私を愛したスパイ(2)



 榊太郎と出会った翌日、私はレユニオン島を後にした。
 元々そういうスケジュールだったのだが、これではまるで逃げて帰る小娘のようで、私は榊氏に会ったら一言挨拶でもしようと思い、彼の姿を探した。が、朝のレストランでもビーチでも彼を見かける事はなく、結局私はそのまま空港へ向かった。
 ローランガロ空港からモーリシャスエアーに乗り込み、当然途中のトランジットはモーリシャスだ。
 飛行機での移動や空港での待ち時間を、私は嫌いではない。
 勿論、空港ではPCを使って仕事をしたりしなければならないけれど、基本的にそのぽっかりと空いたような時間というのは私にとって、心からゆっくりできる贅沢な時間だと思っている。
 が、今回の長いフライトでは、どうにもあの紳士の事が頭に浮かんで仕方がなかった。
 休暇明けに控えている大きな仕事に関わる重要人物である、榊太郎。
 私は彼に関わる多くの情報を得ていた。
 年齢、学歴、出身、家族、職業、趣味、愛車、財産その他諸々……。
 にもかかわらず、私は彼が低く静かな甘い声で話し、とてつもなく優雅な仕草で振る舞い、美しい指をしていて、ペリエを好み、あのスパイシーな香水を使うことを知らなかった。
 実際に会った榊太郎という人物の、あまりにも強い印象と、そして任務に赴く前に本人に出会ってしまったというハプニングが、私の頭の中をぐるぐると駆け巡り、私は夜間飛行の間もずっと落ち着かないまま過ごしていた。



 帰国した私を向かえたのは、春を感じさせるがまだ寒さの残る風。
 私はきっぱりとリゾート気分を切り替えて、仕事に向かった。

「あらあらあら、先生ね、ごめんなさいねぇ、まだ3月なのに!」

 私に向かって甲高い声を張り上げるのは、どこからどうみても「オカン」という言葉がぴったりの還暦前、河本芳江。氷帝学園中等部に長らく務めてきたベテランの養護教諭だ。
「いいえ。若輩者ですから、やはり引き継ぎは聞いておきたいと思いますし。こちらこそ、貴重なお時間を割いていただきありがとうございます」
 私は慇懃に頭を下げた。
 そう。私は4月から、氷帝学園中等部の養護教諭として赴任する事になっている。
 勿論それは表向きの顔で、私が派遣された本来の目的は榊太郎および榊グループに関わる、とある事項の諜報活動だ。が、当然ながら学校業務もきちんとこなさければならない。それで前任者の河本教諭が着任している3月の間に、申し送りを受けに来たというわけだ。そもそも、早めに潜入して情報収集できるのならば、それに越したことはない。
 私は理事長と校長に挨拶をした後、河本先生に案内され校舎を歩いた。
 建物の中は事前に見取り図を頭に入れているので分かってはいたが、噂にたがわず豪華な造りの学校だった。造りが良いだけのところならいくらでもあるがその手入れのされ方が、維持にもお金をかけているという事と、普段使用している生徒達の品の良さが伺える。なるほど確かに、良家のご子息・ご令嬢の通う学校だ。
 ざっと校舎を歩きまわった後、私が主に業務をこなす場所となる保健室での引継ぎを受ける。『オカン』河本教諭の引継ぎは、実に明快だった。
「あのね、ここはとにかく生徒数が多いしね、最近の子はあれやこれやと甘えてばっかりだから、いちいち聞いてたらキリがないの! ちょっとくらいの怪我とか、ちょっと気分が悪いとかはね、『そんなの、平気平気! 授業中ちょっとくらい寝てたってかまわないから! それで怒られたら、先生のとこ来なさい。担任に言ってあげるから!』って言っとけばいいの。わかった?」
 私は教員免許は持っているものの学校現場は研修以来なので、彼女の物の言いには少々面食らう。
「あの……でも、ここはお嬢さんやお坊ちゃんが多いようですし、場合によっては父兄などがうるさいんじゃないでしょうか。最近は、メンタルに問題を抱える子供も多いと聞きますし……」
 若干動揺しながら尋ねると、河本先生は、大丈夫!と胸をたたく。
「そんなのいちいちビクビクしてたら勤まらないの。要は、こっちと子供の信頼関係だからね。子供たちは、ちゃんと見て話聞いてくれてるんだなってわかってたら、『ハイ、大丈夫!』って一言で安心するから!」
 はあ、と私はつぶやきながらも力強い彼女の言葉に感心する。
 この大きな学校でやってゆくには、これくらいじゃないといけないのだろうな。
 その後、連携している地域の医療施設についての説明を受けるなど一通りの引継ぎを終えると、私たちはグラウンドに出た。
 春休みだというのに、熱心に部活をやっている生徒が沢山だ。
「この学校はね、運動部の活動がすごく盛んなの。野球部や陸上部も有名だけど、なんといっても男子硬式テニス部ね」
 河本先生が歩く先にはテニスコートがあった。
 観戦スタンドにナイター設備、その力の入れようが伺える。
 確かデータによれば、氷帝のテニス部は全国大会にも出場した実績もあり、部員は200名近くいるという事だ。
 なぜ私がそんなに詳しいかというと、榊太郎がテニス部顧問だという理由からなわけだけれど。
 それにしても彼の事を考えると少々憂鬱な気分になる。
 氷帝国学園で榊氏と再会したら、私はその偶然に驚く女、というクサい芝居をしなければならないのだろう。レユニオンで会ってしまったがために。
 しかも、妙に甘い彼とのあの余韻を、どうにも私にはもてあまし気味だった。
 私は決してうぶな方ではないけれど、あの、彼の不思議な艶かしさには不意を突かれてしまったのだ。
 グランドを指さして様々な部活動についての説明をしてくれる河本先生の横に立ちながら、私はぼんやりとそんな事を考えていた。
 そして、そんな若干集中力を欠き始めている私の耳に、かすかな声が入ってくる。
 それは、急に私の意識を鋭敏にした。
 河本先生の名を呼ぶ、聞き覚えのあるテノールだ。
「あらあら、榊先生! 丁度よかった!」
 一層トーンの上がった河本先生の声とともに振り返ると、そこに立っていたのは榊太郎だった。
 そして、私はまったく演技する必要もなく、驚いた顔をする事に成功した。
 彼の登場に驚いたというわけではない。
 中学校の校庭のグラウンドにたたずむ中学教師の榊太郎は、レユニオンで出会ったままの雰囲気で(ジャケットはアクアスキュータムの春物になっており、襟元にはスカーフが巻かれているが)、見覚えのある右手のピンキーリングもそのまま。
それはなんというか想像以上に濃厚なイメージで、すっかり『養護教諭』になりきっていた私を、あっという間に諜報員に戻すくらいのパワーがあった。いやはや、リゾート先と違って日本の日常で見かけると、なんと目立つ人物か。
「あのネ、榊先生。彼女、私の後任の先生。今日は引き継ぎに来てくれたのよ。こんなに若くてキレイな先生で榊先生も嬉しいでショ。ちょうど、これからテニス部の方に案内しようと思ってたのよ」
 あいからわずのオカンっぷりで河本先生はまくしたてる。
 相手が榊太郎でも、彼女の迫力は全くかわりないようだ。そして榊氏は私を一瞥し、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにまたあのクールな表情に戻る。
「そうですか、私は榊太郎と言います。音楽担当で、テニス部の顧問です」
 そしてそれだけを言った。私もあわてて自己紹介をしたが、それをさえぎるように河本先生の声。
「あのネ、先生。テニス部は部員が多いし、ちょっとした怪我も多いからね、私は時間がある時はちょくちょく見に行って、テーピングとか指導してあげてたのよ。テニス部は顧問は榊先生しかいないからね、慣れてきたら手伝ってあげてちょうだい」
 コートに向かいながら、オカンは大声でまくしたてる。
 彼女の隣で榊氏は、よろしくおねがいします、というように軽く目礼をする。
 なになに、そんな雑務は私の情報にはなかったのだけれど!
 いや、でも私の任務上では有利に働く業務なのかもしれない……と思いつつ、私はちらりと榊氏を見る。しかしそれも、榊氏の動き次第だ。
 見事な設備のテニスコートに向かうと、中学生達が熱心に練習をしていた。
 なんと榊氏は、トレーニングウェアに着替える事もなく、あのスーツ姿そのままで部活の監督をこなすのか。が、生徒達はそんな彼にはすっかり慣れっこのようで、榊氏がコートに現れると礼儀正しく挨拶をしていた。まあ確かに彼がジャージなどをまとった姿は想像しがたいけれど。
 コートに入ると、河本先生は新三年生らしき生徒たちに『ちゃんと朝ごはん食べてきたの!?』とか何やらヤイヤイと話しかけに行く。
 まさにオカンだ。
 きっと、こういう面倒を見るのが好きなのだろう。そして、少年たちもうるさそうにしながらなんだかんだ言って慕っているようだった。
 今回の任務に伴う表向きの業務は、なんとも面倒くさい内容だと思うけれど、たまにはこういう風景も悪くない。私は、河本先生と少年達のやりとりを遠目に見つめていた。

「休暇は、存分に楽しまれたのかな」

 一瞬ゆるんだ私の気持ちが、びくりと引き締まる。
 そして同時に、ぞくりと胸の内をなで上げられるような気分になった。
 コートを眺めながら、榊氏が私に静かに言う。
 私は彼を見て、そしてすっと背筋を伸ばした。
「あ、はい、とても。あの……あの時は、こちらの先生だと存じ上げず、失礼を……。先ほども、あまりの偶然にびっくりしてしまって……」
 決まりが悪そうなそぶりをしてみせる。旅先でのひと時の甘さを恥じ入りつつ偶然に戸惑う、若い新任の女性教員といった雰囲気が出ているだろうか。
「楽しまれたのなら、なにより。生きていれば、様々な偶然というものがあるものだ。私も、驚きましたよ」
 そう言いつつも、彼は決して驚いたようなそぶりは見せない。
 けれど、河本先生のいない隙に、何気ないように持ち出したレユニオンの話。
 彼は、私とレユニオンで会った旨を第三者に話す気はないようだ。しかしそれは勿論私も彼も、他人に伝わって困るような話ではない。なにしろ、そこで私たちが関係を持ったなどという事実もないわけだから。が、彼は暗に、二人の秘密にしようとしている。私にも彼にも、そうする必要はないというのに。
 こういう事は秘密にした瞬間に、特別な出来事に変わる。そして、私たちはその特別な秘密を共有する事になるのだ。
あの、耳元での甘いテノール。シェリーと、香水の香り。
 そんな事が二人の『秘密』になる、彼はそんな効果を知っているのだ。
 思った以上に、そして見た目通りに、いろんな意味で彼は手練だ。
 この予定外の出来事が、凶と出るか吉と出るか。
 勿論、運に任せる気はない。なんとか私の任務遂行のため、有利に働くよう利用していかなければならない。
 榊太郎は私に一言挨拶をすると、生徒達のトレーニングの指導に向かった。
 私は腕組みをしたまま、広いテニスコートと氷帝の校舎を見上げた。
 今回の任務は、初めての単独での潜入だ。ミスは許されない。

「なあなあ、自分、歳なんぼ?」

 私が今後の諜報活動についての展開にピリピリと思いを馳せていると、ひどく落ち着いた声の関西弁が聞こえてくる。
 振り返ると、整った顔に眼鏡をかけた長身の少年がほんのりと微笑みながら立っていた。
 ああ、彼の名前は知っている。
 忍足侑士、14歳、中学三年、テニス部正レギュラーだ。
 つまり、私はテニス部レギュラーメンバーは頭に入っている。役に立つデータかどうかはわからないが。
 私は彼の問いに答える前に、彼の隣の小柄のおかっぱ頭の少年や、その向こうにいる長髪の少年の名前を思い出していると、河本先生が飛んできた。
「忍足! アンタ、新しい先生にいきなり歳なんぼはないでショ! だいたいネ、先生相手に口の利き方気をつけなさいて、いつも言ってるでショ!」
 そしてあいかわらずの態度でまくしたてる。
「せやかて、河もっさん。彼女えらいべっぴんさんやし、俺となんぼくらい歳離れてんのかなぁて、気になるやんか。新しい保健室の先生なんやろ? ちょと、ちゃんと紹介してーな」
 忍足侑士はまったく堪える風もなく、楽しげに河本先生に笑いかける。きっと普段からこの調子で、いいコンビなのだろう。
 私は額に手を当てて、テニスコートをぐるりと見渡す。
 そうだ、私は諜報活動をしつつ、生意気盛りの中学生を1,500人以上も相手しなければならないのか。
 ひと癖もふた癖もありそうな中年と、うるさそうな中学生達。
 普段ならば、どちらもごめんこうむりたい相手だ。

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2007.11.26




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