● 15歳の密かな野望  ●

 俺はテニス部の朝練を終え、教室へ向かう。
 ふと、柔らかな甘い香りに足を止めた。
 まだほんの少し残っている藤棚の藤だった。
 そういえば今年は藤が咲くのが遅かった。いつもこの時期はすっかり散ってしまっているのに。
 藤の花の香りなど、初めて気づいた。
それは、ほんのかすかな甘さで、人気のない静かな空気の中やっと気付くくらいの。おそらく人が大勢やってきて、空気をかき回してしまえば、すっかりわからなくなってしまう。
 俺はそんな香りに気づいた事がやけにうれしくて、こころもち良い機嫌で教室に入った。


 教室では、いつも騒がしい連中が今日はひどく静かで、俺はかえって落ち着かない。
 いつもその騒がしい真ん中にいる、を視線で探した。
 彼女は机に向かって、ずいぶんと真剣な顔で何やら本のようなものを読んでいた。よく見ると、彼女といつも騒いでいる友人たちも同じように机に向かって真剣な顔。
 俺はゆっくりと彼女に近づいて、何を読んでいるのかと覗き込んだ。
 騒がしければそれで注意してしまうし、静かなら静かで気になる。
「……あ、真田くんおはよう」
 俺に気づいたが顔を上げて、にこっと笑う。
「今日は皆、静かなんだな」
「あ、今ね、祥子ちゃんが家から持ってきた『ゴルゴ13』にみんな夢中なの。全部で100巻以上あるから、私たち当分は静かよ。真田くんに注意される事もないと思う」
 はそういうと、また手元の漫画に目を落とした。
 俺はやれやれとため息をつく。
 彼らは小学生みたいに、その時その時に彼らなりのブームがある。
 少し前までは、教室の後ろで楽器をがちゃがちゃやっていたり、その次はお手玉みたいな小さなボールを足で蹴りあっていたり。
 俺の生活ではまったくありえない、馬鹿馬鹿しい日々。
 しかし、いつもその中で楽しそうにしているは俺のつきあっている女の子だ。
 俺は教室で、彼女の騒がしい仲間に入ったりする事は当然ないわけだが、それでも彼女は、俺が部活を終えた後には、いつも俺の自転車の後ろに座っている。
 そう、俺は、それで満足なんだ。
 


 俺とは毎日、特に約束していなくても部活を終えたら一緒に帰る。
 つきあう前は、俺からすると暇そうに見えていたも、写真部で写真を撮っていたり現像をしたり、それなりにやる事があるようだった。
 この日も俺が部室を出る頃、が部室の近くへやってきた。
 つきあい始めた当初は、テニス部の連中が何やかんやと俺に冷やかしの言葉をあびせかけてきたりしたものだが、今はすっかり落ち着いた。
「終わった?」
「ああ。今日はミーティングで遅くなってしまって、悪かったな」
 二人で自転車置き場に歩いていこうとすると、背後で足音が聞こえる。
 振り返ると、柳蓮二がいた。
「どうした?」
 俺は足を止めて、蓮二に問う。
「すまない、弦一郎。ああ、さん、悪いね、ちょっと弦一郎と話して良いか?」
 蓮二が穏やかにに言うと、彼女も笑顔で蓮二を見た。
「うん、もちろん。別に急いでないから」
 蓮二もも、一見まったく接点のないような二人だが、時折話しているのを見ると思いのほか気が合うようで、俺としてはそれが何とも嬉しいのだった。
 蓮二の話は、試合のオーダーと、あと幸村の治療の予定の件。
 今日のミーティングで話しきれなかった事だ。
 やはり、再度三年で話し合ってからまたミーティングにかけようという事になった。
「じゃあ、また明日な、弦一郎」
 蓮二は俺たちに手を振って、ちらと腕時計を見た。
「そうか、今日は弦一郎の誕生日だな。何か二人で祝い事でもするのか? 呼び止めて悪かったな」
 ふふと目を細めたいつもの笑顔で言うと、俺たちに背を向けた。
 俺は思わずを振り返ると、彼女は驚いたような複雑な顔をして俺を見ている。
 さすがの俺にも、彼女の表情が何を物語っているのかは分かった。
 
 ナンデ、オシエテクレナカッタノ

 彼女の顔には明らかにそう書いてあった。
 俺は若干気まずいまま、黙って自転車置き場に向かった。
 も静かに後をついてきて、俺が自転車を出してくると、いつものように後ろに乗って、俺の体に手を回してきた。
 俺は自転車を漕ぎ始める。
 いつもより、ペースが遅い。



 学校から帰る道のりの、一番きつい坂のてっぺんでいつものように俺は自転車を止めた。
 俺は自動販売機でスポーツドリンクを買い、もそこで缶コーヒーを買う。
 そしてそこからの景色を二人で眺める。
 つきあうようになってからの、俺たちの日課だった。
「……真田くんの誕生日、今日だったんだ。知らなかった」
 が口を開いた。
「……ああ、言ってなかったな」
「……教えてくれればよかったのに。柳くんが言わなかったら、私、知らないままに今日、終わってた?」
 は、責めるようにというより、少し寂しそうに言うのだった。
「いや、その……深い意味はないんだが……いい歳をして照れくさいだろう? わざわざ自分で、その……自分の誕生日など言うのは」
 俺はうつむき加減で言う。
「……そっか、もっと早く私が聞いとけばよかったね。私、雑誌の占いコーナー見る方じゃないから、真田くん何座? とかあんまり気にしなかったからなぁ。ごめんね」
「いや、が謝る事では……」
 俺たちはやけにしんみりしてしまって、妙な感じだった。
「あ、はいつなんだ? 誕生日」
「11月。私は、ちょっと前になったら、もうすぐ誕生日〜って騒ぐから大丈夫よ」
 はクスクスと笑う。
 俺はその様子が頭に浮かぶようで、思わずつられて笑った。
 すると、が鞄から愛用のカメラを取り出す。
 俺が身構える間もなく、パシャパシャと何度か俺に向かってシャッターを切った。
「……何だ?」
「15歳になった真田くん」
 はそういうと、カメラを下ろして嬉しそうに笑った。


 坂を下りると、俺たちはまっすぐ家に向かわず、町の商店をまわる事になった。
 が突然に花火をする、と言い出したのだ。
 しかし、この時期コンビニエンスストアではまだ花火は置いておらず、あちこちの店を探しまわる事になった。
 普段ならば、季節外れのたわけた事を言うなと一蹴していたかもしれないが、今日はどうしてかの願いを聞いてやりたかった。
 玩具の量販店やなんかをいくつかまわり、俺たちは古い玩具屋でようやく花火を見つける事ができた。
 そこは一年中花火を扱っているそうで、パック入りのものではなく、好きなものを好きなだけ選んで買えるシステムになっており、は目を輝かせて花火を選んでいた。
 俺は、彼女が壮大な打ち上げやらロケット花火なんかを買うのではないかと若干はらはらしていたが、意外にオーソドックスなこまごまとしたものを選んで、店主に袋に詰めてもらっていた。



「花火が禁止されておらず、かつ水場のあるところでないとな」
 今度は花火のできる場所を探して、俺は自転車を漕ぐ。
 自転車のかごでは、が買った花火がガサガサと音を立てていた。
「里川公園はどう? あそこはそんなにうるさくなかったと思う。前に友達と花火やった事あるよ」
「行って見るか」
 俺はの言う公園に向かった。

「……バーベキュー、テント禁止。花火は……うむ、禁止とは書いてないな」
 俺は公園の注意書きをとくと読み、うむと何度かうなずいた。
「だから、大丈夫だって言ってるじゃない。まったく真田くんは真面目だからなー」
「利用に当たっては、きちんと注意書きを読まねばならん」
 俺が言うと、はクスクスと笑いながら花火の袋を自転車から取り出す。
 走り回っている間にちょうど日没の時間を迎え、花火をやるにはおあつらえ向きの暗さになっていた。そして公園には花火を迷惑がるような人影もほとんどない。
 水場のすぐ横にベンチがあって、俺たちはそこに腰掛けて、花火の袋を開いた。
 買ってきたろうそくを立てて、点火器で火をつける。
 はさっそく手に持った花火に火をつけ、パシパシとはじけさせた。
 それはちょうど、彼岸花のような形の昔ながらの懐かしい花火で。
「……はもっと、大きな打ち上げ花火なんかを買うと思った」
 俺も言いながら花火を手に持ち、火をつける。
「ああ、やっぱりそう思うの?」
 はクスクスと笑う。
「私ね、結構怖がりだから、ああいう打ち上げ花火とかロケット花火みたいなのは火をつけられないの。いつも友達にもからかわれる。こういう、静かな花火じゃないとダメ」
 はその花火がたいそう気に入りのようで、一本終わると今度は両手に持って一度に二本、火をつけた。
 その静かな花火を嬉しそうに見つめるは、いつもよりも幼く可愛らしく見え、俺は暗闇にまぎれてじっと横顔を見ていた。
「……『ゴルゴ13』はだいぶ読めたのか?」
「ううん、まだまだ先は長いわ。でも、面白い。ねえ、デューク東郷の出生の秘密って、三通りくらいのバージョンがあるって知ってた? 私はまだそこまで読んでないんだけど、祥子ちゃんが言ってた」
「ほう、それは、知らんな」
 夢中な顔でデューク東郷の話をするを見ながら、俺はついおかしくなってしまう。
 はいつも友達と夢中になってる事について丁寧に俺に話してくれるのだが、それは本当に一生懸命で、俺はたとえそれが俺にとって興味のないような事でも楽しく聞かせてもらう。からそんな話を聞くのが、俺は好きだった。
「なんかね、実はロシア貴族の末裔でっていうバージョンがあるんだって。すごいよねー。楽しみ!」
 はどんどん花火に火をつけながら、楽しそうに言う。
 そして、ふと顔を上げて俺の顔をじっと見た。
「……何だ?」
「……ううん、真田くん、15歳なんだなあって」
「そりゃあ、も誕生日が来たら15歳だろう」
「そうだけど……15歳って、なんだかオトナって感じね。来年は16歳かあ……」
 やけにしみじみと言う。
 15歳、そして16歳か。
 俺は実は、が去年の今頃より、ずっと大人っぽくきれいになっている事に気づいていた。
 15歳になったはもっときれいになっているだろうし、そして来年、16歳になったらどんな風になっているだろう。
「16歳になったら……」
 が静かに続けた。
「また、真田くんの写真を撮っていい? 今日は15歳の写真を撮ったけど、来年は16歳の真田くんを撮りたいの」
 そののさらりと言った一言は、俺にとってまるで魔法のようだった。
 16歳の、きっととてもきれいになったはもしかしたら俺の手の届かないところにいるのかもしれない。不意にそんな事を考えていた俺に、来年も傍にいると、彼女はそう言ったのだ。
 俺はすっかり火の消えた花火を手に持ったまま、じっとを見て、言葉を探した。 
 けれど上手い言葉はみつからずに、ああもちろん、とそれだけを言う。
 それでもは満足そうに笑って、俺を見た。
「……あ、真田くん、誕生日だから家の人が待ってるよね。遅くならないうちに帰らないと」
 は腕時計を見て立ち上がった。
「ねえ、こっちに来て!」
 そして、残った花火を掴むと、もう片方の手で俺の手を握って引っ張った。
 俺を立たせると、彼女は周りの地面にぐるりと花火を突き刺すのだった。
「ちょうど15本残ってるの。バースデーケーキのろうそくみたいでいいでしょう?」
 は嬉しそうにざくざくと花火を立てていった。
 俺は照れくさくて、腕組みをしたまま立ち尽くす。
「じゃあ、火をつけていくね」
 はそう言って、ハッピーバースデー・トゥーユーなんて歌いだすものだから、俺はこっぱずかしくて、ついついそれを咎める。
「おい、恥ずかしいからハッピーバースデーはやめてくれ」
「ええ? 真田くん、誕生日おめでとうって言われるの恥ずかしいの?」
 は点火器を手に持ったまま驚いたような顔で俺を見上げる。
「いや、その、そんなでかい声で歌ってくれるな」
「誰も聞いてないじゃない。もう、面倒くさい人だなあ」
 はおかしそうに笑った。
「じゃあ、小さい声だったらいいの?」
 そう言うと、俺の肩につかまって耳元に口を寄せた。
 そして、俺の左耳のすぐそばで、誕生日おめでとう、と甘い声でささやく。
 甘い声と吐息がやけにくすぐったくて思わず身体を堅くしていると、ほんのかすかに彼女の唇が俺の耳に触れる。その、すべやかで柔らかい感触に俺はすっかり驚いてしまい、ついつい飛びのいてしまった。
 耳を押さえてあわてて体を離した俺を、も驚いて見ている。
「どうしたの?」
 唇が触れた事には気づいていないのだろう。
 俺は、自分自身の大げさな反応が恥ずかしいが、仕方がない。
本当にびっくりしたのだから。
「いや、なんでもない……」
 片手で顔を覆ってそっぽを向く俺に構わず、は俺たちの周りにぐるりと立てた花火に火をつけ始めた。
「ねえ、真田くん。誕生日が今日なんだって知らなかったから、私、何も用意できなかったけど、何かちょっとしたものとか、欲しいものない?」
「……いや、特にない」
 俺は本当の事を、そのままに言った。
「ハーゲンダッツおごれとか、そんなんでもいいじゃない。せっかくだから何か言ってよ。そうだ、ほら、この花火の火が全部消えたら言うのよ。耳元でこっそり言ってくれても構わないから」
 は15本の花火に次々と火をつけた。
 それは小さな噴水のように、俺たちの周りを飾った。
 14歳のと15歳の俺を、照らしてゆく。
 の唇が触れた俺の左耳は、まるで花火で炙られているのではないかと思うくらいに、まだ熱い。
 パチパチとはじける花火の火で照らされたはとてもきれいで、そのふっくらとした唇には嬉しそうな微笑が浮かんだまま。
 俺は、の花火を見つめる目と、その柔らかそうな唇を交互に眺めていた。
 左耳はどんどん熱くなる。
 あのかすかな感触を、もう一度確認したかった。
「……ほら、もう半分くらい消えちゃった。どう? 何か思い浮かんだ?」
 は顔を上げて俺に聞いてくる。
「……いや、ああ、まあ……。あの……しかし、俺が何を言っても、が希望に沿えぬと言うのなら、それで構わないから」
 俺の言葉に、はまたおかしそうに笑った。
「希望に沿えぬって、どんなたいそうな事を言うの? PS3が欲しいとかだったら、そりゃ無理だけど」
「いや、そんなものなど……」
 そんな事を言っていると、11本目の花火が消えた。
 俺の胸からはドンドンという音がする。
 まるで、そこで盛大に花火が打ち上げられているように。
 12本、13本、14本……そして15本目の花火が消えた。
 周りがふっと暗くなる。
 胸の中で打ち上げ花火を鳴らしたまま、俺はの耳元に口をよせ、手短に一言ささやいた。
 うつむき加減のの顔が、ろうそくの灯りのせいなのか、かすかに赤く染まって見えた。
 俺がに何を言ったのか?
 それは、俺と彼女の、秘密だ。

(了)        →オマケ

2007.5.21

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