恋はサンパウロで


旋回


 私は川を渡って、町のロータリーで一旦車を停めた。
「……ブラウンの店は知ってるけど、一体何の用?」
 運転席から彼をじっと見て、私は尋ねた。
 彼は今までの軽い表情をひょいとひっこめると、やけに真剣な顔で私を見る。
 きりりとしたスーツを着ていても、髪や髯がちょっとだらしない妙なやさ男のくせに、不意に凛とした表情をして、私は驚いてしまう。
「俺がこの町に来たのは、そこの主と話をするためなんだ。重要な取引のためのね」
「……田舎町のバーの店主と話をするために、どうしてサンパウロくんだりからわざわざ来るわけ?」
 私が言い返すと、彼はちょっと眉をひそめる。
「……そいつぁ、簡単にゃ話せねぇな。世の中にゃ、お嬢ちゃんの知らないいろんな世界があるんだ」
「じゃあ、ここで降りて。あからさまに怪しい外国人を、父のところになんか連れて行けないわ」
 私が言うと、彼は驚いた顔をして髯をなでつけながら、そのぽってりとした唇を軽く尖らせた。


 結局のところ、私はこの桑原という男を店へ連れてゆく事になった。
 彼の話はこうだった。
 彼はサンパウロで宝石のブローカーをやっていて、主に政府の管轄外の闇の流通の石を取り扱っているのだという。
 ここ、ミナスジェライス州はブラジルでも有数の宝石の産地で、勿論発掘された石は表向けは政府のお墨付きのルートをたどって市場に出るわけだけれど、現実的にそれをすり抜ける市場というのは明確に存在している。
 このところ特に市場を賑わせているのは、赤いインペリアルトパーズで、それはなんといってもミナスジェライスでしか産出しない。
 上物は当然政府のルートが取り仕切っているのだけど、そこをかいくぐっての闇ルートが、今業界で最も熱いのだそうだ。
 それで、なぜ私の父親が出てくるのかって?
 それは、ヴァラダレスでの闇の石のルートを取り仕切っているのが私の父親、チコ・ブラウンだからだ。
 闇の、といってもイメージほど、あからさまに犯罪に手を染めているというわけではない。細々と法の目をかいくぐって、地元の鉱山の人間が上手く取引をして食いつないでゆくための共同戦線のリーダーをやっているという、それだけの事なのだ。どこの鉱山でもある話。
 この桑原という男は、父のそういう顔に会いに来たというわけだ。

 私は車を自宅の庭に止めると、桑原をつれて店に入った。

「ちょっと、マリサ、遅かったじゃないの!」

 カウンターの中では母親が声を上げる。
 私と同じ茶色い髪をした、声の大きな明るい人だ。
 今は夕方で、ちょうど一杯やりにくる人で店が忙しい。

「ごめん、ちょっと父さんと話がしたいっていう人と会って」

 私はちらと、桑原を視線で示した。
 母は彼を見るとすぐにその用件を察したようで、店の奥に居る父を呼びに行った。
 すぐに父が出てきて、桑原をじろりと見ると、あごでグイと奥のテーブルをさす。
 父は黒い髪にこげ茶色の目、禿げ上がった額に、ちょっと出っぱったお腹ながらも筋肉質な、なかなか迫力のある人物である。
 私は彼を、店の奥のテーブルへ案内した。

 私が店のオーダー取りやなんかを手伝っていると、間もなくして奥から桑原が出てきた。
 ちらと彼を見ると、彼はなんとも言えないくしゃっという表情をしていて、私の目の前にハンググライダーで降りてきた時とは大違いだった。そして、その叱られた子供のような顔のままで、カウンターの一番端に腰掛ける。
 私はちょっと気になって、トレイを持ったまま彼の傍で足を止めた。
「……何か飲む?」
「……ああ、カイピリーニャを」
 私は黙って肯くと、カウンターの中に入ってオーダーされた飲み物を作り始めた。
「車代に、私にも一杯おごってよ」
 私が言うと、彼はちょっと口元をほころばせて目で肯く。
 私は手元で氷を砕いた。
 カイピリーニャは、ピンガというサトウキビのスピリッツに、砂糖とライムを入れて氷の入ったロックグラスにそそぐというだけの簡単なカクテルなのだけど、まあブラジル人はとにかくこれが好きだ。
 キツいわりに飲みやすいからつい飲み過ぎてしまうので、私は家に帰った時くらいしか飲まないのだけれど。
 私はグラスを彼の前に差し出すと、自分のグラスとカチンと合わせた。
 彼は何も言わずにグラスに唇を寄せる。
「……美味いな」
 一口飲んで目を閉じ、そして染み入るような声で言った。
「でしょう? ウチのはライムが新鮮だから、とびきり美味しいよ」
 私は思わず笑って言った。彼は顔を上げて、そしてようやく微笑んだ。
「マリサって、言うのか?」
「私の名前? うん、そう」
 私たちはカウンター越しにお互いの顔を眺めながら、もう一口ずつ、カイピリーニャを飲んだ。
「……父さんとの話、上手くいかなかったの?」
 私が言うと、彼はクセのある黒い髪をがりがりとかき回した。
「うーん、難しいみてぇだな。ぽっと出の若造の外国人など、信用できるかって顔されちまったよ」
 そう言って苦笑いをする。
「……なんたって田舎だもん。仕方ないね。……あんた、日本人?」
「ああ、そうだ。けど、サンパウロに来てもう10年近くになる。……マリサはずっとヴァラダレスに?」
 彼はグラスの氷をカラカラとかきまぜながら私を見た。
「ううん、私も普段はサンパウロにいるんだけど、休みで帰ってきてるんだ」
 私は彼のまなざしに少し落ち着かなくて、胸にぶらさげているアクアマリンを指でもてあそぶ。15の誕生日に母からもらった石だった。もちろん地元特産の。
「そうか、休暇中か」
「……まあ、そんなところ……」
 私は言うと、グラスの残りを飲み干して、自分の分をもう一杯作り直した。

「俺にももう一杯頼む」

 桑原は空になったグラスを差し出して、前髪をかき上げた。
 黒い目が私をじっと見る。
 私は新しくカイピリーニャを作ると、彼の前に差し出した。
「来たばかりだけど、もうサンパウロに帰る事になっちゃったわね?」
 私の言葉に、彼は驚いたように目を丸くする。
「まさか。誰と取引するか、チコの一存で決めるわけじゃねぇだろ? まだチャンスはある。どうやって俺のやり方の良さをアピールするかなって、考えてるとこさ。美人を眺めて、旨い酒を飲みながらね」
 彼はさっきのくしゃっとした表情はどこへやら、にやっと笑ってグイとグラスを傾ける。
 私は呆れ顔で彼を見つめた。

 その時だった。

 店の木製の扉が開く、乾いた音がする。
 私は愛想よく挨拶をしようとそちらを見て、でも言葉は出ない。

 入ってきたのは50歳すぎくらいだろうか。
 体格の良い精悍な男だった。
 品の良いスーツで姿勢が良く、一見、何の変哲もない紳士なのだが、なんとも言えない隙のなさでピリピリしている。
 こういう男を、夜のサンパウロでは何人も見た事がある。
 まず間違いなく、桑原以上に物騒な男だ。
 挨拶の言葉が口の中で留まり、思わず固まった私の前で、桑原もじっと彼を見ていた。
 黒い目をぎりりと光らせて。
 男は桑原を見ると、おやおやというように愛想良く笑う。

「やあ、ショー。一足早かったみたいだな。良い結果は得られたか?」

 バリトンの声を響かせて男は言った。
 桑原は彼を睨みつけたまま、何も言わない。
 男は桑原から私に視線を移した。
 私はびくりとする。
 まるで、その視線で体中をしばりつけられたように一瞬動けない。

「チコはいるか?」

 言われるまでもなく、彼が桑原の商売敵であろう事を私は察した。
 深呼吸をして、奥に父を呼びに行き、そして桑原にそうしたように彼を奥へ促した。

 カウンターに戻って、私はようやく安堵の息をつく。
「……今日、彼から逃げてきたの?」
 私は小声で桑原に尋ねた。彼はため息をつきながら肯く。
「俺を山に連れて上がったあげく、物騒で面倒な事を言いやがったからな」
 桑原は右手の人差し指と親指を立てて、銃を撃つジェスチャーをしてみせた。
 私たちのお酒は、とたんに不味くなってしまった。

「おいおい、氷が溶けちゃってるじゃないの」

 そう言いながら、外から籠一杯のライムを持ってカウンターに入って来たのは祖母だった。
「いい男が、こんな薄いピンガを飲むもんじゃないよ」
 祖母は私たちのグラスを取り上げると、持ってきたばかりのライムを使って新しくカイピリーニャを一杯ずつ作ってくれた。
 私たちは、ほらほらと促され、くいと一口飲む。
 手早く作られた祖母のカイピリーニャは絶品だった。
 祖母はライムを布で丁寧に拭きながら、ちらちらと桑原に目をやる。
「……さっき店に入って来た男、マルコスだね? チコと話してるのかい?」
 そして、彼にさらりと尋ねるのだった。マルコスというのが、先ほどの男の名前らしい。
 桑原は眉をぴくりと動かして、祖母の顔をじっと見る。
「……あんた、ジゼルばあさんかい?」
 彼がそう言うと、祖母は嬉しそうににやりと笑った。
「あたしの名前を知ってるたぁ、あんた、ただのケツの青い若造じゃないね?」
「知らないわけがない。チコの前にここの鉱山の取引を仕切ってたのは、ばあさんなんだからな」
 彼が言うと、祖母はおかしそうにくっくっと笑った。
「会えて光栄だ。俺は桑原祥介」
 桑原は祖母に右手を差し出す。祖母はそれをちょいと握り返して、また笑う。
「サンパウロのショーか」
「俺を知ってるのか?」
 祖母の言葉に、桑原はびくりと背筋を伸ばした。
「老いぼれの隠居だけど、話だけはあちこちから入ってくるのさ。ショー・桑原ってぇ、このところ売出し中の日本人の噂もね」
 祖母は自分の飲み物を作ると、桑原のグラスにチンと合わせてゆっくりと美味しそうに唇を湿らせた。
「どうせチコには色よい返事はもらえなかったろう? あいつは真面目だけど保守的な男だから」
 祖母が言うと、桑原は苦笑いをしてやれやれというように首を振った。
「あたしが現役の頃は、マルコスも駆け出しでね。奴との取引を断った事がある。しかし今じゃ、あいつがこの業界の顔役だ。チコはあいつとの取引を望むだろうね」
 そう言ってまたちらりと桑原を見た。
 祖母の日焼けした顔の皺の中に埋もれた深緑の瞳は、まるで桑原を品定めするかのように悪戯っぽく生き生きと輝いていた。
「……マルコスは確かにやり手だ。しかし、俺はあいつよりもはるかに、安定した取引をする事ができると思ってる。……俺のやり方とマルコスのやり方がどれだけ違うのか、チコが分かって、信頼さえしてくれたら……」
 桑原は悔しそうにぐいとグラスを空にした。
「あんた、見せ金の他に資料は持ってきたんだろうね?」
「勿論。しかしチコは必要ないと、見てもくれなかった」
 祖母は桑原に、それを出すよう促した。
 彼は茶封筒に入った書類を差し出す。
「……あたしは隠居だけど、息子に取引内容の資料に目を通せというくらいの意見は通る。預かっといてやるよ」
 祖母の言葉に、桑原は黒い目を輝かせた。
 彼のその表情のころころと変わるところがあまりにも新鮮で、私はつい彼に見入ってしまう。
 父との面会から戻って来た時の叱られた子供みたいな顔に、マルコスに会った時の相手を殺さんばかりの顔、そして祖母と話す時の嬉しそうな顔。
 こんなに一筋縄でいかなそうな男なのに、なんでこんなに子供みたいなんだろう。
 私がそんな風に彼を見ていると、祖母はメモに何か走り書きをした。
「ショー、あんたどうせ宿も決まってないだろ? 裏通りの宿に、私の紹介だと言って行きな。ここいらは流れ者を断る事も多いからね」
 そう言って、彼にメモを渡す。
「マリサ、宿に案内してやりな」
 突然話を振られた私はちょっと驚いて、それでも逆らう事はできず桑原と店を出て通りを歩いた。


「悪いな、わざわざ案内させちまって」
「いいよ、おばあちゃんの言う事には誰も逆らえないもん。……でも、びっくりした」
「何が?」
「……おばあちゃん、若い頃、サンパウロで日本人の男の人とつきあってた事があるんだって。で、結局別れちゃって、日本の男なんてロクでもないって口癖だったからね、日本人に親切にするなんて意外だなあって」
「へえ?」
 桑原は眉をちょいと持ち上げて目を丸くした。
「……俺がいい男だから、例外なんじゃねぇか?」
 そう言って、大きく口をあけて笑う。
「あんたのばあさんだ、きっと若い頃はさぞかし美人だったんだろうよ」
 私たちは裏通りの宿の前で足を止めた。
「はい、宿はここ。おばあちゃんの名前を出して、サインの入ったメモ見せたら泊めてくれるわ。じゃあね」
 私はそう言って手を振りながら、宿の中へ促すけれど、彼はまだ宿の前を動こうとしない。
「……部屋に上がって、一杯やってかねぇか?」
 彼は親指でクイと宿を指し、例の人懐こい顔にちょっと艶っぽい笑みを浮かべて言う。
「あいにく、髯を生やした男と喫煙者は好みじゃないの」
 私はそう言って彼に手を振ると、走って店に戻った。

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2007.7.2




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