私を愛したスパイ(14)



「オイオイオイオイ、なんやコレ、慈郎専用の特別の避難訓練か! ごっつ手ぇ込んでんなあ!」
 忍足が感心したように声を上げる。
「もういいから、忍足は黙っててよ」
 私はタケウチから目を離さないまま言った。
「せやかてちゃん、あの銃、めっさホンマモンみたいやん。おっちゃん、ちょっと見せてぇな」
 私は忍足の首根っこをつかんだ。
「みたいじゃなくて、ホンモノなの! こいつはタチの悪い諜報員で、本気で慈郎を狙ってるのよ!」
 これ以上余計な動きをされてはたまらないと、私は思わず叫んだ。
「マジか! って事は、先生はやっぱり女スパイなのか! かっこいいー!」
 今度は岳人が声を張り上げる。
 ああ、くそ、こいつらもう何とかして欲しい。
「アホか岳人! 避難訓練の設定に決まってるやろ! いくらなんでも信じすぎやで、自分! お前はスパイプレイに憧れてんのんか! イメクラ好きの親父か! いやちょと待てよ、それ、結構ええかもしれへんな!」
 私は保健室用の室内履きを拾い上げると、思い切り忍足の頭をパコンと殴った。
「いいから黙ってなさいって言ってるでしょ! ほんとに、あんたたちはうるさいんだから!」
 私が怒鳴ると同時に、タケウチのいらいらしたような声が響いた。
、お前もだ! とにかく騒ぐんじゃない」
 わーわーと騒ぐ忍足と岳人に彼の視線が移った瞬間、私は忍足を殴った室内履きをそのままタケウチの顔面に投げつけた。
 それは見事にヒット。
 彼が銃を持っていない方の手で自分の顔をおさえるのと同時に、私は身体をかがめて彼の右手の銃を蹴り上げた。
「くそ!」
 そしてそのまま身体を回転させて、もう片方の足で彼の顔面に蹴りを入れる。うめき声が続いた。
 宙を舞った銃は、高く掲げられた忍足の手に納まっていた。
「おみ足全開やな」
 彼はニッと笑う。
「いいから早く慈郎を連れて行って」
 これだけの騒ぎでも起きない慈郎、まったくどんな頭の構造をしているんだか。
 ベッドから慈郎を引きずり出して忍足と岳人の方に放ると、引き換えに忍足は私に銃を投げて寄越す。
「サンキュ!」
 それを受け取って、ジャケットの下のホルスターに収める。
「ほな、ちゃん、気ぃつけてな! 岳人、トンズラすんでえ!」
「侑士! ヘリコプターは!」
「アホ! それは後や!」
 校庭に出てゆく彼らを確認すると、私は床に倒れたタケウチを乗り越えて廊下に出た。
 どうする? 音楽室? いや、それはもう遅い。
 屋上だ。
 まず間違いなく、彼らはヘリで『セイレーン』を吊り下げて脱出する気だ。
 地上のルートは全て封鎖できるように手配をしているのを、彼らも承知しているはずだから。
 私のポケットの電話が鳴った。本部からの連絡だ。
 案の定、今現在氷帝学園を訪れている消防署員はニセモノで、本来飛ぶはずのヘリは待機中との事。つまり、あれはL.M.Mの専用ヘリだ。
 私は大至急、空のルートに応援を配置する事を要請した。
 しかし、まずはここを飛び立たせない事だ。
 屋上のヘリポートに向かう最短ルートを、私は全速力で走った。階段を一段抜かしで駆け上がる。三階へ、と向かう踊場で逆光を受けた人影。
 足を止めた私の前に立ちはだかるのは、白衣を脱ぎ捨てた右近慎一郎……マーキュリーだった。
「何だ、もう少し足止めできたと思ったのに、あいつも使えない奴だな。まあ、どうせ無駄な事だが」
 くいっと眼鏡のフレームを持ち上げる彼は、余裕たっぷりの冷ややかな笑みを浮かべる。
 私は彼の言葉が終るか終らないかの内に、ホルスターに手をやってタケウチから奪った銃をマーキュリーに向けた。安全装置は解除したままだ。こういう時、迷っていてはいけない。
 が、当然ながらマーキュリーの動きもすばやくて、私が発砲した弾丸は踊場の壁に小さな穴を開けるだけ。校舎内には銃声がこだまする。
「意外と決断が早い」
 そうつぶやいた彼の手には、次の瞬間には私の腕と交差して銃が構えられた。
 私たちはにらみ合いながら、それぞれの銃で互いの額に照準を合わせる。
 そうだ。
 私は、ここで彼を完全に阻止できなくても良い。
 銃を構えたまま、彼をじっと睨んだ。
「時間かせぎをするつもりなんだろう? そうはいかない」
 彼はニヤッと笑うと、下ろしている方の手から手錠を取り出した。あっ、と私がそれに目をやると、彼はそれを私の銃を持っている手にカシャンとはめる。手錠ごと引っ張られた私の手からは銃が落ちた。慌ててそれを拾おうと上げた左手も、もう片方の手錠で拘束される。私は自分の迂闊さに舌打ちをした。
 が、手錠をはめられた手でなんとか彼の襟元を掴み、膝で彼の銃も蹴り落とす。
「足癖が悪いんだな」
 それでも全く動じない彼は、私の拘束した両手を引っ張り上げて階段の手すりに押し当てた。
「悪いのは足癖だけじゃないけれどね」
「死んでも治らないって奴か?」
 マーキュリーはそのまま私の身体を手すりから押し出した。
 私はかろうじて身体をひねって手すりにつかまるけれど、三階の踊場からぶら下がった形。私を見下ろす冷酷な彼の目を睨みつける。
「……いい眺めだな。そこから、ヘリの飛び立つ音を聞いているがいい。セイレーンの積み込みは間もなく終るだろう」
 彼はジャケットの裾を翻して階段を駆け上がった。
 私は懸命に身体を持ち上げようとするのだけれど、いかんせん、両腕同士が離れないというのは力が入りにくい。
 まったく、やられっぱなしじゃないの! 
 自分で自分をののしりながらじたばたと無様にぶら下がって悪戦苦闘していると、急にぐいと私の腕を持ち上げる力強い手。その手の大きさと熱には覚えがあった。
 階段の手すりから踊場に引き上げられた私の目の前には、ブリティッシュスタイルの紳士が髪ひとすじすら乱さずにいた。
「……こういう趣味をしていたのか。知らなかった」
 私を抱えた手を離し、手錠を指先でちょいと持ち上げて表情一つ変えずに言う彼に、私は礼を言う間もない。
「榊先生! そんな事を言ってる場合じゃないでしょ、早く屋上へ!」
 私はマーキュリーの後を追って屋上へ走った。
 屋上へ続く扉を開けると、私たちを迎えるのはヘリのプロペラが巻き起こす風と轟音。
 ヘリのボディには、フレームを外されたピアノがきっちりと結び付けられている。
 そして今まさにマーキュリーが乗り込むところだった。
 彼が何を言っているのかはわからない。
 けれど、勝ち誇った顔で慇懃に私に手をあげて乗り込み、そしてヘリは飛び立って行った。
 私は走ってヘリを仰ぎ見て、銃を構えた。
「やめておけ。無駄だ」
 榊太郎の暖かい手がそれを制止した。
「でも……!」
 彼はくいっと顎で給水塔の方をさした。
 はっとそっちを見ると、そこには涼しげな顔をした少年が片膝を立てて座っていた。
 跡部景吾だ。
 私たちと目が合うと、彼はひらりと飛び降りてきた。
「……見慣れないヘリじゃねーか」
 そしてククッと笑いながら上空に飛び立ったヘリを見上げる。
「あれと同じ機種は、ここいらじゃウチにしかない。救急隊が持っているはずがねー。許可を得てもいねーモンがこの氷帝を飛ぶなんざ気に入らねーから、燃料を抜いておいた」
 私が目を丸くしていると、榊太郎は満足気に跡部にぴしっと右手を指した。
「ご苦労。行ってよし」
 跡部はさらりと髪をかきあげて、私たちにひらひらと手を振りながら屋上を後にし、電話を取り出した。
「樺地か? 全校生徒を校庭から体育館へ移動させろ。今すぐにだ」
 彼の言葉に私がはっと上空を見上げると、先ほど飛び立ったヘリはふらつきながらどんどん高度を落としていた。プロペラの回転が不安定だ。見る見る校庭へ不時着の体勢となる。
 私は屋上の手すりに走って、その様を眺めて我に返る。あわてて電話を取り出した。
「もしもし、本部ですか? ただいま氷帝学園校庭にL.M.Mのヘリが不時着します。中にはセイレーンと共にマーキュリーおよびL.M.Mのエージェントが乗っており、至急確保をお願いします」
 とりいそぎ連絡をして、校庭の様子を見守る。
 そんな私の隣りに榊氏が静かに歩み寄って、そして言った。
「あれは、正確にはたちの言う『セイレーン』ではない」
 彼の言葉に私は、えっと声を上げかけた。
「あれは、セイレーンのブースター、つまり出力増幅器にすぎない。本体は、こっちだ」
 彼は手にしたアタッシュケースを持ち上げて見せた。
 パチンと蓋を開けた中のそれは、いつも彼がテニスコートで使っていた『テニス見る見る上達する君』だった。
「コートでチューニングを重ねていたこっちが本体だ。、そこで両手を上げてじっとしていろ」
 私は彼が言うとおり、手錠がはまったままの両手を上げて立っていた。
 彼がアタッシュケースの中の装置を操作すると、私の腕の手錠がかすかに震えるのが分かる。その震えは徐々に強くなり、パキンと硬く高い音を立てて手錠は砕け落ちた。
 呆然と私が両手を見つめていると、手錠が擦れて赤くなった部分に榊氏がそっと指を触れた。その甘い感触に包まれながら、私は思わずじっと彼を見上げる。
 彼が私にセイレーンの正体を知らせなかったのも、結局マーキュリーの目をピアノの方にだけ向かせるために正解だったのだ。
 一体、この人は何者なのだろう。
「……先生はなぜ、こんなものを……?」
「完璧な音楽ホールを作りたいと思っていてね」
「音楽ホール?」
「そうだ。観客がどの席に座っていても、理想的な状態での音を一人一人に届ける事ができる。そんなホールだ。そういう音響設備のために、この装置をチューニングしているのだ。どちらにしろこれはまだまだ試作段階でね。私の耳でないとチューニングはできない。テニスコートでの音を聞かせてみたり、音楽室で使ってみたり。そして時にはあのピアノのブースターと合わせてどれだけの精度で実用に耐えうるかテストしていたところだ」
 世界の兵器会社の狙っているシステムは、なんともまあ麗しい夢のための装置だったというわけだ。
「だが、まだまだだな。これでブースターも壊れてしまっただろうし、また一からやりなおしだ」
 そう言いながらも、彼はちっとも残念そうではないしむしろ楽しそうに見える。きっとああいうものを、じっくりと作り上げる作業が好きなのだろう。
 榊太郎の作り上げるものは、鋼鉄の手錠を砕くくらいではまだまだお眼鏡にはかなわぬようだ。
 理想の高い紳士に、L.M.Mのヘリを叩き落した少年、まったく一筋縄ではいかない学校だった。
 私はため息をついて、L.M.M確保のために同僚たちが集まってきた校庭を見つめた。
 まあ、結果オーライだけれど。
 私の任務は無事に終った。
 校庭を眺めてから、隣りに立つ榊氏をちらりと見て、ああそうか私はもう養護教諭としてここに来なくても良いのかと、改めて不思議な気持ちになった。
 生意気な中学生の相手も終わりなのに、なぜか思った程清々しい気持ちにはならない。

 暖かい春風がふわりと彼の甘いテノールを運んできた。
「これだけ大々的に確保されては、L.M.Mはもうおいそれと動けまい。手柄だったんじゃないか」
「……結果的にはそうですけれど、今回は榊先生や跡部のおかげで……」
 ああ、榊氏が私に上司への報告を留まらせたのはこのためだったのか、と今更ながら気付いて気恥ずかしくなる。彼はどこまでもどこまでも、私の先を行く。
「結果よければ全てよし、だ。最後に目立つ手柄を立てれば、も辞表を出しやすいだろう」
「はあっ!?」
 彼の唐突な言葉に私は素っ頓狂な声を上げてしまう。
はなかなか有能だから、このまま氷帝の養護教諭を続けるといい。私は自分のところの無粋なSPは学内には入れない主義だったが、だったら教員としてなじんでいるから問題ないだろう。エージェントとしての給料は勿論私が支払う。それだったら、十分今までの職場の報酬は上回るだろう?」
 右手でコンコンとこめかみをたたきながらいつもの調子で言う彼を、私は呆れた顔で見つめた。そして少し俯いてから、ぎゅっと屋上の手すりを握り締める。
「……福利厚生はどうなっているんですか? 報酬が良くても、こき使われっぱなしじゃたまらないし。私は夏にはきちんと休暇を取って、ドバイに行きたいんです」
 彼はアタッシュケースを置いて、私と同じように両手で手すりを掴み、私の顔を覗き込んだ。
「ドバイか。パーム・ジュメイラに、うちの別荘がある。テニス部の夏の全国大会が終ったら、来れば良い」
 来れば良いって、休暇中までも一緒にすごすつもりなのかしらね、この新しいボスは。
 彼は手すりを掴んでいる私の手を引き寄せると、身体を抱きしめた。
 初めて力いっぱい抱きよせられた彼の胸板は思ったよりもたくましくてそして熱くて、なんだか驚いてしまっていると、彼はそのまま私の唇をふさいだ。私に有無を言わせない、熱く激しいキス。
 ちらりと横目で見下ろした校庭からは、大捕り物に出向いてきた私の上司がこっちを見上げている。そう、風紀に厳しい上司が。ああ、これで報告書を提出する際、まず間違いなく小言をくらう。
 これも、榊太郎は計算済みなのだろう。
 まったく、いつだって私に選択肢を与えない男なんだから。
 ドバイに行ったら、今度は誰も見ていないところでキスをしてくれるだろうか。
 目を閉じた私の頭には、まだ見ぬドバイのあの椰子の木の形をした人工海岸やブルジュ・アール・アラブ、熱くからみつくだろう風が思い浮かんだ。
 そしてそのビーチで私の隣りにいるのは、熱いのかクールなのかわからない、最高の男の人(43歳)。

(了)
「私を愛したスパイ」

2007.12.19




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