恋はサンパウロで


滑空


 翌日の朝、私は町を抜けたところにある川原の草原で久しぶりに馬に乗った。
 知り合いの家で飼っている、親子の馬で私が前に帰ってきた時には小さかった子馬が、今では立派な大人になっていて、その子を借りのだ。
 川のほとりの広い草原を、イビツルナ山を眺めながら並足で馬を歩かせた。
 子供の頃はこんな田舎、早く出て行きたいと思っていた町が、今は私をとても優しく包む。
 私がニコラというその子馬を歩かせていると、聞きなれた音がした。
 古い2サイクルバイクの音だ。
 振り返ると、緑色をしたカワサキのオフロードバイクが走ってきた。
 私は手綱を引いて馬の足を止める。

「よう、マリサ、帰ってきてたんだな」

 バイクに乗って現れたのは、私の同級生のエリオだった。
 小柄で赤い髪をした彼は、町のスーパーの跡取り息子でハイスクールを卒業した後ずっとこの町に住んでいる。

「バイクなんかで来たら、馬が怖がるじゃない」

 私は眉をひそめて彼に言った。

「大丈夫、こいつらは慣れてるから」

 ニコラは昨日桑原を連れて行った宿の主人の馬で、いつもここに放牧している。
 この辺りは車通りが多いから、確かに慣れてれているかもしれないけど、馬はデリケートな生き物だ。
「でもこの子、まだ子供よ。バイクなんかで乗り付けてきたら、おびえてしまうじゃない」
 エリオは悪い子じゃないのだけど、相変わらず子供っぽいな、と私はため息をつく。
「そんな事より、マリサ、しばらくここにいるのか? もうこっちに帰ってきたらいいじゃないか。サンパウロなんか疲れるだけだろ?」
 彼は昔から私に好意を寄せていて、嬉しそうに笑って言う。
 弟みたいで憎めない子なのだけど、本当に幼くてどうしようもない。
「だめよ、仕事、あるもの」
 私はそう言いながら、『仕事』という言葉に対して胸が重苦しい事を認めざるを得なかった。

 その時ふいにリズミカルな音が聞こえてきて、振り返ると見事な筋肉をした栗毛の馬が走ってきた。
 ニコラの親馬のルイスだった。そして、背中に乗っているのは桑原。

「うわっ!」

 ルイスが勢いよく前足を振り上げ、バイクに跨っていたままのエリオは危うく転倒しそうになる。
 私たちの前をルイスが走り抜けると、ニコラもそれについて走る。急な動きに私は驚いて一瞬声を上げるけれど、なんとか手綱を引いた。
 ルイスの背中の桑原が振り返って、にやりと笑う。
 そして彼は駆け続けた。

 スーツ姿で長めの髪をなびかせて馬を走らせる彼は、私にはまったく不本意な事ながら、一瞬まるで王子様のように見えてしまった。
 その発想に、我ながら笑ってしまう。
 あのムサくるしい髯面が、王子様だなんて。

 馬を休ませて水を飲ませている間も、私は自分のその発想がおかしくて、なんだかくすくすと笑ったまま。
「……何だ、今日はご機嫌だな」
 彼は手綱を手に持ったまま言った。
「別に。桑原、あなたこそ、夕べはヘコんでたくせにもう元気じゃない」
「ショーでいい」
 初めて会った時のように、彼はそう言った。
 桑原……ショーは水場の水をすくうと、スーツが濡れるのも構わずばしゃばしゃと顔を洗った。サンパウロやリオみたいな町中と比べればここはまだ少しは涼しいが、今年は特に蒸し暑い。
 顔を冷たい水で濡らした彼は気持ち良さそうに空を見上げ、もう一度頭を下げると、今度は水を頭からかぶり、そしてぶんぶんと頭を振って水を飛ばした。
 髯面なのにやんちゃな子供みたいだと、私はおかしくて仕方がない。
「……自信があるの? おばあちゃんに渡した資料」
 私も両手を水で濡らしながら尋ねた。
 ショーは濡れた髪を束ねて絞りながら私を見る。
「ああ、勿論。マルコスのやり方は古い」
 彼は自信たっぷりに私に向かって、『自分のやり方』を説明してくれた。

 彼やマルコスの仕事は、簡単に言うと各地の鉱山から石を買い取る事だ。もちろん、政府の正規のルートから外れたものを。だから、サザビーズやクリスティーヌに出されるような名品の石は扱えないけれど、そこそこのクオリティで観光客相手に売るようなものを、安定供給するといったパイプになる。
 マルコスはそういった隙間のルートの顔役というわけだ。
 しかしショーが言う「古い」というマルコスのやり方はこうだ。
 各地の鉱山で、まず羽振り良く石をまとめ買いをする。質に関係なく、とにかく石を持ってきさえすれば彼は買い取るのだ。だから彼と取引を始めた最初の1〜2年というのはその鉱山は金回りが良くなる。
 しかし、彼のやり方は人々から石を漁りつくす。
 クオリティに関わらず彼に石を買ってもらうため、各地の鉱山の男たちは荒っぽく争う事も出てくる。だからマルコスの手が入った鉱山のルートが安定しているのも大概、2年がいいところ

「だから、俺は」

 ショーはスーツの上着をびしょびしょに濡らしたままで熱く語る。

「あいつみたいに、一人一人から馬鹿買いする事はしねぇ。俺もサンパウロの相棒も目利きなんでね、チコみたいな代表が定期的に質の良い石を出してくる、俺たちがきちんと確認してそれなりの値段で買い取る。俺たちのブローカーとしてのランクが上がれば、彼らももっと堂々と取引ができる。そりゃマルコスと取引するよりも、最初の爆発的な収入はねぇが、長く安定して収入が得られるはずだ。今時の商売なんてぇのは、こうでないと。マルコスみてぇなキナ臭いやり方は古いんだよ」

 まさに目を輝かせながらまくしたてる彼の話を、私も大体は理解できた。

「……話はわかるけど、それで上手く行くの? そりゃ、それで上手く行くんだったらショーがこの町と石を取引したらいいとは思うけど……」
 ショーは髪をぎゅっとまたひとつに束ねる。
「俺はやるぜ? マルコスなんざ、引退すりゃいいのさ。俺がそうやってブラジルの鉱山を取り仕切って、そして大金持ちになるんだよ」
 彼はそういうと両手を広げて笑った。
 ショーの日焼けした肌は水に濡れてキラキラ光り、その野心を隠そうともしないまっすぐな言葉は、このヴァラダレスの青い空にゆっくりと溶けていった。

「……マリサ、あんたはいつまでこっちにいるんだ?」

 ショーは不意に私に尋ねる。
 私は一瞬言葉につまる。
「ううん……そうね、決めてないけど……今週いっぱいくらい……とかかな」
 彼は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「休暇中なんだろ? そんないつまでも休めるのか?」
 私はため息をついて、覚悟を決めたように話し始めた。
 
 よくある話。
 私は大学を出てから、体育の教師になろうとアプライしていたのだけどなかなか口がなくて、サンパウロでダンススタジオのインストラクターをやっている。
 勿論それだけじゃ食べていけないから、夜はカフェでバイトをして。
夜は夜で客なんか上手くあしらえば良いのに、しつこく誘う客が疎ましくて、ついに先日大喧嘩をしてカフェを辞めてしまったのだ。
 それですっかり意気消沈した私は、スタジオも休んで逃げるように帰ってきた。

「そんな感じ。よくある話でしょ? 田舎から都会に憧れて出たはいいけど、何一つ上手くいかないの。ダンスが好きだけど、ダンサーになれるかっていうとそれ程の才能もないし、せっかく大学で教師の資格を取ったけど、専攻の体育を教えられる職場の空きはなかなかみつからないし。それでもスタジオで踊っていられれば楽しいからって思ってたのに、結局このザマ」

 私は吐き出すように言うと、イビツルナ山を見上げた。
 どうして、こんな見ず知らずの男にこんな愚痴を吐き出してしまうのか、よくわからない。
 でも、なんだろう、こういうの。
 子供の頃、長い休みに遊びに行った先で会った、二度と会わないかもしれないけれど心を許した友達と話すような、そんな気分だった。

「へー、ダンスか。いいな。ダンスはどこででも踊れる。サンパウロが好きなら、またサンパウロで別のカフェの仕事でも見つけりゃいいじゃねぇか。ちょっと踊ってみてくれよ」

 彼は髪を後ろになでつけ、その形の良い額を見せながら笑って言った。
 私は、5番ポジションからプリエをした後、ピポットターンをしてアティテュードのポーズをとってみせた。ショーは嬉しそうに拍手をする。
「馬鹿ね、こんなの踊ったうちに入らない」
 私は照れくさくて、思わずそんな事を言った。
「じゃあ、サンパウロのスタジオで見せてくれよ」
 私たちは顔を見合わせて笑う。
 不思議だ。
 私はもうサンパウロには戻らないかもしれないと思っていたのに、なぜだか頭の中では、今日のレッスンの生徒の顔が突然リアルに甦ってきて、早く会いたいと思ってしまった。
 ショーはひょい、と親馬のルイスの背中に跨り、私に手を伸ばした。
「そっちの子馬、ちょいと疲れてるだろ? こっちに乗りな」
 私は子馬のニコラをちらりと見てから、そして彼の言葉に従って彼の差し伸べた手を握った。ショーは力強く私を持ち上げると、自分の前に私を跨らせる。
 ショーは私の身体の後ろから、巧みにルイスの手綱を操って、ゆっくりと馬を歩かせた。
 私の背中では彼の広い胸が熱い。
 そして、少し煙草の香りのする吐息が私の首や耳元をくすぐった。
 私は自分の胸の中が少しずつ熱くなるのを感じる。
 父が、彼と取引をしたら良いのにと、いつの間にか私は強く思っていた。

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2007.7.3




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