私を愛したスパイ(1)



 泳ぎ疲れた私は、浅瀬に上がりながら髪の水気を飛ばして、くるりとひとつにまとめる。
 海から上がった私の肌を、熱烈な太陽の光が出迎える。空は青すぎてまぶしくて、私は思わず目を細めた。
 ここは、レユニオン島。
 マダガスカルの近く、モーリシャスの南西に位置する暢気で美しく優雅なフランスの海外県だ。
 この常夏の小さな島で、私は半年以上遅れの夏休みを一人でゆっくりと過ごしている。
 今は3月で、そりゃもう夏休みなんかじゃないんだけど。
 でも、こんな休暇はなかなか取れなくて、レユニオンのプチ・パリといわれているサン・ドニのショップで買ったこのビキニの水着も当分出番はない事だろう。
 そんな私なので、一人きりでも猛烈にこのリゾートを満喫して、美しい海で泳ぎまくったというわけだ。
 今回の休暇を過ごす場所を、ドバイにするかここレユニオンにするかで悩んだのだけれど、ドバイは土地柄同業者と顔を合わせる事もありそうで結局レユニオンにした。洗練されていながらものんびりとしたこの美しい島を見渡し、それは正解だったなと、ほうっとため息をついた。ああ、ドバイも捨てがたいのだけれど、次の休暇は一体いつになる事やら!
 レユニオンは火山でできた小さな島で、ほとんどの居住区・リゾート施設は海側に面している。ビーチからすぐに、切り立った迫力のある山を見上げる事ができるのもこの島の魅力。
 私は、ビーチのすぐ傍に建てられた小さいけれど品の良い5つ星ホテルに滞在し、この休暇を楽しんでいる。
 ビーチに並んだデッキチェアの背中にかけておいたバティックを腰に巻いて、ホテルのオープンのバーに向かった。キンキンに冷たいフレッシュジュースでもいただこう。
 バーのひさしの下に入り、日陰に目が慣れた頃、私の足は一瞬止まった。
 テーブルの一角で、ペリエを前に置きペーパーバックを広げている人物に視線が釘付けになる。
 ボタンダウンのシャツに麻のジャケット。
 きっちり整えられた髪に、彫の深い顔。
 それは、氷帝学園中等部音楽教師にして、榊グループを統括する一人である榊太郎・43歳だった。
 実物を目にするのは初めてだったが、間違いない。
 本人だ。
 私はあわてて目をそらしてバーのカウンターに向かおうとするが、遅かった。
 榊太郎はペーパーバックから視線を上げ、右手をクイッとこめかみの辺りにあてると私をじっと見た。
 その視線は思いがけず強く、私は動揺してしまう。が、なんとか緩い意味のわからない笑顔を返す事には成功した。これで、なんとか『異国のリゾート先で同国人に会って戸惑い、とりあえず意味不明の笑顔をする日本人』といった風には見えただろう。
 カウンターでフレッシュオレンジジュースをオーダーした私は、それを一気に咽喉に流し込んだ。いつのまにか咽喉がからからだった。
 それを飲み終わると、私は振り返る事もせず、さっさと自室に戻った。

 自室でシャワーを浴びながら私はしばらく考えを思い巡らせ、バスルームを出るとローブのままでPCを起動させた。
 衛星の特別回線をつかった通信メールで上司に連絡を入れる。
 プライベートでの逗留先にて、偶然ターゲットにコンタクトしてしまった事を。
 報告メールを送信し終えると、私はため息をついて次の指示を待った。
 私はある機関に所属する諜報員だ。
 この休暇が終わった後、くだんの榊太郎氏の調査が私の新しい任務だったのだ。
 それが、こんなところで偶然に会ってしまうなんて、ありえるだろうか。
 そもそも、彼について私が下調べした情報では、彼が休暇で訪れる場所はヨーロッパがほとんどで、レユニオンは実績がなかったはずだ。こんな、日本から直行便もないようなビーチに来るタイプじゃない。
 一体どんな、神様の意地悪だろう。
 髪を乾かしながら何度目かのため息をついていると、上司からのメールが返ってきた。

 了解した。任務は予定通り続行とする。そちらではあくまでも偶然会った旅行者を装い、不自然にならぬ程度にすごす事。

 偶然を装いって、そもそも偶然だっつの。
 確かに、このハプニングがあったからといって私の任務に代理を立てるのは、それまでの下準備から何からを考えると難しいだろう。しかし、このプライベートでの偶然も私のミスとして計上されるのだろうか。それを差し引いてもらえるだけの働きを、次の任務ではしなければならないのかと思うと、若干気が重い。いや、万全の働きをしなければならないのはいつも同じなのだけれど、次の任務でちょっとしたミスが起こればそれが私の今回のリゾートに関連付けられる可能性があるわけだから、次の私のドバイでの休暇の夢は遠のきそうな予感がする。


 日が暮れて夕刻になると、私はこれまた買ったばかりのシルクのドレスを着てホテルのホールに下りた。このレユニオンの県都であるサン・ドニでコンサートをやったばかりのフランスの有名な弦楽のカルテットが、ここのホールで演奏をしてくれるのだそうだ。なんでもプレイヤーがホテルのオーナーの知り合いとの事。
 こじんまりとしたホールには飲み物と軽食が用意され、上品なステージが演出されていた。
 タキシードを着た四人が音合わせを始める頃、私は自分のうかつさに思いやられる事になる。
 シェリー酒を片手にステージを眺めている私の隣に立つ、長身の人影。かすかにスパイシーな香りをまとったその人は、榊太郎。
 彼は音楽の専門家だ。
 このホテルに滞在しているとしたら、この演奏を聴きに来ないはずがないと、どうして私は予測しなかったのだろう。私の頭はすっかりリゾートでやられてしまっていたらしい。
 私は気付かぬそぶりで、始まった演奏に聴き入っているふりをする。
 ドヴォルザークの糸杉の第一曲が終わり、バンマスが舞台挨拶をする間、私の隣から甘いテナーの声が聞こえた。
「なかなか良い演奏でした」
 日本語でつむがれたその短い言葉は、明らかに私に向けられており私はゆっくりと顔を上げて隣を見上げる。
 あいかわらず無表情な彼は、グラスに注いだペリエを飲みながらステージを眺めたまま。
「……ええ、そうですね」
 私は緊張で心臓を震わせながらも、初めて耳にする彼の低い声が、思いがけず柔らかく甘い事に驚いていた。
 何か自分の事を尋ねられた場合のあらゆるケースの返答を頭の中で用意しつつ、つまりまるで尋問を待つ捕虜のような気持ちでいると、彼はそれきり何も言わない。
 ただ、じっとステージを眺め演奏に耳を傾けていた。
 パガニーニの軽快なカルテット曲は、私の心も少し軽くしてゆく。
 演奏が続き、榊氏はホテルのオーナーと穏やかに談笑していた。
 彼らの話では、どうやら、榊氏はこのカルテットのバンマスと懇意でそれで今回の演奏会に是非という事で、レユニオンを訪れたらしい。ああ、私がもう少しきちんと事前に彼の行動を洗っておけば、こんな気まずい事にならなかったのに。
 自分の至らなさにがっくりくる。
 いや、でもこれで任務に失敗するとは限らないのだ。
 私はもう一杯シェリーをいただくかどうするか、少し考えながらカウンターへゆっくりと歩いていった。
「シェリーはお好きですか?」
 と、またあの甘いテナー。
 空になったペリエのグラスを片手に、あいかわらずクールな表情のままの榊氏だった。
「……ええ、ティオ・ペペは好きなんです」
 私は気に入りのドライシェリーの銘柄を口にした。
「チンザノを入れてソーダで割ったものも、なかなか美味しい。試した事はありますか?」
 そんなカクテルを飲んだ事はなく、私が首を横に振ると、榊氏はバーテンにフランス語でその配分を指示してカクテルを作らせた。
「どうぞ」 
 ロングのグラスで出てきたそれを、すいっと私に差し出す。
 私はちらりと彼を見上げてから、グラスを手にして唇を濡らす。
 シェリーの香りの中にチンザノが絶妙に効いていて、甘くなくさっぱりとしてなんとも美味しい。暑い南の島にぴったりだ。
「……美味しい」
 思わず口に出してつぶやく。
「なんていうカクテル? 覚えておきます」
 彼はふっと息をついて軽く首を振った。
「さあ、名前は知りません。昔、懇意にしていたバーテンが作ってくれたものです」
 彼が、榊太郎でなければよかったのに、と私はふと思う。
 ただの、旅先で会った洗練された名もない紳士だったらいいのに。
 にこりともしない口元から流れる甘く低い彼のテノールは、確実に私を酔わせる。
「あなたは、お飲みにならないの?」
 再びペリエを手にする彼に、尋ねた。
「全く飲まないわけではありませんが、原則として外で音楽を聴く時には飲まないようにしています」
 コンコンと指で自分のこめかみをつついて優雅なしぐさで言う彼をみつめながら、私は名も知らないカクテルを飲む。シェリーの香りと、彼の身につけているスパイス系の香水の香りが、またとてもマッチングしていた。きっとそういうところも計算ずみなのだろう、この完璧な紳士は。
 空になったグラスをカウンターに置いてしばらくすると、カルテットはダンス曲を演奏し始めた。逗留客達は、思い思いの相手と優雅に踊り始める。
「せっかくだ。踊りませんか」
 榊氏は当然のように、くいとホールの方をむいてから私に言った。
 一瞬驚いたけれど、その誘いはとても自然で、私は考える間もなく彼に手を取られ、ホールに出ていた。
 大きな手の長く美しい指は優しく私のそれに絡められ、もう片方の手はしっかりと私の腰に添えられていた。
 大きく開いたドレスの背から、時に素肌に触れる彼の手の温度にどきりとする。
「……ほら、今のバイオリンの音の響かせ方、すばらしい」
 踊りながら彼は私の耳元でささやく。
「どれも最高の楽器を使っている」
 時に唇同士が触れ合いそうになりながら、彼は笑いもせずテノールでささやき続けるのだ。
 私は、まるで自分自身が弦楽器で、彼に音あわせをされているような気分になった。
 私が試されているのか? と思ったけれど、とんでもない。
 彼が本気の演奏をしようと思えば、私はあっけなく彼の胸に落ちてゆくだろう。
 けれど、そうっと弦を震わせて音あわせだけをするように、彼は私にささやき、触れ、そんな音を楽しんでいる。
 彼が、ただの旅先で会った紳士だったらよかったのにというのは訂正だ。
 とんでもない。
 彼が榊太郎だと知らなければ、私はきっと明日の朝、彼の隣で目覚める事になっていただろう。彼の顔写真を、しっかりと頭に叩き込んでおいた事だけには感謝する。
 曲が終わると、いつのまにかすっかり彼にその重みを預けていた自分の体を弾かれるように離し、なんとか形ばかりの挨拶をしてホールを後にした。
 早足で自室に向かう。
 とんでもない。
 オープニングからあっさりとジェイムズ・ボンドによろしくいただかれて消えてゆく女スパイじゃないんだから、私は。
 そう自分を奮起させつつも私の身体からは、彼の大きく優しい手、スパイシーな香り、そしてあの低く甘いテノールがどうしても離れないのだった。

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2007.11.24




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