L.M.Mのエージェントである彼にマーキュリーという通り名を、一体誰がどういう意味合いでつけたのかなど私は知らない。ただ、その名はローマ神話の神にあったという話くらいは記憶にある。ギリシャ神話ではヘルメスと呼ばれるその神は、ゼウスの忠実な部下にして、暗殺などの多くの密命を果たしたという。
マーキュリー……右近慎一郎が氷帝学園のカフェテリアで私に下した宣戦布告は、最高に私の気分を害した。
彼は、自身の任務を遂行するためにはこの学園の生徒や一般職員を危険に晒すことなどまったく厭わないと言い放ったのだ。
彼の雇い主が世界に冠たる軍需産業の王者L.M.M社であるとはいえ、その姿勢は諜報員としての範疇を逸脱していないか? 私を牽制しただけかもしれないが、彼が既に銃を携帯していた事実を鑑みてもブラフとは思えない。
私は今回の任務で、彼の行動を常に把握しつつ、更に、私も彼もまだたどり着いていない『セイレーン』の情報を、私自身も探って行かなくてはならない。
本来は榊グループと共同戦線を張っていけばたやすい仕事なのだと思うが、さすがに榊グループとしても自社の最高機密となるだろう『セイレーン』の情報は簡単には明かさない。
正体の分からないものを守るという困難さに、私たちは戸惑いつつも動き回っているというわけだ。
マーキュリーから匂い立つ冷酷な雰囲気に、私の頭には、思わず『セイレーン』の情報が榊グループの研究所本部などから確認され、ここ氷帝学園が早々にシロ判定されれば良いという考えがよぎった。が、そんな逃げ切りの考えでは彼に遅れを取ってしまう。私は首を振って髪をかきあげ、ふううっと息をついて自身を鼓舞した。
マーキュリーが立ち去った後、私もさっさと食事をすませると、とげとげしい気分で校舎に向かった。
昼休みはまだある。そして私にはやらなければならない事が山ほどある。マーキュリーの監視の他の重要任務、榊太郎の調査だ。私は彼に縁深いはずの音楽室に足を向けた。まだ一度も訪れていないその部屋を、私は早々に一通り調べ上げなければならない。
とりあえず一目見ておこうと、職員室に戻る前に足を向けると、まだ学生もいないはずのその部屋から物音がした。
私は音楽室の前で足を止め、しばしその音に耳を傾けた後少し迷ったけれど、ゆっくりと扉を開けた。
中にはグランドピアノを奏でている、榊太郎がいた。
彼は私が扉を開け、入り口のところに佇んでいる事を気にする様子もなく、穏やかに演奏を続けていた。
曲が終ると、私は一歩二歩と部屋の中に足を踏み入れる。
別段意外そうな顔をするでもなく、ちらりと私に一瞥をくれた。
「……クラシックを、弾かれるのだとばかり思っていました」
私は、実際に思っていた事をそのまま口にする。
演奏していた曲はマイケル・ナイマンの曲で、彼にクラシック音楽のイメージしかなかったに私には少々意外だったのだ。
「勿論クラシック音楽は好きだが、それだけというわけでもない。現代曲からジャズまで、あらゆる音楽をたしなむ」
彼は当然のように言った。彼のテノールは音響の良い音楽室でここちよく響く。
言われてみれば確かにそうだろう。
中学の音楽教師だからといって、クラシックだけを好むわけではあるまいに。
私は自分の子供じみた単純な思い込みが我ながら可笑しかった。
「そういえば、今朝、跡部くんが来ましたよ、保健室に」
楽譜をめくる彼を眺めながら私が言うと、榊氏はほう、といった風に顔を上げた。
「応急処置研修の資料を取りに来ました。真面目な少年ですね、彼」
「……春になればすぐに都大会から関東大会、夏には全国大会と続く。200人の部員を率いる新部長として、彼なりに張り切っているのだろう。決して、そうは見せないが」
確かにあの跡部は、懸命な努力の様など決して表立っては見せないタイプだろう。
そしてそれは彼だけじゃなくて、榊太郎もだ。思った以上にテニス部の事に真摯に取り組んでいる彼の様子が、少々意外に感じた。
そもそも学校の教員が部活動に携わる見返りというのはほとんどないに等しい。
そして、榊太郎は部活動どころか教員としての仕事をする必要すらないような背景を持っている。
彼がこれだけ真剣にテニス部の指導にのめりこんでいる事が、私には理解しがたかった。
理解しがたくはあるけれど、そんな彼の姿勢というのは悪い感じではない。
私は、榊太郎に関するあらゆるデータを知っている。
普通は、任務で調査する人間の情報を集め、そして少しでも接触をすれば大体の人物像がわかる。
けれど、私はまだ榊太郎という人間が、よくわからない。
ただ、彼の優雅な指先からつむぎだされる音楽が、この上なく優しく美しいという事を、今新たに知った。
背中をすべるあの指の感触を思い出しながら、私は彼が新たに演奏を始めたジョビンの曲に耳を傾ける。
オリエンテーションや挨拶等を終えた私は、午後には自分の業務の整理に入る。
何しろ忙しいのだ。
まずは表向きの業務をきっちりと片付けなければならない。
一学期序盤は、日常業務に加え、身体測定やら検診やら行事が盛りだくさんだ。そういえば、学校にはこんな行事があったなあと懐かしく思い出しつつも、自らの多忙さを思うとうんざりする。しかしマーキュリーとて教員としての担任業務もあるのだから、さすがにそれを全て放り出して諜報活動を行う事はないだろう。
私はフルスピードで、4月の行事に向けての資料を作成するなどの業務に取り組んでいた。
保健室のデスクで夢中で作業をしている私の耳に、突然扉が開く音が飛び込んで来る。
驚いて振り返ると、本日オリエンテーションをしてくれた主任の鬼怒川先生だった。
「先生、まだおられたのですか。初日ですからね、まああまり無理をせぬように。ひと段落したら、そろそろお帰りください」
帰り支度をした彼は、おだやかに言った。
ふと気付くと、もう夕暮れだ。
鬼怒川先生はおっとり穏やかな優しげな人で、こういう人を見ているとこの学園に何事もなく過ぎると良いのにと私は心から思う。
「あ、はい、ついいろいろ気になってしまって。お気遣いどうもありがとうございます」
私がぺこりと頭を下げると、彼は手を振って部屋を出て行った。
さて、私はそうは言ったものの、さっさと帰るわけには行かずやりかけの作業を続け、次に顔を上げた時には外はすっかり暗くなっていた。
まだまだやる事はあるのだが、あまり遅くなっては怪しまれる。あとは自宅でやるしかないだろう。
今日空いた時間に学内をラウンドする事で、より詳細になった学園内の見取り図のファイルをバッグに収め、保健室を施錠して帰り支度をした。
駐車場へ行くと、朝と同じくすでに車はまばらだ。
まだ学生のいないこの時期、早めに帰宅する先生がほとんどのようだった。
愛車に向かってキーを差し出し、アンロックのスイッチを押そうとすると隣の車が目に付いた。
駐車場のライトに照らされた、品の良いワインレッドのアストンマーティン・ヴァンキッシュSだった。
鮮烈な2ドアクーペに、私は思わず視線を奪われた。
そして立ち止まっている私の背後から、静かな足音。
そのしっかりと重い足音の主が誰か、私には簡単に予測がついた。
「……すばらしい車ですね」
そう言いながら振り返った先には、アクアスキュータムのコートを着た見事なブリティッシュスタイルの紳士。
私の言葉に、榊太郎は軽く会釈をした。
「長らく普段の足にはジャガーを使っていたのだが、フォード傘下になってからのアストンは、品質もデザインも秀逸なのでね。つい、こいつを」
おそらく最近乗り換えたばかりなのであろう新型の12気筒エンジンのクーペを、彼は満足気にくいっと顎でさした。その『征服者』という意味の名を持つアストンマーティンのフラッグシップカーは、上品な輝きを称えて夜の学校の駐車場に静かに鎮座している。
以前に確認した情報では、榊氏は普段の足にジャガーのXJを、そして休日の愉しみにポルシェのGT3を愛用しているという事だったが、ついにジャガーがアストンになりかわったのか。
私は思わず微笑んだ。
なぜなら、私の個人的趣味で言わせていただくと、現在のところ紳士の乗る英国のラグジュアリーカーの格付けは
ベントレー → 成金趣味(日本ではね)
ジャガー → まあまあだけどちょっと古いセンス
アストンマーティン → かなり良いセンス
といったランキングであり、そしてGT3にはポルシェの中でも最高得点を与えたい。
つまり、彼の車の趣味はなかなかに悪くないと思ったから。
「ヴァンテージ、ヴァンキッシュから、アストンにはインド人の優秀なデザイナーが入ったそうですしね」
私が返すと、彼はほう、と右手をこめかみにあてた。
「これは先生の……?」
彼はちらりちらりと私の車を見て言う。私はこくりと肯いた。
ちなみに私の愛車はロータスのエキシージ。榊氏のどっしりとした高級車に比べると、ちんまりとしたやんちゃな見てくれのスポーツカーだ。
「英国車はお好きか?」
彼はしげしげと私の愛車をみつめつつ続けた。
「英国車が、というわけじゃないけれど。そんな、エンスージァストではありませんし」
榊氏は私の車に近寄ってちらりと中のエクステリアを見た。
「子供っぽい車だとお思い?」
私が言うと、彼は車に顔を近づけたまま私の方を向く。
「とんでもない。スーパーチャージャーの響きを想像していたところだ。エキシージは運転した事がない」
彼の真剣なまなざしに、私はついくくくと笑ってしまう。
男の人って、どんな人でもいくつになっても、どうして皆こう車が好きなのだろう。
「ヴァンキッシュの12気筒もすばらしいと思いますけれど、これもなかなかピーキーで面白いですよ。1トンもない車重に、200馬力近くのパワーですから」
いつのまにか車に見入る彼は、レユニオンのホテルのホールで踊った時のように私に近づいていた。
車から顔を離すと、私を見て、そして右手を自分のこめかみに添えるあの独特のしぐさ。
小指のカルティエのリングがライトに反射して光った。
「さぞかしじゃじゃ馬なのだろうな。機会があれば、是非一度乗せていただいきたいものだ」
そして耳元でささやいた。あの、甘いテノールで。
ともすれば、ありがちなダブルミーニングにも取れるその言葉と声の主の背後に光る最高級の英国車は、中学校の駐車場などという場所ではひどく場違いで、それでも私の胸をざわつかせるのには十分だった。榊氏の長い指は、私の車のシフトレバーをさぞかし優美に的確に操作し、思うままエグゾーストノートを響かせてゆくのだろう。
私も彼の顔のすぐ傍で静かに答えた。
「ええ、もちろんどうぞ。……きっと愉しんでいただけると思います」
私の言葉を確認すると、彼はゆっくりと私と私の車から離れた。
彼が遠のくと、ほんの少し私の周りの空気の温度が下がった気がする。いつのまにか、彼の身体の温度が私を取り巻いていたのだろうか。
「あなたも、よければ私の車を走らせて見るといい」
彼はそう言って礼儀正しく私に挨拶をすると、ジェームズ・ボンドよろしくスマートに車に乗り込み駐車場を出て行った。
私はそのテールランプを見送り、自分のオフホワイトの2シーターの運転席の扉を開ける。
私と榊太郎氏はそれぞれの人となりはさておき、お互いの車は気に入ったようだ。
ドライブインで出会ったエンスー同士のように、互いの車を交換して楽しげに走らせる私たちを想像すると、なんだかおかしくなってしまった。まあ私は、3千万円ほどもする車を借りて都内で走らせる勇気は、ちょっと持てないわけだけれど。
私は時計を確認すると、車内でそのまま上司への定時報告の連絡をした。
本日のマーキュリーの動向、榊氏の様子、業務の状況などについて。
デザイナーと親会社の交代に伴い、榊氏の愛車がジャガーからアストンに変わったらしいと告げたら、それはどうでもいい、と言われてしまった。
Next
2007.12.3