● 恋の選択科目(4)  ●

 俺は家に帰って鞄を放り投げると、自転車で海へ走った。
 海辺には親父から譲り受けたトレーラーハウスがあって、俺は一人になりたい時や集中して勉強する時なんかにそこを使う。もちろん、時には赤也やブン太が遊びに来てゲームをやったりする事もあるんだけど、そんな、俺の気に入りの隠れ家だ。
 俺は自転車をトレーラーハウスにたてかけると鍵を開け、中に駆け込みベッドに転がり頭を抱えた。

 俺は何をやってるんだ。

 チクショウ、と怒鳴りながらベッドの上で一人、手足をバタバタとさせて暴れた。
 俺の体にはさんの細い肩の感覚や、柔らかい唇の感触、ミルクティーの甘い味、髪の香り、そんなものが残っていて、それらは俺の体の奥を熱くする。
 でも、それだけなんだ。
 俺が欲しいのは、そんなんじゃなくて……もっと……さんに受け入れられる感じだ。
 触れて、抱きしめたかっただけじゃないんだ。
 それなのに、俺のやり方がまずくて、そんなものがあっという間に遠のいてしまった。
 俺は体を起こして深呼吸をすると、窓を開けて外の風を入れた。
 カーテン越しに、海からの気持ちの良い風が入ってくる。

 いつか、さんを連れてここに来たいと思っていた。
 さんと二人でコーヒーを淹れて飲んだり、映画のDVDを観たり、海を眺めたり。
 そんな希望を抱いていた自分も、これまたはるか昔の夢のように思えてしまう。

 どうしたらいい?
 どうしたらいい?
 どうしたらいい?

 頭の中で何度も繰り返すけれど、何も名案など出てこない。
 俺は携帯なんて持ってないから、彼女に連絡をしてフォローをする事もできない。
 よしんば持っていたとしても、何を言ったらいいのか、わからない。
 俺が考えるのは、なんとか時間を戻す事ができないか、とか、このまま突然地球が滅亡してもいい、とか、何の役にも立たない事ばかりだった。



 翌日は日付が一日戻っている事もなく、地球が滅亡する気配もなく、俺は通常通りに登校する。
 今までの人生で最も憂鬱な登校だ。
 部活に遅刻をして真田の鉄拳をくらうという事がわかっている時ですら、ここまで俺の気分は落ち込んだ事はない。
 朝練を終えて花壇のところを通ると、さんはもういなかった。
 俺は、がっかりしたような、ほっとしたようなそんな気分。

 けれど難題からあっさり逃れられるわけもなく、当然ながら教室に行くとさんはすでに自分の席にいた。
 俺は教室に入るのを一瞬躊躇するけれど、思い切って足を踏み入れる。
 さんの席の近くに歩いてゆく俺に、彼女はすぐに気付いて、そして顔を上げた。
 その顔には、昨日までと違うフレームの眼鏡がかかっていた。
「あ、おはよう」
 彼女はそれだけ言うと、また女友達とのおしゃべりに戻っていった。
 いつも通りの穏やかな表情。
 俺はその態度にかえって戸惑ってしまい、挨拶すら返せない。
 胸の中に鉛球を抱えたような気分で自分の席に戻った。


 午前中はフランス語の授業があって、教室を移動する前に俺がおそるおそる振り返ると、さんは既に移動したとみえてそこにはもういなかった。
 俺はゆっくりと準備をして、廊下に出る。
 俺の予定では……。
 ちゃんと二人でお互いを待って教室を移動して、そして一緒に教室に入り隣同士に座る。
 昨日の勝負が上手く行けば、今日から、そんな風になるはずだったのに。
 教室に行くと、当然彼女の隣の席は埋まっていた。

 俺の勝利への賭けは、失敗に終った。
 俺が持っていたちっぽけなアドバンテージはあっという間に失われ、ゼロどころかマイナスになってしまったのだ。

 すっかり自分にとっての意味を失ったフランス語の授業を、俺はまったく上の空で受けていてその日は教師に怒鳴られっぱなしだった。


「おいジャッカル、お前、今日どうしたぃ? ちょっと、ひでーぞ?」
 昼休み、弁当を広げようとしていた俺に、さすがに見かねたのかブン太が声をかけてきた。
 授業中しょっちゅう叱られてばかりで、よっぽど呆けてるように見えたのだろう。
「……あ、いや、別に何でもねーよ」
 俺は奴の相手をする元気もなく、そうつぶやいてうつむいた。
 うつむく俺の前に、誰かが立つ気配があった。
 顔を上げると、それはさんだった。
 俺は一瞬びくりと飛び上がりそうになった。
「ジャッカルくん、今日お弁当? よかったら、外で食べない?」
 俺はすぐに言葉を返せなくて、目を丸くする。
「ごめん、丸井くんと食べるとこだった?」
 彼女は俺の顔を覗き込むと、ブン太をちらりと見てから言った。
「あ、いやいや、俺は学食行くとこだからさ」
 ブン太は愛想良く言うと、さっさとその場を去った。
 俺と彼女は弁当を持って、教室を出た。
 彼女は俺の少し先を歩く。
 さんは、いつもより愛想が良いというわけでもなく、いつもより機嫌が悪いというわけでもなく、とにかくいつも通り。
 でも俺は、まるで死刑執行を待つ囚人のような気分だった。

 彼女はグラウンドの隅の藤棚の下へ俺を促した。
 そこの木製のテーブルに彼女は弁当を広げ、持ってきた茶を一口飲む。
 俺も、彼女の3倍くらいの大きさの自分の弁当箱を広げた。
 俺たちは、しばらく何も言わずに弁当を食べた。
 彼女は時折、グラウンドの方を眺めたり。

 俺は彼女に何を言ったらいいんだろう。
 どうしたらいいんだろう。
 『昨日はごめん』って言う?
 それはなんだか、違うんだ。
 俺が伝えたいのはそんな事じゃない。
 ごめん、とかそんなんじゃなくて……。

 さんは弁当を少し残して蓋をして、箸を仕舞った。

「……ジャッカルくん、ごめんね」

 そして彼女はそう言った。
 俺は彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
 彼女の『ごめん』の意味を考えて。
『ごめんね、もう話し掛けないで』
『ごめんね、もう隣に座らないで』
 俺の想像では、これくらいしか思いつかなかった。
 そして俺はそのイメージだけで、心臓がわしづかみにされるような気がした。

「あの日、ここで一緒に走ったでしょう」

 彼女は続けた。
 俺は彼女の言葉を聞き逃すまいと、必死に彼女を見つめる。

「私、ジャッカルくんに、ちゃんと返事、してなかった」

 さんはグラウンドをじっと眺めてから、そして少し迷ったような顔で俺を見た。
「……私ね、ジャッカルくんに好きだって言われて……それからジャッカルくんが傍にいてくれて……その……キス……されて……」
 さんは恥ずかしそうにゆっくりと続ける。

「私……ジャッカルくんが私を好きだから、好きになったのか、キスをされたから好きになったのか、何だかよくわからなくなっちゃって……。何だか照れくさくて、ずっと何も言えなかった。でも今日、いつまでも私がこんなんだったら、もしかしたらもうジャッカルくんは選択科目の授業でも、隣の席に来てくれないかもしれないって思うとすごく……悲しくなった。きっかけは何でもいいから、やっぱり好きだなあって思ったの。ごめんね、自分ばかりカッコつけて何も言えなくて……ジャッカルくんを不安な気持ちにさせたりして……。私……、まだジャッカルくんが私を好きだといいなって思う」
 
 一生懸命話すさんの顔を、俺はぽかんと口をあけてバカみたいな顔で見ていたと思う。
 何か気の利いた言葉を言いたくて仕方ないのに、まったく何も出てこなかった。

「俺、さんが好きだよ」
 
 必死にそれだけを搾り出す。

「うん」

 さんは嬉しそうに肯いた。

「俺、選択科目の授業ではいつもさんの隣に座りたい」

「うん」

さんが、弁当とか定食残したら、俺が食う」

「うん」

 しばらくそんなバカみたいな幸せな会話をしながら、俺はポケットのチェーンにぶらさげているトレーラーハウスの鍵を握り締めた。
 いつか、もう少ししたら、さんにこんな選択肢を提示しよう。

 俺の隠れ家に来る? やめとく?

 でもその前に、俺がさんの眼鏡をふっ飛ばしてしまった、あのキスをやり直すという必須科目が残っているのだけれど。

(了)
「恋の選択科目」

2007.7.9

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