恋はサンパウロで


プロローグ


 部活も休みの週末、俺がいつもより少し遅く起きて部屋を出ると、階下から音楽が流れてくるのが聴こえる。
 俺と家族が住んでいるのは父の実家で、父の両親が昔に工場をやっていた部分の倉庫と家とがつながっているという変わった造りの、古いけれど広い家だ。
 父の両親、つまり俺の日本の祖父母は早々に亡くなっていて、ずっと廃墟状態だったこの家と倉庫を、俺を連れてブラジルから戻った両親が改造してなんとか住めるようにした。
 俺は短パンにTシャツといういでたちでキッチンへ行き、そこに誰もいないのを確認すると、あくびをしながら倉庫の方へ顔を出した。

 窓を開け放った明るく広い倉庫では古臭いユーロビートの音楽が流れ、そして水色のカーゴパンツに迷彩カラーのタントップの母親が、クルクルと踊っているのだった。

「おはよう、ジャッカル! ちょうどよかった、来月からのレッスンのプログラムなんだけど、ちょっとやってみてよ」

 母は音楽を最初に戻すと、自分の前に来るよう俺に手招きをした。
 俺は渋々、音楽に歩調をあわせながら母親の前に向かう。

「はい、右からマンボステップ二回やって、そのままVステップね。そんでフォーリピーター、パドブレの後8カウント歩いて……」

 母はスポーツクラブでエアロビクスやダンスのインストラクターをやっている。
 引き締まった見事なプロポーションに、キュートな笑顔の自慢の母なんだけど、レッスンの準備にこうして付き合わされるのだけは、俺は閉口している。
 以前一度だけ、俺がこうやって踊っているのを通りかかった赤也に見られてしまい、「他言したらブッコロス」と口止めするのに大変だったのだ。

「ミドルクラスのプログラムなんだけど、どう?」

 一通りの振り付けを終わって、母は俺に聞いてきた。
「どうって言われても……さあ……」
 俺は困った顔で答えるだけ。
「そうだねえ、あんた体力あるし、ダンス上手いからねえ」
 母はそう言うとくすっと笑った。
「一度スタジオに来たらいいのに。あんた男前だしダンス上手いから、きっと、おねーさん達にモテモテだよ」
「いいよ、どうせオバさんばかりだろ」
 俺がむすっとして言うと、母は大きな声を立てておかしそうに笑った。
 本当にきれいで、可愛らしい笑顔をするんだ、この人は。
 俺もつられて笑った。

「親父は? 今日はスーパー行かないといけないんだろ? 開店するの、もうすぐなんじゃないの?」
「そうそう、9時半には行かないと! 今日は卵がお一人様一パック78円だからね、一番で行かないとなくなっちゃうのよ」
 俺は外を伺うが車は戻っていない様子だった。
「親父、まだ海行ってんの?」
「今日はいい風が吹くからって、昨夜からトレーラーハウスの方で寝てたのよ。まだ海に入ってんのかしら。今日は朝イチでスーパー行くよって言ってあるのに」
 母は音楽を止めると、眉間にしわを寄せた。
 俺は倉庫に並べてある父のロードレーサーを取り出して、タイヤのエアーを確かめる。
 倉庫には、父の遊び道具が満載だ。
「俺、呼びに行ってくるよ」
「ありがと、ジャッカル! お願いね!」
 俺は海に向かって、イタリア製のペパーミントグリーンの自転車を軽快に漕ぎ出した。
 気持ちの良い追い風だ。確かに今日はサーファーたちの好物の絶好のオフショアが吹いているだろう。
 父は日本に来てからサーフィン三昧。
 まったくどうしようもない親父だ。
 あんなにキレイで素敵な母さんが、なんだってあんな親父と結婚したんだろう。
 俺は折に触れて母にそんな事を問うたりもするのだけど、母はいつもキュートな笑顔を俺に向けて、こうやって話し出すのだ。

『私とお父さんが会ったのは、お母さんの生まれ故郷のヴァラダレス。お父さんは私の目の前に、まるで鷹みたいに突然舞い降りてきたの……』

Next

2007.6.30




-Powered by HTML DWARF-