この土地の鉱山がマルコスかショーのどちらと取引をするのかは、ショーが言っていたように、父の独断では決められない。鉱山に関わる男たちが集まって話し合いをするのだ。
それは、今日の夜。
私とショーは馬を引いて、川原から戻ってきた。
ショーが泊まっている宿の主人、ロドリゴに礼を言って馬を返す。
通りに出ると、マルコスが家の店に入ってゆくのが見えた。
彼は私たちを見るとニヤリと笑い、そして店の中へ消えていった。
父親と取引の話でもするのだろう。
私とショーは、何だか彼のいる店内に入る事に気が進まず、何とはなしに店の横のベンチに腰掛ける。
そして黙って、道行く人々を眺めたりなんかしていた。
私は、なぜだか彼との沈黙は苦ではなかった。
彼は自分が風下にいる事を確認すると、煙草を取り出し口にくわえ、目を細めて笑いながら私に尋ねた。
「……吸ってもいいかね?」
私が返事をする前に軽トラックが店の横に止まり、運転席からは祖母が出てきた。
「何だい、何をボーっとしてんだい。暇だったら、運ぶの手伝っとくれ」
ショーは渋々、煙草を内ポケットに戻す。
彼は私といると、なかなかニコチンにありつけないようだ。
祖母にせっつかれ、私たちは荷台の果物や野菜を店の裏手に運んでいった。
「なあ、ジゼルばあさん」
ショーはライムの箱を運びながら、祖母に問う。
「夕べ、マリサから聞いたんだけどな、ばあさん、昔、日本人の男とつきあってたんだって?」
にこにことした顔で、ショーは祖母に尋ねた。私は飛び上がらんばかりに驚いてしまう。
この男は、何だって、祖母の機嫌を損ねてしまうかもしれないような余計な事を聞くのだ。
祖母はしばらく目を丸くして、黙って彼を見たまま。
そして、くっくっとくぐもった声を出し徐々に大声で笑った。
「ったく、何を突然聞くんだい、この小僧は」
言いながらも、祖母は決して不機嫌になっていない事に私はちょっと驚いた。
「……あたしも若い頃、一時サンパウロに出ててね。そこで日本人のいい男とつきあってたよ」
「へえ、どんな男だった? 俺みたいないい男か?」
ショーが野菜の箱を次々と運びながら言うと、祖母はまた笑う。
こんなに楽しそうに笑う祖母は、久しぶりに見た気がする。
「馬鹿、あんたより、もっといい男さ。でも、ロクデナシでね。女グセは悪いわ、金遣いは荒いわ」
祖母のこの言葉を、私は昔から何度も聞いている。
でも、祖母の表情がなぜだかいつもよりずっと幸せそうなのだ。
「へえ、そりゃ耳の痛ぇ話だな」
ショーは冗談めかして言って笑う。
「結局日本に帰るって事で、別れたんだけどね、あたしはほんと、あいつと付き合っている間にまったく疲れきっちまったんだよ。でもね、不思議と……」
祖母はジャガイモの箱を水道の前で開くと、ゆっくり目を閉じた。
「あんなヤツとつきあわなきゃよかったとは思わないよ。あいつはロクデナシだったけど、気持ちの優しい楽しい男でね。私と一緒にいるのが大好きな男だったんだ。いろいろ面倒ばかりかけられたけど、あいつと会わなかった人生より、あいつと会ってた人生の方が、私は幸せだったと思ってる」
そしてジャガイモを洗い始めた。
「そうか、ヨカッタ」
ショーも祖母の隣でジャガイモを洗う。
「日本人がキライって訳じゃねぇんだな……。ばあさんの美人の孫娘に、日本人だけは絶対にやめとけって、オッソロシイ顔して言いつけてるんだったらどうしようかと思ってたぜ」
私は手に持ったジャガイモを、思わず落っことしてしまう。
ショーの言葉に、祖母は相変わらず楽しそうに声を上げて笑った。
私は思わず二人から視線をそらし、何気なく店の裏口の、開きっぱなしの扉から店内を眺めた。
すると、私の背筋はびくりと凍る。
店の中からは、テーブル越しにマルコスが私たちをじっと見ていたのだ。
昼下がり、私はエリオのスーパーに日用品を買いに出かけた。
店を出て道を歩いていると、車がふいっと私の隣で止まり、ドアが開いた。
「ブラウンのお嬢さん、お買い物ですか?」
それはマルコスだった。
私は思わず一歩下がる。
「……ええ、もう済んで戻るところ」
私が軽く手を上げてその場を去ろうとすると、彼は私の手をグイとつかむ。
「送りますよ」
「いえ、いいです。すぐですから」
私の抵抗は彼にとって何の意味もなさないようで、私は彼の運転するドイツ車に乗り込まされた。
昨日、ショーが私の車に乗りこんで来た時の数倍もの危機感が私の中で膨らむ。
彼の車はすうっと通りを走った。
ごま塩の髪に、やけに濃い眉毛だけは真っ白で。
その眉の下から、濃い茶色の眼が隙なく私を見ていた。
車は私の家の前をも通過する。
「あの、家はもう……」
「イビツルナ山にでも上がりましょう。山頂でちょっと一杯やりませんか?」
彼は紳士的に笑う。
私は昨日、ショーが言っていた事を思い出して背筋が寒くなる。
けれど車は止まる気配もなく、私にはどうする事もできなかった。
町を抜けて川を渡り、小さな集落を通って山の上がり口へ入る。
イビツルナはそれなりに地元の観光地で、上がり口の道にはハイカーや観光客がいて、それだけが私の心の支えだった。
大丈夫、少し話をしたら家まで送ってもらえるはずだ。
上がり口の途中には、地元の金持ちの家がいくつも建っている。
「ここが、私の友人の家でね、ここに滞在しているんですよ」
彼はその中の一軒の特に広い屋敷を指した。
私はそれをろくに見る事もせず、両手を膝の上でぎゅうっと握ったまま。
赤土がもうもうと舞う上がり口を登り切ると、ようやく展望台が見えてきた。
手前で車を止め、私たちはゆっくりと展望台に向かう。
そういえばここの山頂に来るのは久しぶりだ。
山頂では地元のパイロットが、様々なグライダーをセットしてテイクオフする風を待っていた。
私はマルコスに促され、展望台の向こうのバーに向かう。
眺めの良いところに作られた、質素なオープンのバーで私たちはテーブルを囲んだ。
「……私はティンコデベラードを。お嬢さんは?」
私は首を横に振る。
何も飲みたくない。
彼は気にする様子はなかった。
「……私が何をしにヴァラダレスに来たかは、わかっているね?」
彼は前置きもなく言った。
「ええ」
私は彼の目を見ながら答える。
「じゃあ、はっきり言おう。今夜の話し合いで、ここの石の取引を私が仕切るのか、あの日本人が仕切るのかが決まる」
私は、知っている、という意味を込めてうなずいた。
「いいか。取引をするのは私だ。あの小僧じゃない。その事を肝に銘じて、チコに伝えるがいい」
彼はいつのまにか、ジャケットの懐から銃を出してそれを私に向けていた。
鈍く光る旧式のリボルバーの古い銃は、彼がそれを今までどれだけ使い込んできたのかを感じさせ、私は全身から血の気が引いた。
「……でも父は、ショーの話なんか聞かなかったって言ってたわ。こんな事をしなくても、まずまちがいなく、あなたで決まりなんじゃないの」
私は震える声で言う。
「あいつは……」
するとマルコスは憎憎しげに搾り出すような声を出す。
「ジゼルに取り入った。ジゼルは俺を嫌っている。いいか、ジゼルに絶対口出しさせるな、ここのインペリアルトパーズを仕切るのは俺なんだ、いいか!」
彼はそれまでの紳士然とした様をまったく引っ込め、街のゴロツキのような表情と声で言う。わかっている、これはわざとだ。私をこわがらせ、言う事をきかせるためのポーズだ。わかっているのに、それでも私は震えて、指一本動かなかった。
その時、背後から聞きなれた音がする。
なんだっけ、この音、今朝も聞いた……。
音はどんどん近づいてきた。
そうだ、これはエリオのバイクの音だ!
私は魔法が解けたように体が動いて、とっさに振り返る。
緑色のオフロードバイクに乗っていたのは、黒いスーツの髯面の男。
彼……ショーはバイクの前輪を持ち上げて、ウィリー走行で私たちのテーブルに思い切り前輪を乗り上げた。
「老いぼれは、女よりこいつでも抱いてな!」
不意を突かれて目を丸くしていたマルコスに、ショーはエンジンがかかったままのバイクを放り投げた。
「うわっ!」
突然の事に何もできなかった彼はバイクの下敷きになって、ひっくり返る。
「マリサ、これを!」
ショーは私にベストのようなものを手渡した。
「早くつけろ!」
私が言われた通りそのハーネスのようなものを身につけると、ショーは私の手をつかんで走った。
「借りるぜ!」
彼が走った先には、三角形の大きなハンググライダーがあって、彼は既にセットしてあったハーネスをするりと装着すると、私のハーネスの背中の金具をグライダーの真ん中のカラビナに接続した。
「ちょっと、何するの!」
私は嫌な予感がして叫ぶけれど、彼はお構いなし。
「走るぞ!」
ショーは三角のバーを持ち上げると、私が叫ぶのにお構いなしで崖っぷちに向かって走り出した。
私は絶叫する。
私たちは飛び降り自殺かのように崖から走りこんだわけだけど、次の瞬間私の身体は背中から引っ張られるような感じで滑空していた。
数秒なのか何分かたったのか、私にはわからない。
私はおそるおそるショーの顔を見上げた。
「……もう、何するのよ! 死ぬかと思ったじゃない!」
「マルコスに銃を向けられるのとどっちがいい」
「……どっちも同じくらいにイヤ!」
私が叫ぶと、ショーはバーを操作しながら笑った。
風でぐしゃぐしゃになる髪を押さえる余裕が、私にも出てきた。
「今日はヴァラダレスの川原までいけそうだ。この凧の持ち主はファッティな奴だったからな、俺達二人の体重で丁度良い。ちょいと高度をかせぐぜ」
彼はそう言うと、ぐいと体重を右側にかけてそしてターンを始めた。
ぐるぐると弧を描くように旋回をして飛び続けると、イビツルナ山からの上昇気流でグライダーがぐいぐい持ち上げられるのが分かる。
そしてふと気付くと、イビツルナ山は私の足元、山頂の神像の手のひらが見えた。
私はあいかわらず怖くて怖くて仕方ないのだけれど、生まれて初めて見るイビツルナの姿に少し感動する。
私が生まれてからずっと、町を見守ってくれていた岩山。
「……どうして私がここにいるってわかったの?」
「スーパーに煙草を買いに行ったんだ。そしたら、あいつ、なんてったっけ。朝、バイクに乗ってた赤毛のやつ。あいつが、マリサが見慣れない車に乗せられてどこかへ行ったって言ってたんでね、マルコスに違いねぇって思った。昨日も同じ手で俺がここに連れて来られて、さっさとサンパウロへ帰れと脅されたもでね、すぐ分かったよ」
彼はしばしイビツルナの上空で旋回を続けながら言った。
「……ありがとう」
私は深呼吸をした後、静かに言った。
風切り音でかき消されてしまって聞こえないかもしれないくらいの、小さな声で。
「降りたら、俺、サンパウロに帰るわ」
その言葉に私は驚いて彼を見上げた。
「どうして? 取引権の話し合いは今夜でしょう?」
「あんたまで巻き込んで、マルコスに脅されるようにしちまうたぁ、確かに俺もまだまだだよ。出直しだ」
「でも、マルコスに決まったわけじゃないでしょ?」
なぜか私は必死に言った。
彼は私を見て、ニヤッと笑った。
「いいんだよ。俺はこれで終わったわけじゃねぇ」
そう言うと、彼はバーをぐっと手前に引きグライダーをヴァラダレスの町の方へ向けた。
スピードが上がり、私は目をまともに開けていられない。
グライダーはスピードにのって、ルイスとニコラの二頭が走り回っている川原の草原へ向かった。
地面が近づくと私はそのスピードにおびえてしまう。
「降りる直前にスピードは落とすから、しっかり走れよ」
彼は言って、地面スレスレになった瞬間思い切りバーを持ち上げる。
すると急に翼は失速をして、そして私たちの足は無事に地面についた。
何歩か走ると、コトンとグライダーは地面に落ち着いて、私はへなへなと地面に座り込む。
ショーはカチャン、と私のハーネスの金具を外してくれた。
「じゃあな、あんたがマルコスに何もされなくてよかった。俺はあいつが山から降りてくる前におさらばするよ」
彼は風で乱れた髪をなでつけ、そしていつものようにあご髯をくいくいと整えて笑った。
私は何を言ったら良いかわからなくて、じっと彼を見る。
ハーネスを脱いで、初めて会った時のようにスーツの埃を払う彼。
昨日会ったばかりなのに、まるでひと夏を一緒にすごしたかのような気持ちだった。
「トパーズもアクアマリンもエメラルドも手に入れられなかったが……」
彼はしゃがみこだままの私の前に、腰を落とした。
「これくらいは良いだろう?」
そう言うと、私の髪に手を触れ、そして髯に覆われた唇で私のそれを覆った。
彼の熱く柔らかい舌からはぴりぴりするくらいに煙草の匂いがして、髯はくすぐったくて。
そのどちらも私の苦手なもののはずなのに、私はずっとそれを味わっていたくて、彼のスーツの上着をぎゅうっと握り締める。
ショーは私の髪をなでながら、ゆっくり身体を離し、そして私の手を取って立ち上がらせた。
「じゃあな」
私が何か言おうと口を開くと、ニコラとルイスが走ってきた。
驚いて見上げると、その二頭の背中には父とエリオが乗っていた。
「ショー桑原。早くしろ。マルコスがやって来る前にエリオが空港まで送る」
父が厳しい表情で言った。
「……父さん、彼は私を助けてくれたよ!」
私は思わず叫ぶ。
「わかってる! ばあさんに渡された、そいつの資料も読んだし、ここ数年のマルコスの仕事も調べた。俺たちの取引相手はあんたにすると、俺は責任を持って今夜の会議で推すさ」
父はいつもの厳しい表情のまま、ポンとショーに茶封筒を渡した。
彼は中をあらためる。
それはショーが祖母に渡した資料と、そして父のサインが入った契約書だった。
「マリサを脅そうとしやがったくらいだ。マルコスの奴、しばらく何かしでかそうとするかもしれんが、ミナスジェライスの俺の息のかかった鉱山では奴が出入りできんようにしてやるよ。ショー、サンパウロはあんたのホームだろ? そっちでは自分で上手くやってくれ」
そう言うと、父はショーの手をつかんで自分の乗っている馬に引っ張り上げた。
町のロータリーに、ショーを空港まで送るための車をエリオが出す。
私と祖母と父とで見送った。
「じゃあ、改めて段取りの連絡を待つ」
父は簡潔にそれだけを言った。
祖母は嬉しそうにニヤニヤとした顔でショーを見る。
ショーは祖母と目が合うと、照れた子供のようにウィンクをした。
「……マリサ」
そして、私を見る。
「……この取引で、きっと俺は金が手に入る。そしたら、サンパウロで二人で美味いモンでも食わねえか?」
私はふふっと笑って肯いた。
「そして、あんたのダンスを見せてくれよ」
彼はそう言って車に乗り込んだ。
「じゃあ、サンパウロで!」
エリオが車を出すと、彼は窓から身を乗り出し、そう叫んで手を振った。
「サンパウロで!」
私も思わず叫ぶ。
熱い恋の続きは、サンパウロで。
Happy Landing!
→エピローグ
2007.7.4