私を愛したスパイ(4)



 3月も終わりがけになると、ぐっと暖かくなる日も多くなった。
 春になる頃、いつも私はわけのわからないそわそわと落ち着かない気持ちになる。まるで中学生や高校生の頃のように。
 かすかなそんな気持ちを抱えたまま4月に入ると私は養護教諭として氷帝学園中へ正式な初出勤をした。
 氷帝は自動車通勤が許されており、私は許可証を提示し愛車を乗り入れる。
 始業式も入学式もむかえる前の学校は静かで、私が来た時間が早いためか、まだ職員の車も数台しか停まっていなかった。
 職員室へ行き、すでに出勤している先生に挨拶をしてから、私は鍵を手にしてさっそく保健室に向かう。
 私がまずやらなければならない事は、私が一日の大半の職務をこなすことになるであろう保健室が安全であるかを確認する事だった。
 持ち込んだ器械を使って盗聴器の電波が出ていないかをチェックしつつ、目視でも確認する。また、監視カメラの類が取り付けられていないか、部屋中のそれらしきところを調べた。こういった一連の作業には慣れているので、30分もあればすむ。ただし、このような動きを他の先生に見られては怪しまれてしまうので、人目につかずにすませなければならない。
 私は手早く作業をすませた。
 とりあえず今のところは、保健室に妙なものが仕掛けられている形跡はないようだ。
 私が最後の仕上げに電話機を分解して調べていると、保健室の扉がノックされそして静かに開けられた。
 こんな早朝からの利用者か?
 誰か先生でも具合が悪くなったのだろうか。
 まったくこっちは忙しいのに面倒くさいな、と思いながら私が扉の方を見るとそれは意外な訪問者であった。
 見覚えのあるすっきりとした色のジャージに、すんなりと長身の凛々しい顔立ちの少年。右目の下には印象深いホクロがひとつ。
 跡部景吾だ。
 私が彼を知っているのは、テニス部のレギュラーで新部長であるからというだけではない。
 彼は跡部グループのいわゆる御曹司で、榊太郎と並ぶ氷帝学園中のVIPの一人だ。
 保健室に入ってきた彼は、私の姿を見ると一瞬意外そうに眉をひそめたが、すぐにああ、と納得したような顔をする。
 ちなみに彼とは私が引き継ぎで行った時には会っておらず、初対面だ。
 尚、忍足が開催していたあのケシカラン賭けにも、彼は参加していなかった(私もしつこいな!)。
「……そうか、河本先生は3月までだったんだな」
 入るなり彼はそう言うと、一瞬だけ寂しそうな顔をする。
 そしてくいっと左手を額の辺りに当て、その指の隙間から私を見つめた。
「そのジャージは、テニス部ね? 4月から養護教諭で入ってきた、よ。よろしく」
 私は組み立てかけの電話を置いて、彼に言った。
「ああ、監督から聞いている。……3月に開催した応急処置研修の資料を二部もらいたい」
 彼は自己紹介を返す事もなく、唐突に用件を口にした。
 スマートな雰囲気の中に堂々とした迫力を持ち、それが決して背伸びしたようには見えない、凛とした少年だった。
 しかし、こっちが名乗ったんだから、自分の名前くらい言え!
 そんな事を思いつつ、私は保管庫からファイルを出して彼の所望する資料を取り出した。
 応急処置研修とは、3月に全校生徒を対象に行った、その名の通りの緊急の場合の応急処置に関する講習だ。
「資料は全校生徒に配布済みだと、河本先生から聞いているけれど」
 私がその資料を黙って彼に差し出すと、跡部はフンとそれを確認して受け取る。
「もうすぐ一年生も入ってくるというのに、マネージャーが資料を紛失している上、まともに応急処置の内容も頭に入れていなかった」
 不満げにそうつぶやくと、また私を見てそしてフッと軽く笑った。
「そのうち、先生にいろいろ頼むかもしれない。河本先生からは聞いているだろう?」
「まあね」
 ひどく不遜な彼の態度に、私は少々無愛想に返事をした。
 跡部は資料を揃えて手に持つと、くるりと出口に向かいかけてからふと顔だけ振り返って私を見る。
「ああ、俺はテニス部の部長、跡部だ」
 そう言って片手をちょいと上げて見せ、ばたんと部屋を出てゆく。
 私は電話機の組み立てを再開しつつ、ため息をついた。
 どうなの、いくらVIPとはいえ、最近の中学生ってああいうもの?
 しかし私は彼の姿を思い出す。
 4月になったとはいえまだ肌寒い早朝、すでに薄いジャージ一枚で過ごしているという事は、こんな時間から早々にトレーニングをしていたのだろう。まだ他の部の生徒達もぼちぼちとしか来ていないというのに。
 あれだけの尊大な振る舞いで、そしてそれだけの努力をしている部長なら、部員達はそりゃあ黙って従うしかないのだろうなと考えると、私はなんだか微笑ましくなった。
 この、ほとんど年齢を同じくする子供たちが通う『学校』という、特殊な環境。
 そこでは、彼らなりの深遠な世界が広がっているのだろう。
 そんな事を考えながら、電話機を組み立て終え部屋のチェックをすませた私は窓を開けてグラウンドを眺めた。
 そう、この『学校』という特殊な環境が、今回の仕事では曲者だ。
 榊太郎も跡部景吾も、本来ならば学校生活を含めての日常にSPをつけてもおかしくない人物だ。
 が、彼らは学園内に自前のSPを入れる事はない。
 当初その事を私はいぶかしんだが、氷帝学園の事を調べ、潜入するにつれてある程度納得した。
 ここは、ぱっと見にはわからないが、私立学校の中でもトップクラスに堅牢な警備を擁している。目立たぬよう配置されている警備員は、一般の学校によくいる、警察や自衛隊を定年退職した再就職組ではなく、現役で生え抜きの屈強な警備員である。
 また、敷地内の各入り口の入構に伴うチェックも厳重だ。
 これだけの警備の中であれば、VIPも安心してSPなしで学校生活を送れるだろう。
 つまり、この特殊な環境に外部の者が潜入するという事は至難の技だ。
 それ故、私も『マーキュリー』も教員という正式な立場を手配した上での、念入りな潜入を余儀なくされたというわけだ。
 特殊な閉鎖社会である『学校』の中での諜報戦。
 予想外の事も多いだろう。
けれど、なんとしても『マーキュリー』、そしてL.M.Mに先手を取られる事があってはならないのだ。
 私は窓の外からの冷たい空気を部屋の中に入れてから勢い良くそれを再度閉めると、ロッカーから白衣を出して身につけた。
 そろそろ他の先生も出勤して来る頃だろう。
 榊太郎やマーキュリー……いや、右近慎一郎も。



 出勤一日目の午前中は、大半を辞令を受けたり諸手続きを行ったりオリエンテーションを受けたりで過ごした。
 尚、今年度新規に入職した職員は私とマーキュリーの他にあと二名、合計四名の職員である。あとの二人は中堅どころといった年齢の男性の英語教師と国語教師だ。
 午前中は四人にまとめて、主任からのオリエンテーションが行われていたが、あっという間に昼時。50がらみの堂々とした品の良い主任教員は時計を見て、私たちに休憩時間を言い渡した。
 英語教師と国語教師はそれぞれに弁当を持参していたようで、自分の机で思い思いにランチタイムとしていた。
「ああ、もう食堂はやっていますから、よろしかったらどうぞ。場所はおわかりになりますか?」
 主任が、私とマーキュリーを見て気遣って声をかけてくれる。
「ええ、3月に大塚先生に教えていただいたので、わかりますよ」
 マーキュリー・右近慎一郎はおだやかに笑うと主任に言って頭を下げた。
「そうですか、よかった。では、先生も連れて行ってあげてください」
 私は一瞬ぎょっとしてマーキュリーを見るが、彼は承知したというようにうなずくと、『行きましょうか』と私を促す。
 まあ、やむをえまい、と私は彼と二人で職員室を後にした。
「まだ、部活動を行う学生以外は来ていませんからね、落ち着いて食べられるでしょう」
 歩きながら、彼は静かに言う。
「そうですね、ここの食堂はかなりメニューも充実していると聞きましたから、楽しみですね」
 私たちは、そんな白々しい会話をしながら食堂に向かった。
 カフェテリア形式の食堂では、なかなかに気の利いた料理が並んでいる。
 私は、ハムの5種盛り合わせに、温野菜とスープを選んでテーブルについた。
 右近慎一郎はチキンのクリーム煮とラザニア、ブラックコーヒーをトレイに乗せて私の向かいに座る。
「……ちょっとしたレストラン並みの品揃えだ」
 彼はそう言って笑うと、フォークでラザニアをつついた。
「味の方もなかなか」
 そして、満足そうに言う。
 マーキュリーは30前くらいの青年で、細身ではあるが決して華奢ではなく、長身のバランスの取れた体格をしている。モッズスタイルのスーツが嫌味なく似合っており、普段はクールな表情なのだが何かの拍子にふっと口元を緩めるその笑顔が印象的で、おそらく女性からは好まれるタイプだろう。
「ワインでもいただきたくなるような料理ね」
 私も愛想笑いをしながら言った。
 はたから見れば、私たちは年の頃もちょうど良く、新任同士の雰囲気の良い男女に見えるだろう。
 が、あにはからんや。
 私たちは敵同士のエージェントなのである。
 スープをすすりながら、私は目の前の敵をじっくりと観察した。
 目の前の男っぷりの良い好青年は、よく見るといかにも訓練を受けたらしい姿勢の良い姿、さりげなくしていながらも隙のないそぶり。スーツの下には、おそらく鍛え上げられた肉体が隠れているのだろう。
 私は彼がナイフとフォークを使う、その優雅な仕草を観察した。
 普通ならば目にもとめないような、左腕の動きのほんのちょっとした違和感。
 すぐに、彼がそのジャケットの下に小型の銃を隠し持っている事に気付いた。
 諜報員が武器を持っているなど、当然の事だ。が、私はこの学校という場所に、いきなりそのような物を持ち込む彼を、好ましいとは思えない。
 私が一瞬眉をひそめて、スープのカップを置いてフォークを持つと、マーキュリーは私に何か言おうと口を開いたが、すぐに軽くため息をつきそして手にしたフォークを置くと、私にすっと手を上げて見せた。
「……お互い、不毛な芝居はやめよう」
 そうつぶやいて、少し長めの前髪をすっとかきあげて笑った。その笑顔は職員室で見せていた人好きのするそれではなく、ひんやりしたものだった。
 私は彼のそんな顔を見ると、ふふっと笑った。
「そうね、今更、ばかばかしい」
 私たちはお互いの正体も目的も、十分すぎるほど分かっているのだから。
 彼の笑顔が合図かのように、私たちはお互いエージェントの顔に戻って静かに食事を続けた。
「……、きみの任務は僕の仕事の邪魔をする事なわけだが、言っておくが僕は容赦ない。僕にとってのプライオリティーはあくまで『セイレーン』であり、その情報を手に入れるためならば、ここが学校であろうと戦場であろうと僕は同じ行動をするだろうからね」
 食事を終え、口元を上品にナプキンでぬぐった彼は静かに言った。
 そして、お先に失礼、と慇懃に頭を下げると立ち上がり、その場を立ち去るのだった。

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2007.11.30




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