私を愛したスパイ(8)



 あいかわらず寝てばっかりの慈郎をテニスコートにお届けに伺った時だった。
 テニスコートの入り口で、忍足・岳人のコンビと鳳くん、それに見事な長髪の宍戸亮がなにやら話していた。尚、この宍戸亮、お前は佐々木小次郎かというような長髪で、しかしなかなかに常識的な好感の持てる少年であった。
「あっ、先生!」
 私を見つけた岳人が手を振ってぴょんぴょん跳ねる。
 おー、ヨチヨチ、がっくんはいつも可愛いのぅ。
「ちょうどよかった! 先生にちょっと聞きたい事があるんだけどよ!」
 何でも聞いてきなさいよ、と思いつつ私は岳人に笑いかけた。
 こういう中学生は本当にかわいらしい。
「あのさ! 女の人のガーターベルトとパンツって、どっちを先にはくんだ?」
 岳人は真剣な顔で私を見上げる。
 私はとっさに、忍足の顔を見た。
 私と目が合った彼は、なんでもないように右手で眼鏡の位置を直す。そして、鳳くんと宍戸亮は気まずそうな顔で目をそらした。
「なあに? また賭けでもしてるの?」
 気を取り直して私が岳人に尋ねると、彼は大きくうなずいた。
「そう! 俺と長太郎と宍戸は、パンツが先に決まってるだろって言ってるんだけど、侑士はガーターベルトとストッキングが先やって言うんだぜ」
 このメンツに忍足がいなければ、私だって『じゃあ、実際に見てみる?』なんて冗談のひとつも言いたいところだが、まったく忍足め。
「……岳人、残念ね、忍足の連勝。ガーターベルトとストッキングが先です」
 私が言うと、忍足以外の三人は驚いたような顔をして、そして鳳くんと宍戸亮はそそくさとコートに散っていった。
「マジか!? くっそー、くそくそ侑士め! なんでパンツが先じゃねーんだよ!」
 岳人はまた実に悔しそうに手足をバタバタさせる。
「な、せやろ。岳人、考えても見ぃや。パンツの上からガーターベルトなんかしとったら、脱がすのん大変やし、かなわんやんか。なぁ、ちゃん?」
 忍足は得意気に言った。
「岳人、別にそんなややこしい事考えなくてもいいのよ。ほら、トイレに行った時パンツを後ではいてたほうが、脱ぎやすくていいでしょ? ね?」
「あー、そっかー。くっそー!」
 岳人は納得したようではあるが、あいかわらず悔しそうだ。
「トイレて、ちゃん! 男子中学生の夢を壊さんといてぇな」
「あんたは夢見すぎ!」
 忍足を怒鳴りつけながら、私は先日榊氏がPCを操作していたあたりにまた長机が出されて、VTRや器械が置かれマネージャーが何やらセッティングしているのを見た。今日はそこには榊氏はいない。
「……あれ、いつもやってるの? ビデオ撮ったり」
 忍足に尋ねる。
「ああ、あれか。せやな、試合形式の練習をやるときは大概やってるな。あと試合形式以外でも、榊監督の指示があった時。榊監督は映像を見ぃひんでも音だけで、誰と誰の試合でどうなってるか、まるで現場にいたみたいに分かるって話やで」
「へえ、マジで?」
「マジ。なんでも、あの『テニスみるみる上達する君』でばっちりらしいわ」
「なに、ソレ」
「PCにビデオとかマイクみたいのんとかつなげてるやん。榊監督のあそこらへん一式に、俺がそう名前をつけたってん」
 なんともセンスのない命名だ。
「ああ、そうそう。テニス部のトレーニングルームを見せてもらいたいんだけど、今、鍵開いてる?」
 レモンイエローのテニスボールをもてあそぶ忍足に、尋ねた。
「トレーニングルーム? おう、開いてると思うで。もし閉まっとったら言うてや。開けたるし」
 サンキュ、と彼に手を振って私はクラブハウスに足を向けた。
 クラブハウスには何度か足を運んでいるけれど、なかなかじっくりと調べられていない。以前から榊氏には一度トレーニングルームを見学させて欲しいという旨は伝えてあるから、今回は堂々と入り込む。
 さて、ゴージャスなクラブハウスの中のトレーニングルームは以前も述べたように榊氏が私財を投じて設置したという話だ。
 十分な広さの部屋の中に配置された各種のマシンのレベルと種類は、高級スポーツジム顔負け。そして、体成分分析装置のInBody720まで置かれている。この最新の装置は、確か250万以上はする。中学生の部活動の設備としては常識を超えている。
 私はふうっとため息をついて、部屋を見渡した。
 そして気を取り直して、各種マシンを調べてゆく。
 半分ほどのマシンをチェックしたところで、30分ほど経っただろか。
 さきほどのため息とは違う種類のため息が、私の口から漏れた。
 InBodyも各種トレーニングマシンも、何の変哲もない機器だ。
 ちなみに、既に音楽室は資料室内の楽譜から倉庫の楽器まで全て調べたけれど、何も怪しげなものは発見できなかった。
 私は手を止めて、ふと天井を仰ぎ見た。
 正体の分からない『セイレーン』と榊太郎。
 私はこの氷帝学園で、何かを発見する事ができるのだろうか。
 4月を半分以上過ぎても、何の手がかりを得る事もできていない私はやや途方に暮れる。
 こんなにも遅々として進まない任務は初めてだったし、何しろ初めての単独の潜入という事が、私に焦りとそして認めたくはないけれど心細さを生んでいるのかもしれない。
 何度目かのため息をついて残りのマシンを調べにかかろうかとした時、トレーニングルームの扉がゆっくりと開いた。
 私はどきりとしてそちらに顔を向けるが、入ってきたのは跡部だった。
 マシンを使いにやってきたのだろうか。
 お邪魔してますよ、といったように私は軽く手を上げて、何気ない室内チェックをしているように(養護教諭は学校の施設の照明など環境を管理する役目もあるので)手元のノートにメモをするそぶりをする。
 彼は私から数メートル離れたところに立ったまま、じっと私を見る。
 手元のノートを覗き込みながら、私は彼の強い視線を感じた。けれど、あえて顔は上げない。そんな私の耳に、跡部の凛とした声が響いた。

「あんた、何者だ。何の目的で氷帝にやってきた?」

 彼のその言葉は、ラテン語だった。
 私は思わず顔を上げて、跡部を見た。
「何をしにって……」
 ついつい口走ってから、私はしまったと思う。
 さまざまな国で、諜報員同士の会話ではなるべくその土地では通じない言語を使う事が多い。ラテン語は今は使われていない言葉であり、私たちは時にラテン語をその会話に使う事もあるのだ。
 その後に言葉は出てこず、額にかざした左手の奥の跡部の目をじっと見つめていると彼はまたラテン語で続けた。
「あんたがただの養護教諭じゃない事はわかってる。そうでもなきゃ、ラテン語なんかわかるわけねー。それに、前任の養護教諭はあと一年で定年だ。こんな時期に他所に移るなんざ、おかしいだろ」
 ああ確かに河本先生には、不相応なくらいに待遇の良い職場を手配したのだ。
 私が潜入できるようにするために。
 この少年は、一体私の事をどこまで調べたのか?
 私はこんな子供相手に、正体を見破られ任務を失敗してしまうのか?
 背中にざわりと嫌な感覚が走る。

「跡部、彼女の件は私に任せろ」

 耳慣れたテノール。
トレーニングルームの扉に優雅な姿勢でもたれかかって立っているのは榊太郎だった。
 私は飛び上がりそうになった心臓を抑えてそちらを見る。

「監督……!」

 跡部は眉をひそめて榊氏を見て、そしてまた私を見る。
「お前はトレーニングを続けろ。行っていい」
 そして右手で廊下の方をぴしりと指した。
 跡部は少々不満気な顔をしながらも、黙って彼に従った。
 さて、ラテン語を操るやけに鋭い少年は去ったが、私の状況は決して好転したわけではない。
 ドアにもたれたまま、右手をこめかみにあてて何を考えているのかわからないあの表情でじっと私を見る43歳の男を見つめ返すしかなかった。
 
「キーは持っているか?」
「は?」

 唐突な彼の言葉に、私はそんな間抜けな返事しかできない。
「エキシージのキーだ。一度、走らせてみたいと前に言ってあっただろう」
 顔色一つ変えないままで言う彼を見つめながら、私はジャケットのポケットに入っている愛車のキーを握り締めた。

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2007.12.11




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