西門でファンタムに遭遇した翌日、私は教室の自分の席で、斜め前の席の日吉くんを何度もちらちらと見ていた。
彼はいつものようにカバーをかけた文庫本を熱心に読んでいる。
きっと図書館から借りてきたオカルトものなんだ。
私は彼に昨日のことを話すか話すまいかをずっと迷っていた。
昨日のことって、つまり、跡部さんがあの階段のところでこつ然と姿を消したかと思えば、突如西門に現れて車に乗り込んでいったということ。
だけど、こうやって改めて言葉にしてしまえばどうっていうことのない話だし、私が感じたことを詳しく説明するとなると、『おたくの部長って、もしかして何か不思議な能力のある人外の魔物か幽霊なんじゃ………』みたいになって、さすがにオカルトマニアの日吉くんでも引くんじゃないかと思い、なかなか切り出せないのだ。
でも、昨日のあの出来事を思い出すと、どうにもこれから一人で自分の分担の建物点検をこなしていくのがおっかなくなってしまう。だからせめて、日吉くんに話して一笑されでもしたら気が楽になるかな、なんて。
そんなことをぐるぐる考えていたら、ついに本から顔を上げた日吉くんと目が合ってしまった。
「……何か用か」
彼は本にしおりを挟んでぶっきらぼうに言ってくる。
「あ、ああー……」
心の準備ができていない私は、つい口ごもってしまった。
「あの、昨日、あんなとこに跡部さんが来て、びっくりしちゃったよね……」
とりあえずそんなことを言ってみた。
そう言うと、彼はちょっと眉をひそめてため息をついた。
「そうだな。いつもなら樺地と連れ立って帰るのに、このところ帰りは一人みたいだ」
そういえば、いつも一緒の樺地くんがいなくて、テニスバッグも自分で持ってたなあ。
「へえ、いろいろ忙しいのかな」
「さあな。けど、関東大会も目前だからか、最近やけにぴりぴりしていることが多いな」
「あ、そうなんだ」
実は昨日さ、と私が見て感じた事を打ち明けようとしたけれど、彼の言った関東大会という言葉が私を思いとどまらせた。
そうだ、テニス部はもうすぐ関東大会なんだ。
そしてその後は全国大会。
日吉くんだって試合があるのかもしれないし、そんな大事な試合を前に不穏なことを言うのはやっぱりよくない。
私は、そうかーがんばってねー、なんて言って自分の机で教科書を広げた。
もちろん、その中身に集中なんかできるわけないんだけど。
その日の学校は、文部科学省の人が視察に来てるとかで、先生たちもちょっと緊張した感じだった。昼休みには、廊下で、校長先生が文部科学省の人らしきを案内している姿も見かけた。ぴしっとして背が高くてメタルフレームの眼鏡をかけた神経質そうな人。確かにえらいんだろうなっていう感じだったな。
でも、そんなことは私には関係ない。
私は建物委員の自分の分担の仕事を夏休み前にすませてしまわなければならないし、そしてそれをこなすにあたって、昨日の跡部さんの出来事がどうにも気になって仕方がないのだ。
苦手だったりこわかったりしたら、反対にそこへ飛び込んで行けっていうのは、岡本太郎の言葉だっけ。
そんなことを思い出して、私は昨日の1階最奥の階段のところに再度足を運んだ。そういえば、作業の途中で日吉くんと階段をのぼったりおりたり始めちゃったから、チェックをきちんとすませてなかったんだ。
校舎の見取り図を握りしめて、私がまずやってみたのは昨日日吉くんとしたように、階段を踊り場まで昇り降りして数を数えること。
今日もやっぱり14段だ。
13段になんてなるはずがない。
わかってるんだけど。
私の中の何かが、どうしてもざわざわとして落ち着かない。
私は階段の一番下の段に腰をおろした。
同じ人間とは思えないような、完璧な美貌と才能を持ち合わせた跡部さん。
そんな彼がこつぜんと姿を消したとしか思えないこの場所。
逢魔時に数が変わると日吉が言う、この階段。
私の頭の中では、ありえない想像ばかりが繰り広げられる。
もしかしてこの場所は、この世とこの世でない場所を結びつけるポイント?
跡部さんは実は人間じゃなくて、その異次元空間にアクセスするためにこの場所に来た?
そんな、バカみたいなSFチックな想像。
私はため息をついて首をぶんぶんとふりながら、うなだれてしまった。
そんな私の視線の先には、タイルばりの廊下しかないわけだけど。
うつむきながら、私はふと床のタイルをじっと見つめた。
ここは普段はほとんど人が通らない。
だから、掃除はされていても結構ほこりっぽい場所なのだ。
けれど、私が腰掛けている階段の一番下の段と床の継ぎ目の部分には、ふしぎとゴミやほこりがいっさいたまっていなくてやけにきれい。
まるでしょっちゅう磨かれてるみたいに。
私はしばし階段と床の継ぎ目のタイルを指でなぞったあと顔を上げ、そしてふと目に入った非常ベルを見つめた。
ちょうど廊下の突き当たりの壁にある非常ベル。
もしも『ジョジョの奇妙な冒険』だったりしたら、おそらくその非常ベルに向かって『ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ』って感じの効果音が激しく描写されるだろう。
そんな感じに私は非常ベルを凝視した。
手元の校内見取り図に目を落とす。
学内のすべての非常ベルと非常口が記載されている資料。
その資料にはこの非常ベルは載っていない。
資料のミス?
それともこれは、あるはずのない謎の非常ベル?
学校の七不思議のひとつだったりする?
私は立ち上がってその非常ベルに近寄った。
顔を近づけて、表面を観察する。
何の変哲もない非常ベルだ。
けれど、建物委員でしばらく校内のチェックをしていた私の中では、何かがおかしいという思いが拭いきれない。
だって、非常ベルなんて実際のところ点検の時に触ってチェックするくらい。
普段、生徒たちだってそんなに触ったりしないし(いたずらしないようにって先生からも指導されてるし)表面が少々ほこりっぽくなったりしているものなのだ。
けれどこの非常ベルはやけにきれいだし、それに表面のカバーのプラスティックの部分、そこには頻繁に人が触れているような指紋の痕があった。
私はおそるおそるそこに指を近づけた。
「!」
背後から私の名を呼ぶ声に、私は文字通り心臓が口から飛び出そうになった。
声の主に心当たりはある。
ゆっくり振り返るとそこに立っているのは、麗しきファンタム……もとい、跡部さんだった。
私ってば、彼の足音にも気づかないくらいに考え込んでいたらしい。
私は手元の資料をぎゅっと握りしめて、今日はやけに厳しい顔をしている彼を見上げた。
「もうすぐ下校時刻だ。早く帰れと、昨日も言っただろう?」
「あ、はい、あの、ここの階段と非常ベルのチェックがまだすんでなかったから……」
かすかに眉間にしわをよせて私を見下ろす跡部さんは、本当にきれいな顔をしていた。
運動部としたら、多分色白なほうだと思う。女の子の私でもうらやましくなるような、きめ細かい肌に整った眉。髪もさらさらだ。
すっと通った鼻筋にきりりとしたまなざしで、彼の癖らしいあの左手をくいっと眉間にあてるしぐさが、またとても凛々しく似合うのだ。
「非常ベルだと?」
彼は相変わらず険しい顔で私に聞き返す。
「はい。災害時マニュアルを作らないといけませんから」
「ああ、そうか。終わったのなら、さっさと帰れ」
跡部さんの言葉は昨日よりも厳しかった。
最近ぴりぴりしてるのだと、日吉くんも言ってたっけ。
多分、日吉くんだったらこの時点でさっと帰ってるだろう。
私もそうすべきなんだって、わかる。
でも私はそうしなかった。
だって、きっと昨日の出来事の繰り返しで、私は不安なままの日々が続く。
跡部さんを見るたびに、そして、この階段を見るたびにそんなわけのわからない不安な気持ちになるのは嫌。
こわいものには飛び込んで行け、だ。
「跡部さんは帰らないんですか?」
私は彼に聞き返した。
「あーん?」
跡部さんは少々いらついたような顔で私をにらむ。
私の心臓はバクバクとはねていて、その音はこの静かな廊下に響き渡っているような気がする。だけど、私は言葉をひっこめなかった。
「よかったら、一緒に帰りませんか。用事があるなら、私、待っていますから」
世が世なら、まるで女の子の告白みたいだ。
昨日の出来事がなければ、私は絶対に跡部さんにこんなことを言ったりしないだろう。跡部さんどころか、他のどんな男の子にだって、なかなかこんなこと言えない。
彼はひどく真剣な顔で私を睨みつけた。
「……あーん? 悪いが俺は忙しいんだ。いいからお前はさっさと帰れ。早く学校を出ろ」
もし私が告白チックな気分で言ったのだとしたら、彼のこの言葉で、崖から突き落とされたような気分になったことだろう。
だけど、私はまだ引き下がらなかった。
「いやです。私は跡部さんと一緒に学校を出たいんです」
どんなに罵倒されてもいいから、彼と一緒にここを去りたい。
昨日、跡部さんはここで姿を消したりなんかしていない。
あれは私の見間違い。
この楽しい氷帝学園に、おそろしい謎のスポットなんかないんだ。
心でそう祈りながら、彼の目をキッと見上げた。
「バーカ、いいかげんにしろ! 何で俺がお前と一緒に帰らなきゃなんねーんだよ。 いいか、一度しか言わねえ。早く帰れ。学校を出ろ」
厳しい言葉で、それでもやけに真剣な目で私をにらみながら言う彼。
私はそれ以上何も言えなくて、だけどここを去った後に振り返ったらまた彼は消えているのだろうことを想像すると、どうしても一人でこの場を去ることができなかった。
私たちがにらみ合っているその時、廊下に足音が響いた。
私も跡部さんもはっと、その足音がする方に目をやる。
逆光でその顔の見えにくい人影は、おそらく見回りの先生か誰かだろう。
私は、ほっとした。
だって、先生に注意されたら跡部さんだって下校時刻で帰らないといけないはずだ。私と一緒にここを立ち去ることになるだろう。
そんなことを考えながら、跡部さんの顔をちらりと見て、私は息をのむ。
左手を眉間のあたりにあてて廊下の先を睨みつける跡部さんの顔は、見た事がないくらいに緊迫していて厳しくて、あまりにもこわかったから。
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2008.7.16