● 恋の選択科目(3)  ●

 選択科目の教室で、席が離れてしまったさんを眺めながら、俺は授業も上の空。
 教室で隣に座ったり、学食で一緒に飯食ったり。
 そりゃ、今までの俺からすれば大した進歩だ。
 けどブン太の言うように、それだけじゃダメだ。
 俺は、ほんの少しだけ得たアドバンテージを失うのが恐くて、結局無難な事しかやってない。
 ゼロの時の自分は、さんを抱え上げてグラウンドを走る事だってできたのに。
 いつも俺がブン太と一緒に戦ってる試合はどうだ?
 ちょっとアドバンテージを得たからって、それを守るような試合をするか?
 そんなわけない。
 アドバンテージを得たら、それを更にどんどん大きくして相手を引き離してゆくような攻撃をしてゆく。
 そうだろう?
 俺のポジションは守備だけど、勝負は守りに入っちゃダメだ。
 攻めか守りかの選択なら、それは攻めに決まっている。



 朝練を終えて部室で着替えてをしていると、先輩、先輩、と赤也が話しかけてきた。
「おう、何だ?」
 また真田にでも叱られたのか、と思いながら振り返ると、奴はやけににやにやとした顔をしている。
「先輩、彼女ができたんですって? サンって言うんですよね、昨日先輩の教室で見ましたよ。眼鏡かけた大人っぽいキレイな人っスよね?」
 俺はぎょっとして奴を見る。
 そして瞬時に、ブン太の奴だなと察して内心舌打ちをした。
 赤也の事だ、俺が告白したなんて噂を聞きつけて、それで用事にかこつけて教室に来て、ブン太から聞き出したのだろう。
「……うん、まあな」
 俺は一瞬迷って、そしてそう答えた。
「へー、よかったじゃないスかー! 俺、先輩の恋が上手く行って、めっちゃ嬉しいっスよー!」
 赤也は時折見せる、子供っぽい無邪気な顔で笑ってそう言った。
 まあこいつも、俺がよくチアリーダーの女の子に惚れては振られてっていうのを知っていたから、本気で喜んでくれているのだろう。可愛いトコもある奴なんだ。
 後輩に恋の成就を祝われるというのも、若干情けなくて不本意なところではあるが、仕方がない。
 俺は、オウ、サンキュ、なんてぼそぼそつぶやきながら部室を後にした。

 本当は、まだ、彼女ってわけじゃねーんだけど。

 なんて言えないし、言ったら本当にそうなってしまいそうで。
 そんな風に胸がチクチクと痛むのだがそれと同時に、いつか赤也に「ホラ、さん。俺の彼女だよ」と、堂々と紹介する事を考えると甘い感覚で胸があふれた。


 教室に行く前、花壇の前にまださんがいるのを見つけると、俺は全力で走って行った。
「あ、おはよう、ジャッカルくん」
 彼女は丁度ホースを片付けるところだった。
「おはよう、あのさ」
 俺は呼吸を整えながら言う。
「……今日、帰り、さんは何時くらいになる? その……もし、俺の部活が終るくらいまで何かやってるんだったら、よかったら一緒に帰らねー?」
 俺の顔は多分、告白をした時くらいに必死だったと思う。
 さんは笑いながら肯いた。
「うん、水やりの後、図書館で本読んでるから、部活終ったら教えて」
「わかった、迎えに行く」
 俺は心の中でガッツポーズ。
 なんとか1ゲームは取れそうだ。



 部活を終えると、俺は誰とも一切の無駄口を聞く時間さえ惜しんで、図書館に向かった。
 扉を開けて、そうっと中に入って見渡すと、窓際の机でさんが本を読んでいるのを見つけた。
 彼女の方へ歩いていこうとする足を、俺は一瞬止めた。
 そしてうつむいて本を読む彼女を見つめる。
 今、彼女は俺を待ってくれているんだ。
 そう思うと、たまらなく嬉しくて。
『俺のために待ってくれてるさん』を、まだしばらく見ていたくて、俺は図書館の入り口のところでバカみたいにつっ立っていた。
 するとさんがふと顔を上げて、俺と目が合う。
 そしてほっとしたように微笑んだ。
 俺も自分の口元が緩むのがわかる。
 俺が小さく手を振ると、彼女は本を本棚に戻し、鞄を持ってゆっくり歩いてきた。
「……ごめん、声、かけてくれたらよかったのに」
 廊下に出ながら彼女は言った。
「何か、一生懸命読んでたみたいだから、悪りーかなって思って」
 俺は本当の事は言えず、そんな風に答える。

 俺とさんは二人並んで、学校帰りの道をゆっくりと歩いた。
 告白をする前に、一度こうやって一緒に帰った。
 その時、本当に彼女を好きだなあってつくづく思ったっけ。
 今は多分、俺はあの時より少しは彼女に近い。
 俺は今日のテニスの練習内容や次の試合についてを彼女に話して、そして彼女は興味深そうにそれを聞いてくれて、そんな風に歩いていった。
 彼女の家の近くになると、俺はそこで別れるのが名残惜しくて、傍の小さな公園の自動販売機で何か飲まないかと提案をした。
 話も盛り上がっていたところだったから、彼女は快くその提案を受け入れ、俺は缶コーヒーを、彼女は缶のミルクティーを買ってそれを飲みながら二人で立ち話を続けた。
 こんな風に誰かと一緒に帰って、話をして。
 こういう事も、さんは誰とでもするのかな。
 俺は飲み終わった缶をゴミ箱に捨て、ふと考えた。
 さんも空になった缶を放る。
 空き缶入れの中で、カチャンと音がする。
 その音は、俺たちのこの時間の終わりを告げるチャイムのようだった。
「……さん、こうやってさ、誰かと一緒に帰ったり、よくする?」
 俺はついつい思っていた事をそのままに尋ねた。
「うーん、そうね、友達と時間が合うようだったら一緒に帰ったりするよ」
 そして、まあそうだろうな、というような当たり前の返事。
「その……男の奴とも、一緒に帰ったりする? 今の同じクラスの奴なんかでさ」
 彼女は少し戸惑ったような顔で俺を見上げる。
「……男の子はねぇ、一緒に帰ったりするのはジャッカルくんだけだなあ」
 彼女の言葉は俺の胸を打ち抜いた。
 ほら、ここで。
 このアドバンテージを生かさずして、どうするっていうんだ?
 俺はさんが好きで。
 好きで、付き合って欲しいと伝えた。
 選択科目も合わせて、隣の席に座れるよう努力している。
 こうやって、待ち合わせて一緒に下校もした。
 俺はさんの彼氏になりたいんだ!
 あと、どうしたらいい?

 俺の頭には突然、勝利へ向けての選択肢が浮かんだ。

 キスをする?
 キスはしない?

 俺の選択は当然前者だった。
 これは大きな賭けだ。
 さんの選択は?
 
 目を閉じる?
 平手打ち?

 そんな二択を思い浮かべながら、俺はさんの肩を掴んで彼女の唇に俺のそれを寄せた。
 俺が感じたのは、彼女の柔らかい唇の感触とミルクティーの甘い味、そして彼女の眼鏡の冷たいブリッジ。
 次の瞬間、俺の鼻先にひっかかった彼女の眼鏡が地面にたたきつけられる音がした。

「あっ……」

 小さな叫びとともに取ったさんの選択肢は、

『眼鏡を拾う』

 俺が想定もしていない、第三の選択肢だった。
 さんがしゃがんで手に取った眼鏡は、片方のレンズが割れていた。
 俺の頭の中は真っ白で、そしてちょっとやそっとじゃ心拍数の上がらないはずの心臓はバクバクと激しく音を立てる。『四つの肺を持つ』なんて言われているはずなのに、息までが苦しい。
「あ……ごめん……」
 俺は震える声でつぶやく。
「……いいの、これ、前一度落としちゃった事があって、こっちのレンズ傷が入ってたし、それで弱くなってたんだと思う」
 彼女は落ち着いてそう言うと、ハンカチで眼鏡を包み、鞄に仕舞った。
「……ごめん、見えなくて、不便じゃね?」
 俺と彼女はすぐ近くの彼女の家に向かって、ゆっくりと歩き出した。
「大丈夫、眼鏡ないと何も見えないって程には悪くないし、家にはスペアがあるから」
 彼女はそう言って俺に微笑んだ。
 でも、俺にはこの会話、まったく頭に入ってこないし、とても何か話し続けようという気にはなれなかった。
 さんは家の前で俺に手を振った。
 彼女は眼鏡の事以外、何も言わなかった。
 俺は彼女と別れると、一目散に家へ走った。

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2007.7.8

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