私を愛したスパイ(3)



 忍足侑士をはじめとする数人のテニス部員に紹介された後、私は河本先生に連れられぐるりとグラウンドでトレーニングをしている部活をそれぞれ見学してから、再度校舎に戻った。
 サッカー部の新部長は頼りないとか野球部の顧問はオタクっぽいだとか、そんな話を聞きながら廊下を歩いていると、春休みで生徒もほとんどいない校舎の中を向こうから歩いてくる人影が見えた。
 頭髪の薄いひょろりとした白衣を着た50前くらいの男性の教師と、その少し後ろを細身で長身のダークスーツの青年が歩いてくる。
 私は視力が良いので、ダークスーツの青年の姿が見えた時から、彼がそのメタルフレームの眼鏡の奥から私をじっと見ているのがわかっていた。
「ああ、大塚先生も引継ぎ? 丁度よかったわー」
 河本先生が大きく手を振って叫ぶ声が廊下に響いた。
 大塚と呼ばれた白衣の教師は、はいはいというように薄く笑って頷く。
 明らかに河本先生に迫力負けするタイプだ。
「こちら、私の後任の先生ね」
 私を彼に紹介し、そして視線を隣の青年に向けた。
 私は自己紹介をしながらもその青年から視線を離さない。
「あ、はい、どうもご丁寧に。わたくし、今年度限りで他の学校に移りますが、理科担当の大塚と申します。ええと、こちら右近先生といいまして、先生と同じく来月から赴任してこられる先生です」
 彼はおどおどとしたか細い声で、隣の青年を私と河本先生に紹介した。
 右近とその名を紹介された青年は、人当たりよさげに口元を緩め私と河本先生を交互に見た。
「初めまして、右近慎一郎と申します。理科を担当いたします。先生ですね、来月からお互い新任同士ヨロシクおねがいいたします」
 そう言うとうやうやしくお辞儀をし、顔を上げてからまたにっこりと微笑んだ。
 細身だが、姿勢がよくしっかりとした体格で、少し面長の整った顔にはその華奢な眼鏡が良く似合っていて、洗練されたイメージの青年だ。
 その態度を河本先生は相当に気に入ったらしく、にこにこしながらあれやこれやとひとしきり話しかける。
 彼はそれに丁寧に答えながら、あいかわらずちらりちらりと私を見ていた。笑いながらも、冷静にまるで品定めでもするような視線で。
 大塚先生が、ではまだ案内がありますので、とようやく切り上げるとやっと河本先生は話を終え、私たちは保健室へと向かって歩き始めた。
「まあまあ、右近先生って、先生より少し年上だけど、若くて素敵な人じゃないの。独身だって言ってたし、ホント、同じ時期に若い同僚が入ってきていいわねぇ。私立ってどうしても年配の先生が多いから、ねえ?」
 彼女はあいかわらず楽しそうに話しっぱなし。が、私はそれまでのように彼女の話に愛想良く相槌をうつ気分にはなれなかった。
 私は、顔を合わせるのは初めてだが、彼の事を知っていた。
 ただし、右近慎一郎という理科の教師としてではなく、『マーキュリー』という通り名で。
 そもそも私が氷帝学園中に送り込まれて理由の一つが、彼、『マーキュリー』の動向なのだ。


 榊太郎氏の親族で展開している榊グループは手広い事業を行っている多角経営の会社で、その経営陣の一人である榊氏は業界でも有名なVIPだ。もちろん、それだけならば私がこのように任務を帯びて送り込まれる事はない。
 が、今年に入ってから榊グループの名とともに『セイレーン』というコードネームがまことしやかに業界を行きかう事になる。
 その麗しいコードネームを誰がつけたかは知らないが、現段階で我々が知る『セイレーン』に関する事実は、それが画期的な性能を持つ長距離音響装置の開発を可能にする最先端のシステムという事のみだ。長距離音響装置とは、その言葉だけを耳にすればなんとも平和なイメージであるが、今回の台風の目となっているそのシステムが『セイレーン』という名で呼ばれている事からも想像がつくように、実に厄介な一品なのだ。
 長距離音響装置とは簡単に言うと、様々な周波数の音波を長距離にわたって発信し、目標物にその音波による影響を与える装置である。現在実用可能になっているものは、半径300メートルほどの範囲で指向性を持って特定の音波を発生させ、その標的にいる人間に頭痛などの影響を与えて戦闘不能にするという軍事兵器がその一つだ。
 そして『セイレーン』は、まるで昔の漫画に出てくる悪の組織が使う兵器の如く、その発生する『音波』をより大きく精密にし、特定の目標物の音波による破壊を可能にするというシステムなのだと言う。しかも、前述の現存する音響装置はトータルで約20キロ程度の重量となるのだが、その新システムを使えば、出力は比べ物にならにくらい大きくなりつつも驚くほどの小型化が可能なのだという。
 軍需産業には一切関わっていない榊グループがなぜそのようなシステムを開発したのか?
 長距離音響装置は何も軍事目的に使用されるだけではない。指向性を持って長距離に渡って特定の目標物に音波を送る事ができるという事は、つまり災害時などでの有効利用が期待できる。故に、榊グループのような一般企業によるその開発も納得できるし歓迎すべき事なのだ。
 しかし当然ながら、そのシステムには世界の軍需産業が注目しはじめており、その中でもいち早く動きを見せたのが、某国を活動拠点とする軍需産業のトップグループL.M.M社で、『マーキュリー』はL.M.M社の諜報員なのである。つまり、L.M.M社は榊グループが正式に『セイレーン』を使った装置を開発・発表する前にそのシステムを不正に入手し、自社の兵器開発に利用しようとしているのだ。それが実現したらどうなるか?
 もちろん、世界の兵器事情に大きく影響を与えるのだが、それは各国の軍事の均衡に関わるだけでない。考えても見て欲しい。個人で持ち運べる火薬も使わない破壊兵器は、世界中のテロリストにもてはやされることだろう。飛行機で隣の乗客が、機内に預けた音響兵器のリモートコントローラを持っていたりしたら、穏やかな気分ではいられまい。
 そんなわけで私の任務は、L.M.M及び『マーキュリー』から、『セイレーン』の情報を守る事だ。
 勿論、この重大な任務は私一人で取り組んでいるわけではない。
 当然、榊グループの研究所及び榊家の自宅には数名の同僚のエージェントが潜入しており、同じく潜入しているL.M.Mのエージェントとは既に諜報合戦が繰り広げられている。が、おそらく『セイレーン』の開発に大きく携わっている榊太郎本人の職場である氷帝学園中にも、L.M.Mのエージェントが送り込まれるという情報の元、急遽私の派遣が決まったのだ。
 私が『マーキュリー』の存在を知っていたように、彼も私が敵の諜報員である事は当然了解ずみのはずだ。
 彼の澄ました笑顔を思い出し、私はフンと小さく鼻を鳴らした。
 おそらく『セイレーン』の情報が得られるのは、榊グループ本部のラボからである可能性の方が高く、氷帝学園を張っていても有益な情報を得る事は難しいだろう。それ故、我々の組織もL.M.Mも、氷帝学園には私たちのように比較的若手のエージェントを派遣している。が、私も『マーキュリー』も互いに売り出し中の諜報員で、何かあれば、ここぞとばかりに目立った働きを上げて見せようという野心家同士。私よりも実戦経験が長く豊富で、すでに業界での通り名を持つ彼だが、私は負けるわけにいかないのだ。

 保健室に戻っても、すっかり闘志に火のついた私には、河本先生のおしゃべりはさっぱり耳に入って来なかった。
 が、不意に保健室の外へとつながっている扉がバン!と勢い良く開く音に私は驚いて顔を向けた。

「おー、ちゃん、おったおった、よかったわ!」

 そう馴れ馴れしく言いながら入ってくるのは、先ほど顔をあわせた忍足侑士と、おかっぱ頭の小柄な少年向日岳人であった。二人ともテニスラケットを持ったまま全速力で走ってきたようで、肩を揺らしている。

「なあ、ちゃん、自分、彼氏おるん?」

 そして忍足は突然、やけにわくわくとした顔で私に尋ねた。
「はあ?」
 唐突な問いに私が思わず素っ頓狂な声を返すと、隣りの向日岳人が真剣な顔で私を見る。
「先生! これは重要な事なんだよ。答えて!」
 向日岳人は忍足と違って、ひどく可愛らしいいかにも中学生といった風の少年だ。しかも、初めて私を『先生』と呼んだ生徒!
 思わず私は気を良くしてしまい、『いないけど』と岳人に向かって答えた。すると、
「チックショー! クソクソ、侑士め!」
 彼は悔しそうな声を上げると、びっくりするくらい高くぴょんぴょんと飛び跳ねるのだ。
 そして、隣ではしてやったりとばかりにニヤニヤ笑いながら手元の紙切れを眺める忍足。
「……何なの? 一体?」
 私が不審そうに尋ねると、忍足は落ち着いた笑顔で私を見る。
 彼は長身の私よりも背が高く大人びた顔立ちの、いかにも女性から好まれそうな風貌であり、私の『中学生』のイメージを遥かに逸脱していた。しかしその丸眼鏡では、せっかくの男っぷりも三割減なんじゃないか、と私は内心思う。
「あんな、さっき、皆で賭けとってん。ちゃんに彼氏がおるか、おらんか。ほとんどの奴が、おるに決まってるやん言うててんけど、俺は『おらんやろ』て。俺、大勝ちや」
 彼は満足気に、紙切れを眺める。どうやらその賭けの一覧表らしい。『いる』に賭けていたらしい岳人は、まだぴょんぴょんと跳ねて悔しがっていた。
「だから言うたやろ、岳人。けど俺もな、ちゃんにホンマに彼氏がおらんと思てるわけちゃうねんで。何しろ、来たばかりの若い先生や。ホンマはおったとしてもやな、恥ずかしがりはって、きっとおらんて答えるやろ。俺はそう踏んだんや。な? ちゃん、俺、別に自分がモテへんとは当然思ってへんねんで? こんなスタイルの良い美人さんなんやし、男おらんわけないよなあ? あ、でももしホンマに彼氏おらんかったら、いつでも言うてや。俺、今フリーやし」
 すっかり声変わりをすませたしっとりと落ち着いた声と裏腹に、調子の良い関西弁でまくしたてる彼を、私はギリギリと睨みつける。
 ちなみに私は去年の夏休みを予定通りに取れなかった事がきっかけで、ベルギー人の恋人と破局をむかえたばかりだ。
 忍足侑士、お前が何歳までオネショをしていたかとか、初恋の相手が誰だとかをすぐさま正確に調べ上げて公表してやろうか! 組織の情報網で調べられない事などないのだから! と内心毒づくが、いやいや中学生相手に大人気ない、となんとか自分で自分をなだめる。
「……ふうん、そんな賭けなんかしてたんだ。皆、いるっていう方に賭けてくれてたのね。光栄だわ……」
 私はかろうじてそんな事を言いながら彼の手から紙切れを奪い取り、目をやると確かに『いない』という方に名前を書いている者はほとんどいなかった。どれどれ、忍足以外の失礼な奴は誰なんだ、名前を覚えておいて後でチェックしなくては、なんて思いつつ確認すると、なんと!

 榊太郎が『いない』にベットしていた。しかも10口も。

「あ、監督はな、普通に『あれは、いないだろう』言うて10口ものってくれてん。さすが亀の甲より年の功や、ようわかってはるやろ。俺しか『いない』に賭けへんかったら、賭けにならへんしなあ。よかったわ」
 確かに、ベタベタのリゾート地で一人もくもくと泳いでいる若い女に男がいるとは思わないだろう。事実なだけに腹立たしい! あの中年男め! 彼との甘い余韻はいっぺんに吹き飛んだ。
「……あ、そう。でも、先生までがそんな賭けに参加するなんて、感心しないわねぇ」
 私は怒りに震える声を必死に押さえながら、紙切れを忍足に返した。
「ああ、別に金品賭けてるわけとちゃうから安心してぇな。 ヨッシャー、岳人、皆に結果報告やで! ほな、ちゃん、またな!」
 二人は元気一杯でテニスコートに走って行く。一方私には、じゃあお前ら一体何を賭けてたんだ、と聞き返す元気もなかった。
 任務地に赴いた初日、極秘の重要任務を帯びている売り出し中のエージェントである私は、自分に恋人がいないという事実を中学生に握られ、その情報を流布される事になった。諜報員としての私の経験からすると、この情報は近日中に全校に伝わる事だろう。
 それにしても中学生から『ちゃん』づけで呼ばれるとは、私が世界に轟く通り名で呼ばれるようになる日はまだ遠い先なのかもしれない。
 振り返ると、河本先生が我慢できないというように笑っていた。
 本日の上司への定時報告では、私が初日から中学生にナメられそうになっている事は省略して報告しようと思う。
 くそ!

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2007.11.27




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