あきらめるなだとか、チャンスを逃すなだとか。
まるで朝礼で校長先生が言いそうなクサい言葉も、跡部さんが言うとちょっとは真面目に聞こうって気になるかも、なんて私が思っていると、彼はソファに転がっている私の鞄を手にして私に放ってよこした。
「今ある手持ちの物を見せてみろ」
「は?」
私が思わず聞き返すと、跡部さんはぐずぐずするなと言わんばかりに鞄のストラップをくいっと引っ張った。
「俺はもともとあれこれ持ち歩く方じゃねぇし、使えそうなモンは思いあたらねぇ。お前の鞄の中身を見せろって言ってんだ」
イライラしたような彼の言に、私はあわてて鞄の中身をソファにぶちまけた。
「……ろくなモン持ってねぇな。地図帳に辞書、歴史年表に……」
私の鞄の中身を吟味する跡部さんに、私はつい反論してしまう。
「だって、通学バッグなんだから、そんなもんでしょう? 仕方がないじゃないですか!」
発煙筒だとか手裏剣だとかが入ってるとでも思ってるわけ!?
さすがに、少々憤慨してしまう。
「ああ、これは化粧ポーチか?」
私の水色のポーチに触れる。
「ちょ、そんなものまで見ないでくださいよ!」
「じゃあ、お前が中身を見せろ」
風紀委員か!
ドアラの件の負い目もあるので、私は渋々ポーチの中身を開けてみせた。
まあ化粧ポーチといっても、ティッシュと油取り紙、グロスにミラーにブラシくらいしか入ってないんだけど。
「なんだ、眉をカットするハサミだとかビューラーとか金属のものはないのか」
「あー……すいません、そこまできっちり女の子らしくないもので……」
舌打ちをする跡部さんに、私は少々情けない気分で答えた。
「さすが跡部さん、女子の持ち物にも詳しいですね」
私なりに精一杯の嫌みを返していると、跡部さんは私の手帳を手にした。
「ちょっと、勝手に見ないでください!」
などと抵抗を見せても、はっきり言って彼氏とのプリクラだとかそういったもののひとつもない、あっさりした手帳なんだけど。
跡部さんは私の手帳の表紙を開くと、ぴくりと眉を動かした。
ううん? なにかまずいものでもあったのだろうか?
私が少々あせって手帳を取り返そうとすると、彼は手帳のカバーのポケットから何かを取り出した。
「よし、これを借りる」
彼が手にしたのは、なんのことはない、私がいつも手帳にはさんでるカード型の電卓だった。
「はあ?」
それだけを取り出すと、手帳をポンと私に放ってよこした。
「あとはしまっておけ」
私はあわてて鞄の中身を片付ける。
「それ、ただの電卓ですけど」
「わかっている」
彼は何やら考え込むような顔をして、その薄っぺらい電卓をくるくると指でもてあそんでいた。
ここから脱出する算段を、電卓で計算してくれようとでもいうのだろうか。
なんてね。
私が鞄の中身を整理してファスナーを閉めていると、すでに聞き慣れた、扉の鍵が作動する音がした。今度は何なの!?
うんざりして扉の方に視線をやると、今度現れたのは先ほどのコヨーテではなく、ラッキーの方だった。
「おいガキ、ちょっと来い」
部屋の中に入ってくることもせず、廊下から言う彼の視線は明らかに私の方を向いていた。
跡部さんじゃなくて。
「お前だ、ションベンくせぇガキ」
「は? 私?」
つい聞き返してしまう。
私、さっきからなんだかこんなバカみたいなリアクションばかり。
「そうだ。さっさと来い」
「え? なんで?」
これまたバカみたいに聞き返すと、ラッキーはにやりと笑った。
「さっきコヨーテの奴と一緒に何人かの客が下見に来ただろう? そのうちの一人がお前ぇを気に入ったらしく、別室であらためてじっくり下見をしたいんだとよ。よかったじゃねぇか。景吾様のオマケじゃなくて、ピンの商品に昇格かもしんねぇぜ?」
私の脳裏には、さきほどのボタンダウンの男が思い浮かぶ。
私がぽかんと口をあけたまま動かずにつったっていると、ラッキーはしょうがないというようにわざとらしくため息をついて部屋に足を踏み入れ、私の腕をつかんだ。
「お前の意思は関係ねぇ。さっさと来い。ショーまで時間がない」
跡部さんと離ればなれになる?
そして、いったいあの男に何をされるというの?
私は不安と恐怖のあまり、抵抗の声すら上げることもできず、ラッキーに腕を引っ張られたまま跡部さんの方を振り返るだけ。
助けて。
そんな一言すら出なくて。
振り返った私の視線の先の彼は、あいかわらず落ち着いた顔で、右手にあの電卓をつまんでいた。
よく考えたら、私が一緒にいようがいまいが跡部さんには何の関係もないんだ。
むしろ、私がいない方が逃げ出しやすいかもしれない。
そんな思いが頭をよぎり、私は自分の体が少しずつ震えているのに気づいた。
ラッキーに腕をつかまれて部屋を引っ張り出されようとしていると、パチン、と音がした。
私の先を歩くラッキーの足が止まる。
今度は私だけじゃなくてラッキーも振り返った。
そして、もう一度パチンという音。
ああ、これ、聞いたことがある。
跡部さんが手を高くかかげて指を鳴らす音だ。
「待てよ」
静かな声が部屋に響いた。
それだけの言葉なのに、とても迫力があって、だけどきっと力を持った大人にとっては何の強制力もない一言だろうに、どうしてだかラッキーも足を止めたまま、跡部さんの次の言葉を待っていた。
彼のような大人にもそうさせてしまうような、そんな不思議な力が、跡部さんの声にはある。
跡部さんは指につまんだ私のカード電卓を、ひらひらと振ってみせた。
「そいつから手を放せ」
これまた、ラッキーにとって何の強制力もないはずの言葉なのに、ラッキーは何かを感じ取ったのか、いつもはふざけたような顔をキッ厳しく引き締めて跡部さんを睨んだ。
「……そいつぁ何だ?」
彼の視線の先には跡部さんの指先のカード電卓。
「こいつは切り札で、ぎりぎりまで使う気はなかった。が、その女をはなさねぇと、今使うことになるぜ」
華麗に口元に笑みをたたえた跡部さんは、怖いくらいにきれいだ。
ラッキーの眉間にはぎゅっとしわがきざまれる。
「おい、そのカードから手を放せ。一体なんだ、それは」
「なあチンピラ、ラッキーとか言ったな。俺たちを移送してきた時、俺たちの持ち物とあの車のチェックはお前が任されてたんだろ? 俺の携帯を見つけて得意になってたな」
「俺の言ってることが聞こえねぇのか!」
私の腕から手を放して跡部さんのカードに手を伸ばそうとする彼を、跡部さんはひらりとなんなくかわした。
「あのベントレーの後部座席には小型の爆弾が仕掛けてある。これは遠隔操作のコントローラーだ。あの車が今どこにあるかは知らねぇが、爆発となったらさすがに警察が来るかもしんねぇな。ま、それくらいでお前らの組織がどうなるってことはないだろうが、今夜のオークションはまちがいなくオジャンだろ? 車のチェックを怠ったお前の責任でな、ラッキー。あーん?」
にやにやと笑いながら言う跡部さんを睨みつけるラッキーの表情からは、すっかりふざけた雰囲気は吹き飛んでいた。
「クソガキ! そんなハッタリで俺がだまされると思ってやがるのか!」
彼の声からは明らかに怯えた感が伺える。
「フン、じゃあ試してみるか?」
跡部さんはカード電卓の表面に親指をのせた。
「……クッ、待て!」
「言っておくが、俺からカードを奪っても無駄だぜ。ある一定の時刻が来れば爆発するように、本体にもタイマーがセットしてあるからな」
ラッキーは私のことなどすっかり忘れたように、跡部さんの前で手のひらを振ってみせた。
そしてチッと舌打ちをして、腰のホルダーから無線機のマイクを取り出して口もとに寄せた。
「おい、ラッキーだ。コヨーテはどうしている?」
彼の右耳にとりつけてあるイヤホンからは何やら返答があった様子だ。
「……そうか、第二応接室か。今入ったとこなんだな? わかった」
いまいましそうにマイクをホルダーに戻すと、キッと跡部さんを睨み、再度私の腕をつかんだ。
「爆弾はどこに仕掛けた?」
「さあな。ボンクラにゃわからねー場所さ」
跡部さんはカードをもてあそびながら、クックッと笑う。
「……わかった。こうしよう。今からすぐに俺と一緒に車まで行き、お前は爆弾を解除しろ。それまで女は俺があずかる。いいか、女と爆弾と交換だ」
ラッキーはジャケットの内ポケットから出した銃を私に向けた。
「いいだろう。お前も大変だな。ヘマを上司に知られねぇように片付けなきゃなんねぇ。あのコヨーテって奴ぁ、お前のヘマを知ったら鬼の首を取ったようにさぞネチネチ言うんだろうよ」
跡部さんがくっくっと笑いながら言う。
「うるせぇ!」
ラッキーは激昂したように吐き捨て廊下をちらりと確認し、私たちを部屋から連れ出した。
私の脇腹には銃口らしき固いものがあてられたままで、なんだか上手く歩けない。
跡部さんは一体どうしようというのだろう。
ラッキーはイライラしてるし、私はハラハラ。
跡部さんだけが、私のカード電卓をもてあそんだまま、余裕の表情で歩いていた。
いつも昼休みに、樺地くんと氷帝学園の廊下を歩いているみたいな、優雅な物腰で。
廊下には、スーツを着た男が忙しげに行き来していて、誰も私たちを気にする様子はない。
跡部さんが言っていたとおり、今は来客が多くて大忙しなのだろう。
私たちが向かうのは、地下駐車場ではない様子。だって、来た道と違うもの。しばらく廊下を歩いたあと階段を昇らされて、そして上がった階段の横の扉を通された(まあ多分正面玄関ではないだろうけど、十分に立派な出入り口)。
夏の夜の空気に、植物の匂い。
きっと、いろんな木や花が植えられているんだろうということが伺い知れた。
そこは正面玄関から続くエントランスの端のようで、うっすら明かりに照らされたオフホワイトのベントレーが目の前に停まっていた。
ラッキーは正面玄関の方をちらりと確認するとポケットからキーを取り出して、ベントレーのロックを解除する。
「跡部景吾、いいか、1分以内に解除しろ。妙なマネをしてみろ、このガキは変態の巣窟に放り込んでやる」
なに、その巣窟って!
私がぞっとして身を震わせるにもかまわず、跡部さんはベントレーの後部座席の扉を開けて、上半身を車内にもぐりこませる。
「エンジンをかけて通電してくれ。電気系統が動かないと外せねぇ」
彼が振り返りもせずに言うと、ラッキーはいまいましそうに私をひっぱったまま運転席に向かい、キーボックスにキーをさしこんでくるりとひねった。
静かだけれど野太いエンジンの音。
そして跡部さんはしばらくごそごそしていたかと思うと、ふいに動きを止めた。
「おい、何をしている! 早くしろ!」
ラッキーはイライラしたように周りを気にしながら、小声で跡部さんをせかした。
彼の声に、跡部さんがゆっくり振り返る。
「悪いな、肝心の仕掛けはボディガードのそいつがやったんでね、そいつじゃないとわからねえ。そいつにやらせろ」
そう言って肩をすくめてみせる。
チッという舌打ちが闇夜に響いて、私は背中をドン! と乱暴に押された。
「跡部さん、私……」
一体どうしろって言うんだろう。
途方にくれて跡部さんを見上げると、彼はきゅっと眉間にしわをよせて真剣な顔になり、次の瞬間には私の手をつかむと車の中にひっぱりこんだ。
そして後ろ手に車の扉を閉める。あわてたラッキーが車の扉に手をかけるのと、跡部さんが扉をロックするのは同時だった。
私は声を上げる間もない。
跡部さんは後部座席から素早く運転席に滑り込んだと思うと、ハンドルを握りあっという間に車を発進させていた。
「ええええ〜〜! 跡部さん、車!? 運転できるんですか!?」
私は驚いてようやく声を上げる。
「バーカ、ATミッションなんざ玩具みてーなもんだろ。いいからどこかにつかまっとくか、ベルトをしめるかしてろ!」
急カーブを切られて後部座席で横Gに翻弄された私は、おとなしく彼の言に従ってなんとかシートベルトを締めた。
薄明かりの庭園のエントランスを出て、車は門の方へ向かう。跡部さんの運転は上手いんだかあぶなっかしいのだか、さっぱりわからない。だって、あらゆる障害物をさけながら猛スピードで走っていて、おそらく普段の私ならギャーギャー大騒ぎするような絶叫マシンっぷりだ。
こんなの、勿論恐いのは恐いけど。
もしかしたら、このまま逃げられる!?
私の頭の中はやっと明るくなった。
それにしても、この謎の屋敷内、べらぼうに庭が広いみたい。
振り返ると、私たちの車を追っているのだろう、バイクや車のヘッドライトが見えた。
「跡部さんっ、あの、めっちゃくちゃおっかけてきてる……」
私がびっくりして思わずつぶやくと、彼は前を向いて車を走らせたまま、フンと鼻を鳴らした。
「ああ、わかってる」
ブレまくるミラー越しに跡部さんと目が合った。
「いいか、。この場では、俺たちは逃げ切れない。この屋敷の庭すらも出ることはできず、俺たちは屋敷に連れ戻されるだろう」
そして、ハンドルを切りながら落ち着いた声で言うのだ。
「えっ!?」
これで家に帰れるんだと思い込んでいた私は、驚いて声を上げてしまう。
私たちの車を、数台のバイクが追い越した。
そして、バイクが何台も私たちの前に止められるのと数十メートル先の門が重々しく閉じられるのはほぼ同時。
跡部さんは急ブレーキをかけて、私を襲うのは強烈な横G。車はドリフトをするかのような形で停まった。
門まであとほんの数メートル。
ロックのかかったシートベルトで胸とお腹が締め付けられるように痛い。
「けれど、。あきらめるな。堂々としていろ」
カチャリとシートベルトをはずしながら言った跡部さんは、後部座席の私を振り返って笑う。
周りを取り囲むバイクや車のライトに照らされて、私の手は震えが止まらずなかなかシートベルトを外すことができなかった。
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2008.8.31