私を愛したスパイ(7)



 今回の任務には多くの同僚が携わっているわけだけれど、榊グループの研究所および榊氏の自宅に潜入しているチームも膠着状態のようで、セイレーンに関する目新しい情報の連絡はあいかわらず送られてこなかった。
 榊グループのラボでは意外なくらいにセイレーンに関してのやりとりはなされておらず、我々の組織もL.M.Mも手を焼いているらしい。尚、セイレーンの開発については榊太郎氏が大きく関わっているとの前情報もあり、おそらく研究チームではなく彼個人で研究・開発をしているのではないかというのが、私の上司の一つの判断だった。
 という事は、L.M.Mのエージェント達もそのような結論にたどりついた可能性が高い。
 つまり、榊太郎自身の調査ががぜん重要味を帯びてきたという事だ。
 じゃあ、彼の自宅はどうなのかというと、実はチーム員が潜入している自宅というのは榊家の実家だ。つまり、榊太郎が住んでいる家ではない。
 榊家は閑静な山手に豪邸を構えており、榊太郎氏の両親と長男(つまり太郎氏の兄)が住まっている。そこは出入り業者や使用人が多く、内情を探る事はそんなに難しくはない。そして、太郎氏はというと同じく都内にかまえた瀟洒でゴージャスなマンションにひとり住まいというわけだ。
 当初私は、さして実家から遠いわけでもないそのマンションに、女性でも囲っているのかしらなどと下世話な発想をしてしまったけれど、調べてみるとどうもそうでもない様子。ひとりで思うように過ごすのが好きらしい。
 尚、そのマンションにはまだ誰も調査には入っておらず、すなわちいずれ私の仕事になると思われる。若干面倒な仕事になりそうだけれど、これこそマーキュリーに遅れを取ってはならないし、彼の動向からますます目が話せなくなりそうだ。
 そんな事を考えつつ、学内のカフェテリアで昼食を取っていると、向かいの席にガタンとトレイが置かれた。
 顔を上げると、それはマーキュリー……右近慎一郎だった。
「ここ、いいかい?」
 彼は『二年生の副担任を勤める新任教師』の顔で笑って、私が返事をする前に腰掛けた。
 そして、品の良い仕草でパスタを食べ始める。
「……養護教諭の業務は慣れたか?」
「……まあまあね。そっちこそ、担任を持つのってどう? 楽しそうよね」
 世間話などする間柄じゃあるまいに、何をしに来たんだろうと、私は淡々と返事をした。
「まあ、子供の相手など柄じゃないが仕方あるまい。……時に……」
 彼は少々眉間に皺を寄せて私を見た。
「僕は榊先生の尻を追い掛け回すゲイらしいな?」
 手に持ったスープのカップをテーブルに置いて、私は目を丸くして彼の視線を受け止める。
「……へぇ、そんな噂が立ってるんだ。まあ、中学生なんてそういう話好きだものね」
 そしらぬ顔で食事を続けようとすると、彼はいらだった表情をしてテーブルを人差し指でコンコンと叩く。
「しらばっくれるなよ。、きみの仕業だろう。下賎な情報を流すものだな、お宅のエージェントは」
 あらあら、マーキュリーともあろう人が、結構気にしてるんじゃないの。
 私が男子中学生にご執心なんて噂になりそうだったから、ムシャクシャして仕掛けたネタだったけれど、意外や意外効果があるのかしら、なんて彼の表情を伺う。
 そうやって沈黙が流れたところ、私たちのテーブルの傍を3人の女の子が通った。
「あっ、右近先生! 先生とご飯食べてるの? 女の人ともご飯食べたりするんだー!」
 彼女たちはキャッキャキャッキャと声を上げる。
「うーん、そりゃ、たまにはね」
 マーキュリーは穏やかに言って、優しげにしなを作って彼女たちに微笑んだ。
「じゃあ、今度私たちとご飯食べようよ! 榊先生と2ショットの写メ撮ってあげる!」
「ほんと? 楽しみにしてる」
 彼が手を振ると、女の子たちは楽しそうに声を上げながら去って行った。
 さすが、通り名を持つ腕ききスパイ!
 もしかして、このままホモキャラで行くつもりなんだろうか!
 それとも本当にホモ?
 私が驚きつつ彼を見ていると、彼は女子生徒がいなくなったのを確認しキッと私の方を睨みつける。
「僕は正統派の諜報員なんでね、きみの汚いやり方なんかどうって事ないさ。言っておくが、僕は男色家などではない」
 口調は穏やかだが、きっとクラスの女子にいじられて相当イライラしているのだろう。私の心を読み取ったかのように、言い放った。どうって事ないと言いつつ、結構腹を立てているようだ。
 確かに、世界に冠たる諜報員が女子中学生からホモキャラ扱いされなければならないなどとは、屈辱的かもしれない。が、情報戦というのは非情な物なのだから、仕方あるまい。
 私は心の中で、ホモキャラがんばれ、とつぶやいてテーブルを去った。



 午後の授業時間が終わり、学生たちはそれぞれの部活動へといそしむ時間がやってきた。
 私は業務の一環として、各運動部の様子をラウンドにいかなければならない。
 そして、その前になぜだか私の日々の役目となっている日課があった。
 こんな業務は河本先生からも聞いていなかったんだけど!
 私はため息をついて、保健室のベッドのカーテンを開けた。
 ベッドでは、明るい色の髪をした少年がくーかくーかと気持ち良さそうに寝息を立てている。
 テニス部の三年生、芥川慈郎だ。
 こいつ、油断しているといつも保健室のベッドにもぐりこんで寝てやがるのである。
 それを跡部と榊氏に報告すると、じゃあ部活の時間になったら起こしてテニスコートに連れてきてくれと言い渡された。
 時には二年生の樺地が来て、寝たままの彼を背負って連れて行ってくれるのだが(本当に感心な子だ!)、基本私が起こして引っ張って行かなければならない事が多い。
 まったく、なんで私が!
「ちょっと、慈郎! 起きなさいよ!」
 当初は、こんなに寝てるなんて何かものすごく疲れているとか、問題を抱えた子なのだろうかと戸惑いつつ接していたのではあるが、単によく寝る奴らしいと判明すると私の彼の扱いは雑になって来た。
 私は彼に声をかけるとともにベッド柵をゴンゴン鳴らしてベッドごと揺さぶった。
 するとようやく彼は、う〜ん、とまるで漫画に出てくる子供みたいな声を出して目を覚ますのだ。
「早く起きて! 私も忙しいんだから!」
 起き上がった彼の襟首をつかんで、ベッドから引きずり出した。
そのままテニス部に引っ張っていく。
「まったく、慈郎、アンタ前からいっつも保健室で寝てたの?」
 歩きながら私がうんざりしたように言うと、彼は目をこすりながらあくびをした。
「いんや、保健室は三年になってからよく寝るなー。やっぱ、ベッドは寝心地いいし〜」
 そう言ってニシシと笑った。
「今まで、河本先生はやっかましくてさ、なかなか寝れなかったんだけど。先生だと、起こし方も優しいし快適快適!」
 あれで優しいとは、河本先生はどんなだったんだ? というか、やはり私、ナメられてる! 
 少々腹立たしい思いでテニスコートに到着すると、ちょうど跡部がいたので慈郎を引き渡した。
 それにしても、テニスコートの周りはいつも女の子で一杯だ。いつか保健室で休んだ女の子が言っていた人気っぷりというのがよく分かる。
「……マネージャーの子たちはちゃんとやってる?」
 私が跡部に尋ねると、彼はふっと笑って髪をかきあげた。
「まあまあだな」
 まったくいつ話しても、生意気な子だ。けど、それがすっかり様になっていてもはや腹も立たない。
 私を左手の指の隙間からじろりと見てから、コートへと歩いてゆく彼を見送っていると、背後から何やら異様なリズムの足音が。
 振り返ると、ああ、岳人か。ぴょんぴょん飛び跳ねながらやってきて、私の前にくるくると回転しながら着地した。
「なあ、先生! 俺、この前の身体測定で思ったより身長伸びてなかったんだけど、どう思う? ズバリ、どうやったら背が伸びるんだよ?」
 おー、ヨチヨチ、がっくんは可愛いのぅ。
 中学生というのはやっぱりこうでないとな。
 私は目の前でぴょんぴょん跳ねる彼を、ほうっと満足気に眺めた。
「そうね、男の子は身長伸び始めるの遅い子も多いし、高校に入ってからもまだまだ伸びるから大丈夫よ。それに、岳人の芸風だったらあんまり急に背が伸びてもバランスが取りにくくなって困るでしょう」
「芸風って、俺のアクロは芸じゃねーよ!」
「あと、あんまり筋トレしすぎて、背が伸びきらないうちに筋肉つけてしまうと、それで身長も伸びにくくなるらしいから、その辺りはトレーナーの先生に相談して行ったら?」
 岳人はかわいいからちっちゃいままでいいよ、とはさすがに言えず、私は我ながら無難で建設的な対応をした。
「くそっ、そうか。跳躍のための筋肉をと思って、スクワットばかりやってたぜ。わかった、サンキュー!」
 そう言うと、彼はまた嵐のように飛び跳ねて去って行った。
 彼が向かう先のコートには、榊太郎が例によって例のあのスタイルで選手達のトレーニングを監督していた。
 私はゆっくりとそちらに近づいてゆく。
 コートでは選手たちがラリーを続けており、ベンチの前には長机が出されて、榊太郎を中心にマネージャーらしき少年が並んでいた。ビデオカメラやPCなど、様々な機器を用意している。さすが、お金がかかっているなあ。
 私が眺めている事に気付くと、榊氏は軽く会釈をした。そしてマネージャ達に何やら指示をすると彼らはカメラやらVTRを手に、コートのあちこちへ散っていった。
「……今日も、慈郎が世話になっていたようだな。すまない」
 榊氏は忙しそうにはしていたが、私が近づくのを拒否する風ではなかった。
「ほんと、よく寝る子でびっくりします」
 私はくすっと笑いながら彼の隣に立ってコートを眺めた。
 ラケットでボールを打ち込む心地よい音が響く。
「先生も忙しいだろうに、いろいろと仕事を増やして申し訳ない」
 彼はPC操作しながら私を見て、再度申し訳なさそうに言った。
「いいえ、私も少しずつ仕事に慣れてきましたし、大丈夫です」
 そう言いつつも、私は彼の手元のPCを見つめる。そういえば、彼が学内でPCに触っているところはほとんど見ない。職員室ではほとんど使っていないのだ。
 テニス部の関係で使っているらしいこのPC、調査対象に入れた方がよさそうだ。
「ところで、テニスの屋外トレーニングでも様々な機器を使うんですね?」
 私はマネージャーや榊氏の扱っている機材の多さに感心して尋ねた。
「ああ、そうだな。何しろ人数が多い。いつも私がこうして直接見る事ができれば良いが、そうもいかない。だから練習試合をああやってビデオに撮らせたりして、指導する」
 いつだったか、音楽室のピアノの傍で話した時も思ったけれど、彼は本当にテニスの指導には真剣だ。
 こういう人が中学校の部活動の指導に熱心で、しかもそれがテニスなんて、とてもイメージにあわない。けれど、彼がこうやってテニスコートでひどく真剣な姿というのは、それはそれで妙に様になっているような気もする。
「それは、選手のデータ?」
 私は彼の手元のPCをさす。
「ああ、画像と音声も同時に保存してある」
 言われて見ればPCにはVTRとなにやらケースに入った機械が接続されていた。
「音声?」
 私が聴き返すと、榊氏は私を見て右手をこめかみに当てた。
「ビデオカメラのマイクでは音声が悪いのでね、専用の器械で収音する」
 静かに言葉を続ける彼を、私は目を丸くして見つめた。
 収音って、何を?
 そんな私の疑問を察したのか、彼はふっと息を吐くと右手をぴしっとテニスコートに向けた。
「ラケットにボールがインパクトする瞬間の音、選手が走る音……それらが正確に収集されれば、画像とあわせて私は完璧に選手の実際の動きを把握して指導ができる。たとえ、私がその場にいなかったとしても。それらのデータをきちんと収集しておく事は、マネージャーの重要な仕事のひとつだ」
 天高く響き渡るインパクト音を、私は懸命に聞いた。
 確かに心地よい音ではあるけれど、榊氏はこの音からどれだけの情報が得られるのだろう。想像もつかない。
 感心して、私はふううっとため息をついた。
「榊先生は……どうしてテニス部の顧問を? 普通に考えて、オーケストラとか合唱部とか、そういうところの顧問をされていそうだから……」
 そして思わず、そんなありがちな質問を彼に問うた。
 榊氏は、またこめかみに右手を当ててそして目を閉じた。
「音楽は、楽譜がある。アドリブだったとしても、コードやモードがある。つまり、予測ができる。けれど、この音は……」
 目を開けて、テニスコートを見渡した。
「私は、スポーツの中で『テニス』の音が最も美しいと思っている。ラケットのスウィートスポットにボールがインパクトした音、それを追う選手の足音……。ここで繰り広げられるのは私にも予測のつかない、美しく壮大な音楽だ。そこに勝利というエッセンスが入る瞬間の悦びを得るために、私はこうしている」
 そう語る彼の言葉は、静かだけれどとても熱くて、一瞬私の耳からはボールの音、選手の声、全てが消え去った。
 耳に入るのは、榊氏の甘いテノールの声だけ。
 そして、無表情だけれど決して冷たくはないあの目。
 テニスコートの音を極上の音楽だと表現する人に、私は初めて出会った。
 そんな表現をする人に、私は興味を持った。

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2007.12.10




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