恋はサンパウロで


着陸


 私はイビツルナ山を左手に見ながら、ゆっくりと車を走らせていた。
 ここブラジル、ミナスジェライス州のゴヴェルナドール・ヴァラダレスは私の生まれ故郷だ。
 休暇を理由に、普段住んでいるサンパウロから一旦この故郷に戻ってきた私は、さっそく母親に用事を言いつけられて、川向こうの叔父の家に行った帰りだった。
 サンパウロと違って、とにかく田舎のこの町はのんびりしていて人も少なくて、それでいて皆楽しげに過ごしていて私は子供の頃のような気持ちに戻り、なんともほっとする。
 なだらかな山ばかりのこの土地で、一つだけ高くそびえた岩山のイビツルナ山はどこから見ても目立つ。
それは私が子供の頃と何も変わりなく、町を見守ってくれていた。
 私はイビツルナをちらりと横目で眺めながら、川を渡るための橋に向かって広い未舗装路をゆっくりと走り続けた。
 その時だった。
 フロントガラス越しの地面が一瞬暗くなる。
 雨続きの最近だけど、今日は晴天のはずなのに。
 雲が張ってきたのかと思いきや、そうではなかった。
 何だろう、と私は少しハンドルの方へ身を乗り出すと、次の瞬間思わず声を上げてしまう。
 私の車のすぐ上を、飛行機のようなものがスレスレですり抜けて音もなく飛んで行くのだ。
 車よりも少し早いスピードで追い越すと、まるで道路を滑走路のように使ってアプローチしてゆく。
 ゆっくりとブレーキを踏みながら驚いて見ていると、それはスピードをつけたまま地面に激突するのかと思いきや、地面スレスレになった瞬間にぐいっと鼻先が持ち上がり、ふわりと着地した。
 進路をふさがれた私は、やむなく停車する。
 着地したそれは、何の事はない。
 イビツルナ山から飛んできたであろう、ハンググライダーだった。
 子供の頃から、時々見たことはあった。
 ちょっと、危ないじゃないの、と抗議の言葉を述べようと私が運転席から出ると、パイロットがグライダーのハーネスを外してやってきた。

 黒っぽいスーツに、ひとつに束ねたクセのある長めの黒い髪、あご髯をたくわえた30歳前後の長身の男だった。細身の体だけど、ジャケットの下のシャツからのぞく胸はやけに厚くてたくましい。
 髪と同じく黒い目は優しげだけれど鋭くて、長い前髪の間から私を見て、そしてふっと笑い、スーツについた砂埃を片手で軽く払った。
 田舎町で油断している私でも、一目で怪しい男だと身が引き締まる。
 しかしその男は、急いで車に戻ろうとする私よりも素早く、私の車の助手席に乗り込んでしまったのだ。

「悪ぃ、町まで送ってくれ」

 彼はそう言うと、目を細めて笑って私を見るのだった。
 私はあわてて、助手席のドアを外から開けた。

「ちょっと、冗談じゃないわよ、あなた、何者? 町に行きたいなら、お仲間に迎えに来てもらって!」

 私がまくしたてると、彼はスーツの内ポケットから煙草のソフトケースを取り出して、そして一本を口にくわえる。

「俺ぁ、今日この町に来たばかりでね、残念ながらお仲間はいねぇんだ。頼むよ」

 憎たらしい口調のくせに、その目は意外なほど人懐こくて、私はしばらく彼をじっと睨みつけていたけれど、結局ため息をついて運転席に乗り込んだ。

「煙草は吸わないで頂戴」

 ライターで火をつけようとしていた彼に、私はぴしゃりと言った。
 彼は少し目を丸くするけれど、大げさにため息をついて大人しく煙草をくしゃくしゃのソフトケースに戻すとポケットにしまった。
 橋に向かって車を走らせながら、私はちらちらと隣の彼を観察した。
 銃を出したりはしなさそうだ。何か危害を加えようという気はないみたい。
 けど、突然空からやってきて、乗せろだなんて一体何者なんだろう。
 浅黒い肌に彫の深い顔をしているけれど、東洋人のようだった。
 私のそんな考えを察知したかのように、彼はあご髯をさわりながらにやりと笑う。

「俺、桑原祥介。サンパウロから来たところだ。ショウスケって発音しにくいだろう? ショーでいい」
「サンパウロからあれで飛んできたわけ?」
 私はミラーの中で小さくなってゆく、乗り捨てられたハンググライダーをちらりと見て言った。
 彼はクククと笑う。
「いや、さすがにあれじゃな。……仕事の取引のためにサンパウロからドメスティックエアーに乗ってきたんだが、生憎同じヤマを狙うライバルと鉢合わせちまってね。まあお互い話し合おうやって事になって、イビツルナの展望台でセルベージャ(ビール)でも一杯なんて話になったんだが、ちょっと面倒な事になって、たまたまセットアップしてあった地元パイロットのアレを拝借して逃げ出してきた。川を越えてヴァラダレスの町まで行けるかと思ったんだが、シングルサーフェスのオンボロ翼だったみたいでね、こっち側にボムアウトさ。で、ちょうどアンタの車が通りかかったんで、これを逃すと町まで行くにゃ、骨が折れると狙いをすましたわけだ」
 彼……桑原祥介という男は流暢なポルトガル語で軽快にまくしたてた。
 何だか彼が言っている状況の半分もよくわからないが、どうやらキナくさい男であるのは確からしい。
 私は道路を右折して橋を渡った。
 最近の雨続きで濁流の川は、ごうごうと音を立てて流れている。
 橋を渡って町に入って、銀行の前辺りで降ろしてさっさとおさらばしよう。
 私がそんな事を思っていると、彼は何か手元で紙切れを見ている。
「ところで、アンタ地元の人だよね?」
「そうだけど」
「ここ、知ってるかい? ブラウンの店って、バーなんだけど」
 彼はアドレスが書いてあるらしい紙切れをピラピラとさせて、私に問うた。
 私は思わず目を丸くする。
 それは私の実家で、うちの両親と祖母が経営している店だったから。

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2007.7.1




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