私を愛したスパイ(6)



 さて、始業式と入学式がすむと、学園内はがぜん騒がしくなった。
 新入生といってもほとんど附属の学校から上がってきた一年生は、それでもやはり初々しくて中等部の基準服がまだぎこちなく、子供っぽいというかまったく子供の様相だ。そして三年生ともなると忍足や跡部のように私よりも長身の、成人男子に近いような子も多い。女の子だって、一年生はまるっきり小学生みたいなのに、三年生になるとしっとりきれいな子が沢山。こんな風な『子供』の集団を私は久しぶりに目の当たりにするので、忙しいながらも新鮮な日々だった。
 忙しい。
 そう、本当に忙しいのだ。
 養護教諭の業務は、思いのほか忙しい。
 が、同じく新任教員として潜入してきている敵方のエージェント、マーキュリーこと右近慎一郎は副担任として二年生のクラスを受け持っており、つまり主担任の先生がついているわけで単独行動が難しいようだった。
 ザマーミロだ! 
 そんなわけで私達は、それぞれにまず諜報活動をする足場固めにと忙しい時期をすごしていた。

 ある暖かい日の午前中、二時間目くらいの時間帯だろうか。
 保健室の扉がノックされた。
 私は会議資料(学校のね)に目を通していた顔を上げて、振り返る。
 すると、扉を開けて長身の男の子が入って来た。
 ああ、この子知ってる。
 初日にテニスコートで会ったっけ。
 テニス部の二年生だ。
「先生、すいません。気分悪くなった子がいて……」
 視線を落とすと、彼は小柄な女の子を支えていた。
「あ、じゃあこっちで休んで」
 私はベッドのカーテンを開けると、彼女をそこに座らせた。
「ついてきてくれたのね、どうもありがとう。あとは大丈夫よ」
 私は彼に授業に戻るように促した。
 その、長身で、とても甘いきれいな顔をした男の子は礼儀正しく私に頭を下げた。
 しっかりした体格をしているけれど、おそらく急激に成長を遂げたのであろうその身体はまだ少しどこかしらアンバランスで、やっぱり子供らしさが伺える。二年生と三年生で一年の差でも、なんだかやっぱり違うものだなと私はふと感じた。
「じゃあ、俺、授業に戻ります」
「あの、鳳くん、どうもありがとう……!」
 部屋を出て行こうとする彼に、女の子が声をかけた。
 そうそう、鳳くんだ。鳳長太郎。確かそんな名前だった。
 私がここへ来た初日、河本先生と行ったテニスコートで見かけたっけ。
 ちなみに忍足が主催した賭けでは、私には彼氏がいる、という方に賭けていた子だ(しつこいようですが!)。おそらく、忍足に無理やりのせられたのだと思われる。
 まあ、それはいい。
とにかく彼は礼儀正しい少年だった。
 彼が部屋を去るのを確認すると、私は彼に連れられてきた女の子の様子を伺った。
 顔色が少し悪く、前かがみでしんどそうにしている。
「どうしたの? どんな具合?」
「あの……」
 何やら言いにくそうにしている様子から、私は大体の事を察した。
「生理痛?」
 彼女はこくりと肯いた。
 きっと、気恥ずかしい思いで鳳くんに連れられてやってきたのだろうなあと思いながら、私は戸棚からホットパックを取り出して電子レンジに入れた。
「保健室ではね、原則として内服薬は出せないの。だから、痛み止めをあげる事はできないけれど、なんとか楽になるようにしてみましょう」
 私はホットパックを暖めている間、彼女にスカートのホックやシャツのボタンを少し緩めて楽にするように言って横にさせた。そして、暖まったホットパックをタオルに包んで腰とお腹にあててみるように促す。
「あんまり効果ないようだったら外せば良いし、しばらくそうやって休んでみて。お腹があつくなったら、首のあたりをあっためてみてもいいしね」
 彼女はしばらく横になってあちこちを暖めていて、少し表情が柔らかくなってきたような気がした。
「……なんか楽になってきた感じ。いつも薬飲まないとおさまらないんだけれど、今日は薬忘れてしまって……。あっためると、楽になるんだ」
 彼女は少し意外そうに言いながら、ホットパックを大事そうに首元にあてていた。
「そうね、人にもよるけどね。暖めて血管を拡張して血流を良くする事と、副交感神経優位にしてリラックスする事は痛みには効果的だとよく言われてるそうだから」
 私はどうにも子供相手は慣れていないので、端的な説明しかできない。
 けれど彼女は別段、気を悪くした様子はなかった。
「……鳳くんがね。どうしたの? よく具合悪くなるの? とか聞いてくるからさ、恥ずかしくって……」
 彼女の言葉に、私は思わず笑ってしまう。
 確かにそういう事には鈍そうな子だ。忍足や跡部だったら、さらりと察するのだろう。まあ、あの辺りは保健室に付き添ってくるようなタマには見えないけど。
「……ねえ、先生って、前はアメリカの学校にいたってホント?」
 体が楽になってきた彼女は、今度は私自身に興味を示したようだった。まあ、この年頃の学生というのは、男女問わず若い教員には興味を持つものだろう。
「そうよ。アメリカの大学病院で研究生をやっていたの」
 私は今回の潜入に際して組織が用意した通りの経歴を口にした。
「へえ! そういえば、右近先生はイギリスにいたんだよね」
 鳳長太郎は確か二年C組、そうか、マーキュリーが副担任をやっているクラスの子か。
「へえ、そうなんだ」
 そういえば、彼はそんな経歴を用意していたような気がする。お互い日本での過去は偽造しにくいから似たようなものになるな、と苦笑いをした。
「右近先生ってかっこいいでしょう。結構人気あるよ。ああ見えてスポーツマンらしくて、テニス部の副顧問を希望してたんだって」
 彼女はほっとしたのか、どんどんしゃべり始める。
「へえ、テニス部を?」
「そう。だけど榊先生が、副顧問は必要ないって事で結局オーケストラ部の副顧問になったらしいよ。右近先生がテニス部に行ってたら、すっごく絵になったのにねえ」
 マーキュリーはやはり榊太郎への接触に必死になっているのか。
 という事は、セイレーンの情報については何ら手がかりは得られていない段階なのだろう。少々焦り始めていた私はほっとする。
「テニス部って、やっぱり人気あるの?」
 すっかり元気になったらしい彼女に、私は尋ねた。
「そりゃあ勿論! うちのチームは強いしね。さっきの鳳くんなんか二年生になったばかりだけどレギュラーですっごく人気あるし、三年生のレギュラーの先輩達も皆かっこいい人ばかりだから、女子は皆テニス部には夢中だよ」
 なるほど、あの忍足や跡部、岳人たちはモッテモテって事か。
「ふうん、すごいんだねぇ。じゃあ、榊先生なんかも人気ある?」
 私が何気なく尋ねると、彼女はちょっと困ったような顔をする。
「榊先生? うーん、榊先生はビミョーだなー。 すっごいお金持ちらしいし、かっこいいっちゃあかっこいいけど、うーんビミョー」
 なるほどね。
 私に男はいないだろう、と断言したあの紳士もさすがに女子中学生にはさして人気を博しているわけではなさそうだ。ザマーミロ。
 私は少々嬉しくなって、クスクスと笑った。
「もしかして、先生、榊先生が好き?」
 唐突な彼女の言葉に、私はベッドの隣に置いたパイプ椅子からずり落ちそうになった。
「はあ?」
 そりゃあまあ、リゾート先で会ったりアストンに乗っているところを見たりしたら、ちょっとはいいなかと思うけど、こういう職場で見るとねえ。なんて思いつつ、私は女子中学生相手に気の利いた切り替えしなどできないので、何て答えたものかと一瞬考え込んでしまう。
「でも、それよりかさ。右近先生との方がお似合いじゃない? ほら、新任同士だしさ、先生も背が高くて美人で、すっごく合ってるしいいんじゃないって、うちのクラスではみんな右近先生にそう言ってるんだよね。先生、彼氏いないんでしょ?」
 私が何かを言う前に、すでに彼女は次の話題へと走っていた。しかも案の定、忍足の情報は学生内にくまなく伝わっているようだ。
 いやいやいや、おたくの二枚目の副担任は、私とは殺るか殺られるかの敵同士のスパイなんですよ。
「いや、どっちも好みじゃないしね」
 ノリノリの女子中学生にどんなリアクションをしたら良いか分からず、私はそんなノリの悪い返答をする。マーキュリーはこういう子たちに、上手い返しができているのだろうか。できているとしたら、それはそれでちょっと悔しい。
「じゃあ、先生はどんなのが好みなの?」
 彼女はすっかり回復したようで、服装を整えるとホットパックを重ねてサイドテーブルに置いた。
「ええー? そうねえ、さっきの鳳くんみたいに礼儀正しい優しそうな子はいいよね」
 ベッドから足を下ろして、ローファーにかかとをつめこみながら、彼女は目を丸くして笑った。
「あっ、そうなんだ! そっか、先生と榊先生だったら、まだ鳳くんなんかとの方が年の差少ないよねえ。なるほど!」
 髪を整えて、ありがとうございました、と頭を下げた。どうやらもう教室に戻れるようだ。
「ちょっ……別に私は、マジで男子中学生がいいとか言ってるわけじゃなくてね、ああいう礼儀正しい人がって……」
 彼女は腕時計を見ながら、私に手を振って保健室を出て行った。私の言葉がきちんと伝わっているかどうかは不明だ。
 くそっ、これで彼氏のいない妙齢の新任養護教諭は男子中学生がお好き、なんて噂になるんだろうか。まったく、中学生相手は勝手がわからない!



 さて、その日の放課後はかねてから依頼のあったテニス部への応急処置に関する再講習が予定されていた。3月に全校生徒相手に開催されたものを、テニス部のマネージャーなど一部の者相手に再講習するというものだ。まあこれは前に実施した内容なので、新たに資料を作り直す事もなくそんなに大変ではない。
 と思っていたが、よく考えたら私はテーピングなど久しくやった事がなかったので、資料を見ながらボロが出ないように講義をする練習で結構大変だった。
 忘れないうちにさっさとすませてしまおう、と私は資料と教材を持って指定されたテニス部の部室へと向かう。
 テニス部の部室は、どちらにしろ調査をせねばと思ってはいたので好都合ではある。
 そしてそのテニス部の部室は、想像以上だった。
 あ、ゴージャスさがね。
 一般のテニスクラブかというような立派な作り。なんでも、榊氏と跡部が私財を投じて作られたらしいと聞くけれど。
 今日の講習は、クラブハウス内のミーティングルームで行われる。
 そこには既に、榊太郎と部員達が集まっていた。
先生、わざわざすいませんね」
 榊氏は丁寧に頭を下げた。
「いいえ、こういう事も重要な業務の一つですから」
 私は無難に答えて、資料や教材をテーブルに置いた。
 しかし、榊氏には腰を低くされても調子が狂う。
 講習を受けに来ているのは、どうやら主にマネージャー達のようだ。
 男子テニス部のマネージャーは10人弱ほどいて、いずれも賢そうな男の子だ。私は、チューガクセーの運動部のマネージャーっていったら可愛い女の子で、部員たちはマネージャーとの恋にドッキドキ、なんてイメージを持っていたのだが、古いのだろうか。確かに、200人からなる部員たちを把握してサポートするなんて、体力もあって利発な男の子でもないと大変かもしれない。それにきっとマネージャーなんかだったりしたら、きっと跡部に怒られてばかりなのだろうな、などとなんとなく想像する。
 今回のこの講習を依頼した主でもある部長の跡部もこの会場にいて、彼らの受講状況をチェックするようだ。そして彼の隣に立っている、ものすごく背の高い少年は確か、樺地といったか。そして、眼鏡の……ん?
「あれ、なんで忍足までいるの」
 私は思わず口に出して言ってしまった。
「なんで、はないやん。別にマネージャー以外も受講してええっちゅう事やったしやな、せっかくちゃんが来るんやったら、そりゃ参加せなあかんやろ」
 そんな彼の軽口をすっかり無視して、跡部がパチンと指を鳴らした。
「マネージャーは全員そろっているな。じゃあ先生、初めてくれ。いいか、特に一年の新入りマネージャーは初めて聞く講習だろうからしっかり聞いとけよ」
 彼の言葉に、一年生とおぼしきマネージャーはぴりりと緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
 ああ、そんなに必死で聞かれると、こちらも緊張するんですけどね。
 今回の講習は、主には怪我への対処・予防法、くわえてトレーニングに伴う脱水・熱中症の予防、といった内容だ。
「打撲や捻挫はまず患部を冷却し、安静にして保健室に運んでください。傷の場合は流水で洗い流して……」
 といった風に説明しつつ、固定やテーピングの実技に入る。
「ああそうだ、誰か、モデルの役を……」
 私が全部を言い終わる前に、ずい、と忍足が出てきた。
「俺がやったるがな」
 そういいながら、ジャージの上を脱いで裸になる。
「いや、まだ脱がなくていいんだけど……」
「なんやったら、ちゃん脱ぐか? 俺、テーピング上手いから、優しくしたるで。どうせ、肘とか肩もやるんやろ」
「……わかったわかった、ありがとう。じゃあ、そのままで」
 普通、テーピングといえば足からだろう。
 役に立つのか立たないのか、よくわからない子だな。
 まあ、いいや。そんな彼をモデルに使って、負傷の際の固定の角度やテーピングを説明していった。忍足はさすがに三年生だけあって、講習の内容は既にきっちり頭に入っていたようで、固定をする際の角度や位置なんかをちゃんとしてくれて意外に助かった。
「あっ……ちゃん、手ぇつめたぁっ……」
 が、時にわざとらしく変な声を出すものだから、いいから黙っててよ、と私が彼の頭をペシンとはたくと、これまたいい感じに彼の眼鏡がずれた。
「ああ〜、ええツッコミしてはるわぁ〜」
 ほんと、どうしようもないヤツだな。
 が、そんな彼の一言一言で、跡部に監視されながら若干緊張していたマネージャーたちはクスクス笑いながらリラックスして講習を受ける事ができていたみたい。
 そしてインチキ先生の私も、なんだかんだ言って落ち着いて話をする事もできて。
 なんだコイツ、と思っていたけれど、忍足もそれなりに気を使ってるんだなあとちょっと感心した。

「あかんて、もっと優しくしてぇな……」
 忍足の言葉を無視して、私は彼の肩や肘に貼ったテープを剥がしていった。
「ハイ、今日はどうもモデル役ありがとう」
 終了、の合図にペチンと背中をたたいた。彼はようやくシャツを着て、眼鏡の位置を直した。
「そうそう、ちゃん。俺、ちょと小耳に挟んだんやけど、ちゃんは右近先生よりは榊監督が好みで、しかしそれよりも長太郎がもっと好きって、マジ?」
 うはー。
 中学生の情報伝達速度は想像以上に速い。しかもビミョウに歪曲されている。
「あのねえ、ヘンな噂流すのやめてちょうだいよ。私はオッサンにも子供にも興味ないし、ホモっぽい男にはもっと興味がない」
 忍足の眼鏡の奥の目がキラリと光った。私のジャブ攻撃に上手い具合に食いついてきたようだ。
「あっ、あの右近先生やろ? 女子はみんな、かっこええって言うてるけど、確かに言われてみたらホモっぽいよなぁ」
 彼が実際にホモっぽいかどうかは私はよくわからないが、こういうのは言ったモン勝ちだ。情報戦なんてそんなもの。ここはひとつ中学生の噂好きを利用して、敵方エージェントにホモ伝説を作ってやろうじゃないの。これで若干はヤツの学内での動きが妨害できれば良いのだけれど。
 忍足は声をひそめて続ける。
「だってあの先生、テニス部の副顧問希望してたんやろ? そんでイランてなったら、今度は音楽つながりでオーケストラ部らしいやん。どう考えても、榊監督狙ろてる風やんなぁ」
 そうそう、来た来た。さすが忍足。
「えー、そうなの?」
 私は白々しく、そして興味深そうに聞き返す。
「榊監督も、モーホーに好かれるタイプやって言えなくもないしなぁ」
 それは忍足、単にそうだったら面白いというだけじゃないの。まあ、私も面白いとは思うけど。
 私は物品を片付けながらしばらく忍足と、ホモ伝説の会話で盛り上がった。
「いやー、榊監督ホモ説はなかなか新鮮やわ。ほな、俺トレーニングに行くけど、またな!」
 彼は満足気に私に手を振ってミーティングルームを出て行った。
 ちょっと待って、私は情報戦略により右近慎一郎のホモ伝説は作ってやろうとしたけれど、榊太郎については言ってないんだけど! まさか、それまでも私が言ってたみたいになるんじゃないでしょうね!
 くそ、今日の私の諜報員としての仕事の成果は、敵方スパイとターゲットのホモ伝説を作っただけか……。
 そんなの、上司に報告できやしない。
 無事に任務を完了して、休暇をもらってドバイにリゾートに行ける日は来るのだろうか。


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2007.12.5





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