● ファンタム・ファンタスティコ(7)  ●

「くそっ!」
 跡部さんは憎々しげに吐き捨てると、空のペットボトルを壁に向かって投げつけた。
 その猛り方が、今の状況の絶望具合を表しているようで私はどんどん心細くなる。
 どうしたらいいの。
 私は何もできないよ。
!」
 そして大声で私の名を呼ぶものだから、ついびくりとしてしまう。
「はいっ」
「発信器を出せ」
「はっ?」
 思わず聞き返してしまったものの、私の頭にはすぐにあのドアラが思い浮かんだ。
「言った通り、あのキーホルダーには超小型のGPS発信器が内蔵されている。ほんの一瞬でも建物の外に出ればGPSで現在位置を補足し、そしてその座標を電波で発信してうちの警備システムがキャッチする。いいか、次にあのラッキーって奴が来た時、俺があいつの気を引いておくからお前があいつの上着のポケットにあのキーホルダーを忍び込ませろ。ここじゃおそらく電波は飛ばねえが、あの男がほんの少しでも外に出ればなんとかなるだろう」
 そうか! さすが跡部さん、あの電話がダメだったらすぐに次の手を考えるんだ。
 私はあわててソファの隅においやられたバッグを引き寄せた。
 その取手につけたはずのドアラのキーホルダーをさぐると……あれ?
 確かに、バッグの取手につけたのに。
 上に下にとバッグをひっくりかえすけど、あの暢気な顔のマスコットキャラは見当たらない。
 取手に、キーホルダーのチェーンの部分だけがぶらさがってるだけだった。
「……あの、跡部さん」
「なんだ?」
 彼はいらだったように私を見る。
「あの、大変申し上げにくいんですけど、どうやらどっかで落っことしたみたいなんです……ドアラ……」
 蚊のなくような声でおそるおそる言う私を、跡部さんは容赦なく睨みつけた。
「なんだと!?」
「鞄のここにつけといたんですけど……」
 鞄を差し出して、情けなくチェーンだけになったそれを跡部さんに見せた。
 跡部さんは鞄をひったくてそのチェーンをにらむ。
 その恐ろしい視線を私に向けると、鞄を乱暴にソファに放った。
「一体どこで落とした! しっかり持ってろと言ったじゃねーか!」
「どこって……言われても、ちょっとわからないです。だって、キーホルダーだし鞄につけてれば確実かなって思ったんですけど……」
 私は両手を握りしめて、びくびくしながら跡部さんを見上げた。
 跡部さんは、左手をクイクイと動かしながら私を睨みつけて、そして大きくため息をついてその左手を額に軽くあてた。
「……まあ、終わったことをとやかく言っても仕方がねぇ。次のチャンスを狙う」
 そう言うと、どかっとソファに腰を下ろしてその両足を行儀悪くテーブルの上にのっけた。
 私は申し訳なさで身が縮こまる思い。
 私ってば何にもできないばかりか、足までひっぱってる。
 今のところ、跡部さんの携帯に、そして私が預かっていたドアラでツーアウト。
「あの時……お前に、あの突き当たりの廊下とそして西門で会って、ちょいとやべぇかもしれねーなとは思った」
 跡部さんはすっかり穏やかな顔になって、そして突然に言う。
 私はぼけーっと立ってるのも何だなあと思い、ソファのすみっこにちょこんと座った。
「見かけによらず鋭い奴かと思ったが、やっぱりどんくせぇな」
 私は何も言うことができず、うつむいてネクタイをいじるばかり。
「お前があそこの廊下でしつこく俺に絡まず、さっさと帰ってりゃ、こんなことに巻き込まれずにすんだんだぜ?」
 それはもうわかってます。
 だけど、しょうがないじゃない!
「……さっき、『終わったことをとやかく言っても仕方がねぇ』って言ったばかりじゃないですか」
 思わず私が言うと、跡部さんがくくっと笑う声がきこえた。
「ああ、確かにそうだな」
 何か怒られるかと思ったら、彼はそう言うだけ。
 私はようやく顔を上げた。
 跡部さんは、時折学校で見かけたことのある、樺地くんと歩いている時のクールな表情に戻っていた。
「……なんで、学校の地下にあんな秘密の警備システムがあるんですか?」
 そもそもそれが諸悪の根源なんだけど。
 そう内心でつぶやきながら、私は日吉くんと階段を数えながら昇り降りしていたことを懐かしく思い出す。
「ああ、あれか。そんなもの、従来の警備システムじゃ不十分だからに決まってるだろ。かといって俺は自宅のボディガードを堂々と学校に連れて行くような趣味はねぇし、正式に予算を組んでどうのこうのやってちゃ、時間がかかるばかりだったんでね。理事長に交渉してこっちで整備させてもらうことにした。そもそもこのご時世、俺が狙われるってのは昔からだが、氷帝学園に通うご子息ご令嬢を狙う輩ってのも多いんだ。PTAが騒ぐとうるせぇからおおっぴらにはしてねーが、俺が入学してあのシステムを作ってから、結構な数のうさんくせー奴を警察につきだしてるんだぜ。お前も気をつけるこった」
 日吉くんが階段の数を数えてるその下には、怪奇スポットどころか最新の警備システムがあって生徒を守ってるとは知らなかった。
 ま、気をつけるこった、なんて言われても結局それがきっかけで私はこんな目にあってるんだけどな。なんて思ったのはさすがに口に出さなかった。
「跡部さんて、そんなにしょっちゅう狙われてるんですか?」
「しょっちゅうってわけじゃねーが、まあ、そこそこにはな」
 彼は何でもないように言う。
 派手で人気者でなんでもできてお金持ちでモテモテの跡部さんも、それなりに苦労してるんだなあ。
 私は複雑な意味合いのため息をついて、隣の麗しい先輩を眺めた。
 さて、私たちにはつかの間、のんびりする時間もないらしい。
 早速ふたたびドアのロックが動く音がする。
 私はびくんとして、浅めに腰掛けていたソファからずり落ちそうになる。
 もしかしたらもうオークションが始まるの?
 おそるおそるドアの方を見ていると、さっきラッキーが入ってきたようにすぐに乱暴にドアが開かれるのではなく、少し時間をおいてゆっくりとノブがまわされる音がした。
 思わず振り返って跡部さんを見るけど(私は相当に不安そうな顔をしていたと思う)、彼は左脚をテーブルにのせて右脚はひょいとその左脚に組んで、右手で頬杖をつくようなだらしない格好だ。けど、まるで計算されたかのように組まれたその長い脚の角度はなんとも美しくて、私はちょっと感心してしまった。
 そんな彼を見ると私もちょっと落ち着いたので、深呼吸をしてドアの方を見つめる。扉を開けて入ってきたのは、コヨーテと呼ばれていたあの眼鏡の男。
 私はつい身を固くした。
 だって、ラッキーもいやな奴だけど、このコヨーテっていう男はやけに怖い。見た目はラッキーの方が乱暴そうだし派手だけど、この男は何を考えてるかわからないだけに、どうにも不気味。
 コヨーテは私たちを見て何も言わないまま、一度振り返って廊下の方へ何かをしゃべった。どうも日本語じゃないみたいで、何を言っているのかわからない。
 彼が何かを言うと、廊下から5人ほどの男達が入ってきた。
 私はぎょっとしてつい跡部さんの方に身を寄せる。
 コヨーテに案内されて入ってきた彼らは、それぞれに肌の色も髪の色も違う男達で、共通しているのはひどく金持ちそうだということだけ。
 どちらかといえばシックななりで、決してわかりやすい金ぴかの格好をしているっていうわけじゃないんだけど、なんていうんだろ。着ているスーツの仕立てや靴や時計の感じ。そういうものに詳しくない私でも、一見してお金をかけた身なりだということのわかる、そういう人たちだった。年齢も20代の青年といっていいような年齢から初老まで幅広く、とにかくお金持ちという共通点以外はなにもみつかりそうもない。
 私はちらりと跡部さんを振り返るけど、彼はまったくさっきのポーズとかわらないまま。
 まるで木の上からゆったりと周囲を見渡している豹みたいだ。
 当然ながら、コヨーテに案内されてきた男達の視線は値踏みをするように、その美しい豹に熱くそそがれる。
 跡部さんは、そんな無遠慮な視線を受けると、軽く眉間にしわをよせて小さく『フン』と鼻を鳴らした。
 なんてことのないいつもの跡部さんの癖みたいなしぐさなのに、その場の空気が少しざわめいたような気がする。
「跡部景吾」
 コヨーテはあの静かな声でゆっくりと跡部さんの名を呼んだ。
「今夜のお客の一部だ。入札前に、きみをよく見ておきたいということでね。まあ想像がつくと思うが、こうして私が案内してくるということは、つまりは上客の方々なんで、失礼のないように」
 彼は皮肉っぽい笑みを浮かべて跡部さんに言う。
 またもや、私のことはほとんど無視。まあ当たり前だけど。
 コヨーテと男達は跡部さんを眺めながら、しばし何か話をしている。
 一部は英語みたいなんだけど、後は何語かわからない。まあ、どっちにしろ英語の部分も何を言ってるのか私にはわかんないんだけど。
 私が少々緊張しながらも自分は関係ないし、なんてうつむいていたら、遠慮なく素通りしていた視線が、跡部さんより手前にいる私にふと止まったのを感じる。ボタンダウンのシャツを着た男が、コヨーテに何やら尋ねていた。言葉はわからなくても、言ってることはなんとなく想像がつく。多分、このガキはなんなんだってことだろうな。
 尋ねられたコヨーテは、ちらりと私を見て、そして彼らに何かを説明した。
 すると、男達は身を屈めて私に顔を近づける。
 びっくりした私は跡部さんの方にあとずさってしまう。
 男達はやけに面白そうに笑う。
 そして、ボタンダウンのシャツの若い金髪の男が、私の方に何やら手を振ってみせて『ジャパニーズ クノイチ!』なんて言うのだった。
 私はぎょっとしてコヨーテを見る。
 あいかわらずの慇懃で皮肉なうすら笑い。
 金髪の男はコヨーテに何やらを口早に伝えた。
 コヨーテはうすら笑いを浮かべたまま、おかしそうに首を振りながら私の方に顔を向ける。
「彼が、何か忍術を見せてくれと言っているが」
 えーっ!?
 私は叫びそうになったけど、あいかわらずポーカーフェイスの跡部さんをちらりと横目で見て深呼吸をした。
「……そういうものは見せ物じゃありませんから」
 私がぼそぼそっと言うと、コヨーテは軽く肩をすくめるだけで金髪の男に何か告げるだけ。彼は『しかたないな』というようなそぶりをして、またちらりと私を見た。まあ、あきらめてくれたようだ、よかった。
 男達はしばらく話をして、そして部屋を出て行った。
「それでは跡部景吾、ステージの時間までしばしお待ちを。良い値がつくことを祈っていたまえ」
 最後にコヨーテが言い捨てて、また扉が閉じられるのだった。
「……ジャパニーズ クノイチって!?」
 扉の閉められた室内で、私が跡部さんの方を振り返って声を上げると彼は脚を組み替えながらくっくっと笑った。
「あのコヨーテって男が言ったのさ。お前は跡部景吾の護衛で、忍者の末裔なんだってね」
「えー!?」
 うすうすそんなところだろうなと思ったけど、まったくとんでもない品質表示の偽りだ。産地偽装どころじゃない。
「向こうもめんどくせぇから、俺と抱き合わせで売りたいんだろ。なんとでも言うさ」
「だけど、そんなメチャクチャな!」
 私は思わず両手で顔をおおってしまう。

「fortuna favet fortibus」

 するとこれまた何語かわからない言葉が、跡部さんの口から発せられた。
「は?」
 私はアホみたいに聞き返すしか術はない。
「ラテン語で、運は強き者の味方をするって意味さ。俺たちはまだまだ勝負に負けちゃいねえ。いいか、。ここに閉じ込められている分には、手も足も出ねえが、オークションが始まってさっきのやつらみたいに人が増えてきたら、そういう時は絶対に警備も忙しくなる。そのチャンスを逃すな」
 静かな声で彼は続けた。
 チャンスを逃すなって、どうやって!
 そんな風に思いながらも、私は跡部さんが200人からいる氷帝のテニス部の部長だったり生徒会長だったり、そんなことに今更ながらひどく納得した。
 だって、今、こんな時。
 試合に負けそうだとか、全学行事がどうだとか、そんなことには比べ物にならないくらいのピンチなのに、跡部さんはまるでちょっと手強いチームを相手に試合でもするみたいなそんな口ぶり。
 それが、世間知らずのおぼっちゃまぶりを示すものなのか、それとも彼の器の大きさを示すものなのか、的確な判断はまだ私にはできない。
 だけども、強くてまっすぐで厳しい跡部さんの目は、『とにかくこの人について行こう』と私に思わせるには十分だった。

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2008.8.17

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