廊下を歩いてきた人影の顔を認識すると、私は、あれっと拍子抜けした気分になった。だって、それは先生じゃなくて、今日、視察に来ていた人だったから。なんだっけ、文部科学省の人っていう。昼間に廊下で校長先生といるのを見かけた、メタルフレームの眼鏡をかけた40くらいの男の人だ。
なーんだ、先生じゃないんだ。校内の見学かな?
隣にいる跡部さんがやけに怖い顔なのが気になりながらも、私は一方でのんきにそんなことを考えていた。
彼は、私と跡部さんの前にゆっくりと近づいてきて足を止めた。
廊下に音を響かせていたその革靴は、ピカピカに磨き上げられている。
香水の匂いはしない。
榊先生とはちょっと違うタイプのおしゃれさんだな、なんて思いながらその細身の仕立てのスーツを着た人を見てた。
オールバックの髪の下の額はいかにも頭のよさそうな感じで、眼鏡の奥の目はきれいで穏やかなんだけど、どうにも表情が読み取れない。
この暑い季節に、きっちりスーツの上着を着てネクタイをしめて、それでも全然暑そうに見えないスマートな人だ。
そして、なんだか、ちょっと怖い人。
私はつい跡部さんの方に一歩近づいた。
「やあ。きみたち、遅くまで残っているんだね。そろそろ、下校時刻なんじゃないのかい?」
彼はしっとりとした声で私たちに声をかける。
「ああ、もう帰るところですよ」
跡部さんは私を守るかのように一歩前に出てひとこと言った。
「そうですか、跡部景吾くん。……けれども……」
彼は優雅に笑って、楽しそうに跡部さんを見た。
『きみたち』と言いつつも、私のことは完璧無視の様子。
ってか、跡部さんてば文部科学省の人にまで名を知られてるんだ。さすがー!
「残念ですが、きみを帰すわけにはいかないのですよ」
よく通る声でそう言いながら、その人は右手をジャケットの中にすっと差し込んだ。
うん? 帰すわけにいかないって、この人何を言ってるんだろう?
優秀なる生徒の跡部さんに聞きたい事でもあるのかな。
そんな私の疑問は中途半端なままで終わった。
だって、彼がそう言って右手をジャケットの内側につっこんだのと同時に、私の隣の跡部さんは、肩にかけていたテニスバッグを思い切り振りかぶって彼の顎めがけて投げつけたのだ。
「うわっ!」
眼鏡が飛んで床に落ちる軽くも鋭い音がする。
私は冷静にそんな音を聞いていたわけじゃない。
その様子にあっけにとられていると、私の腕は跡部さんにつかまれていた。
「ちっ! しようがねえ!」
跡部さんはそうつぶやきながら、例の非常ベルのボタンに触れた。そう、押すんじゃなくて、触れるだけ。すると、その非常ベルのボタンの表面がチカッとかすかに一瞬光ったと思うと、私の目の前は真っ暗になった。
「くそっ!」
頭上ではかすかに、例の文部科学省の人の声がする。
そして私はしたたか打ち付けたお尻をさすっているところ。
「! 早くしろ!」
彼は私の腕をつかんで立ち上がらせる。
何が起こったのか、認識はできているけれど、でもなんでこんなことになったのかさっぱりわからない。
状況を説明するとですね、跡部さんが非常ベルのボタンに触れたら、かすかなウィーンという音がして、なんと階段の下の廊下の一部がすっと開き、その下に降りる階段が現れたのだ。私は跡部さんにそこに引きずり込まれ、強引に引っ張られたものだから、足を踏み外してお尻を打ってしまったという具合。
そして、私たちがそこに入り込んだらすぐにその入り口は閉じて、例の眼鏡の人は上においてけぼりというわけで。
私の持ってる校内見取り図には、こんな場所の記載はないんだけど。
一体なんだって、校内にこんな秘密基地みたいな入り口が……。
「跡部さん、一体これ……」
「うるせー、いいから早くついて来い! お前があんなとこでグズグズしてるから、面倒なことになったんだ!」
跡部さんは舌打ちをして怒鳴った。本当に怒ってるようだ。
だけど、私はそれに恐縮する以前に、この状況がさっぱりわからない。
なに、ここ。
そして、あの文部科学省の人は一体なんなの。
だけど、今の跡部さんにはそんな私の疑問に答えてくれそうな雰囲気はなかった。
跡部さんは私の手を引いて、その階段を降りた先の廊下を走る。
そして、いくつかある扉のひとつの前で足を止めると、その扉は静かに自動で開いた。
中には、スーツの男の人が数人いて、みな私を見て驚いているようだった。
「13ナイトが動いた。俺は西門から出るから、チェックを頼む」
跡部さんはかまわずにそれだけを言った。
中は静かなオフィスのようで、高価そうなPCにこれまた高価そうな大画面のモニターが並んでいた。
警備の部屋? だけど、時々校内で見かける警備のおじさんとはぜんぜん違う、もっとしゃっきりした迫力のある人たちばかりだ。
「了解です、景吾さん。ガードはどうしますか」
「すぐに車をまわさせるから、いらねえよ」
「わかりました。お気をつけて」
短いやりとりだけで、跡部さんはすぐに踵を返して部屋を出た。
私の腕をつかんだまま。
残念ながら、手をつなぐというようなロマンティックな感じじゃなくて、まさに連行されるって感じ。
いや、そんな事言ってる場合じゃないのかもしれないけど。
跡部さんは廊下を走りながらポケットから携帯電話を取り出すと、何やら操作をしてすぐにしまった。
「……あの、これから一体……」
さすがに不安になってきた私が引っ張られながらもそう言うと、跡部さんは鬱陶しそうに振り返る。
「昨日、俺を西門で見ただろう。あそこへ出る。家の車をまわすように手配したから、お前を安全なところまで送る」
なるほど、ここを通ると西門まで直線で近道になるのか。
だから、昨日跡部さんは私より余裕で早く西門に出てたんだ。
っていうか! 『安全なところ』って言った!?
「あの、っていうことは、今、危険なんですか!?」
思わず聞き返した私に、彼からはうるさそうな表情しか返ってこなかった。
まあ、現状から推察すると、あまりいい感じの要素はないことは確か。
謎の文部科学省の人。
謎の地下通路。
謎のスタッフ。
厳しい顔の跡部さん。
私の息が切れてきたころ、廊下に階段が見えてきて跡部さんは私の腕をつかんだままそれを駆け上がった。強引に引っ張られる私は危うく足がもつれそうになる。
壁に設置されている小さなボックスを開くと、またそれに触れた。
かすかに光る。
「……あの非常ベルも、もしかして秘密の鍵?」
「生体認証だ。心配すんな、俺様の指紋じゃねーと開かねーよ。お前がうっかり触ったからって、突然開いた入り口に足を滑らすなんてことはねぇ」
ちょっと嫌みったらしく笑って、自分の指をパチンと鳴らしてみせた。
階段の突き当たりは、跡部さんの指紋照合によりすっと開いたわけだけれど、開いた先はなんと台車やなんかが置いてある倉庫だった。
彼はかまわずにそこをずかずか突き進む。
そして、当然のように倉庫の扉を開けるのだ。
すると、西門の近くの非常階段の下の倉庫から私たちは外に出ることになった。
なるほどね。
こりゃ確かに近道だ。
人気の少ない西門を出ると、そこには例のロールスロイスのファンタムが停まっていた。昨日見たのと同じ、巨大な高級車。幽霊という名前のセダン。
「乗れ」
くい、と顎でそれを指して私に言った。
えええ、跡部さんの家のこの高級車に私が?
それにしても、いくら学校の生徒会長もつとめるような人だからって、あんまり親しくもない男の先輩の家の車に乗るのって、女子中学生の常識およびたしなみを鑑みるにちょっと問題じゃない?
なんて一瞬迷いつつも、やはり跡部さんの家の車に乗るなんて機会、もう絶対にこの先ないだろうなーっていう好奇心とステイタス感の方が勝ってしまうわけで。女子中学生ですからね。
それに多分私がぐずぐずしてたら、跡部さんはいらだって舌打ちのひとつでもするに違いないと思い、私は緊張しながらもその観音開きの重厚なドアから車内に滑り込んだ。
そして、私の女子中学生としての常識およびたしなみには、やはり従っておくべきだったかなあって思い知らされるのはすぐだった。
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2008.7.20