 そこには予想どおり、いつもの呑気な寝顔の慈郎。
 それと、タケウチ。
 『武内』の方だ。
 彼はベッドの傍らに立って、ニヤニヤしながら私を見た。
 好青年の消防士ではなく、エージェントの顔で。
 そして彼の手にはオートマチックの銃があり、その銃口はすやすやと眠っている慈郎に向けられているのだ。
。我々の仕事が済むまで、お前に余計な動きをさせるなというマーキュリーの指令だ。気付くのが遅かったな」
 私はまた取り返しのつかないミスをしたのだ。
 このゴージャスで平和な学園にまったく似つかわしくない黒く光る鉄の塊は、確実に慈郎のこめかみを狙っていた。

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2007.12.18




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