名のある建築家が設計したという、シンプルで堅牢で、それでいて無愛想ではない、美しい我が氷帝学園の校舎はとてつもなく広いけれど、概ねどの場所も採光は完璧で、かつこの暑い夏の日々でもきっちりと空調が調整されて極めて快適だ。
そして、その完璧な入れ物の中身の生徒たちも、家柄よく才たけた子女たちばかり。
私だって、そんなには頭は悪くないし学年の成績もそこそこではあるけど、この学校ではそんな程度じゃまったく意味がない。
例えば、英語のみならず数カ国後が堪能だとか、特定の分野では大学の研究生との共同研究を行ってるだとか、スポーツで全国レベルだとか。それくらいで、やっと『ああ、さすが氷帝だね』って感じ。
普通の中学レベルでそこそこ、じゃ、まったく「フツー」なの。
で、そんな学校で、夏休みを目前にしても特に部活もやってなくて、彼氏もいなくて、委員会でまかされた災害時マニュアルを作成するために学校中の非常口や非常ベルをチェックしてまわってる二年生女子なんて、もうおそらく世界一さえないといってもいいと思うわけ。あ、私のことなんだけどね。
私はため息をつきながら、手元の校内見取り図にチェックを入れていった。
今は二階の理科室にある非常口を確認したところ。
誰もいない理科室を見渡すと、窓が開いているのに気づいた。
閉めておかなきゃと窓際に足を向けると、外から歓声が聞こえてきた。窓から身を乗り出して確認すると、ああ、と納得。
三年の跡部さんがこれから部活に向かうところなんだ。
荷物を持った樺地くんを引き連れた跡部さんの姿は、この学校の名物だ。その姿に、女の子たちが騒いでる声だったというわけ。
ここからじゃ遠目にしか見えないけど、跡部さんは確かに華やかだなあ。たまに廊下やなんかで見かけると、本当にきれいな顔をして背も高くて、まったく別世界の生き物という感じ。それで、家がお金持ちで頭もよくて運動もできてって、普通じゃ考えられないよねー。そんなできすぎた話。
実は未来からタイムマシンで送り込まれた、精巧に作られたアンドロイドなんじゃないかなんて思ってしまう。
なーんてね。
くだらない妄想はおしまい。
夏休み明けにはすぐに防災の日がやってくるし、それまでには委員会で資料を作らないといけないんだ。今日中にこの二階のチェックはすませてしまわなければ。
窓を閉めて鍵をかけて振り返ると、いつのまにかそこにたたずんでいた人影にどきりとする。
「あ、日吉くん、どうしたの」
同じクラスの日吉くんだった。
「写真を撮るんだ」
彼は報道委員で支給されてるカメラをかまえて難しい顔をしていた。
「そっか、ここ、日吉くんのスポットだったんだ。うん、がんばってね」
私が一応のエールをおくると、彼は古い冷蔵庫の方をじっと見つめながら無言でうなずいた。
日吉くんはオカルトマニアだ。
私は建物委員で、校舎の老朽化した部分をチェックしたりすることが多いんだけど、そういう場所ではかなりの確率で日吉くんと遭遇するので、自ずと彼の嗜好を知ることとなったわけ。
そんなオカルトマニアでありながらも、彼はあの跡部さんのテニス部のレギュラー選手だ。私と違って、きらっきらな中学生活を送ってるひとり。
ま、私も私で楽しくすごしてるんだし、ひがんでるわけじゃないんだけどさ。周りにあんまりにも華やかな人が多くて、どうしてもちょっと比べてしまう。
なんだか、私、ほんっとにさえないなーって。
別にいいんだけど!
真剣にカメラをかまえる日吉くんを残して、私は理科室を後にした。
翌日も私は非常口と非常ベルのチェックを続ける。
あー、ほんとさえないなー。
だけど、夏休みに出てきてまでこんなことをやるってのは絶対にさけたいから、がんばるんだ。
この日は、1階の廊下と部屋のチェックだ。1階はいろいろと面倒くさいとこが多いから時間がかかって、ふと気づくと下校時刻がせまっていた。
だけど、どうしても終わらせてしまいたい私は、早足で廊下を歩いて行く。
校舎の最奥はどんどん人気がなくなって、しんとした雰囲気になる。空調のせいか、空気がいやに冷たい。
最奥の廊下は非常階段にもつながっていて、普段はめったに使われないそこは少々ほこりっぽい。
そうそう、ここをきちんとチェックしてマニュアルにのせておかないといけないんだよね。
私が資料に書き込みを入れていると、やけに響く足音が耳に入ってきた。
はっと顔を上げると、思わず『ああ』と声を出してしまう。
日吉くんだ。
部活帰りなのか、テニスバッグを肩にかけた彼は、うつむいたまま真剣な顔でその階段を昇り降りしているのだ。
「どうしたの、日吉くん」
私が言うと、彼はフンと鼻をならして私を見た。
「、お前知らないのか? ここの階段のこと」
「知ってるよ。非常口につながってるんでしょ」
「ばーか。そんなことじゃねえよ。ちょっと来てみろ」
彼に手招きされて、私は素直にそれに従った。
日吉くんは割と無愛想な方ではあるけど、こうやって彼の「スポット」の話をしてくれる時は結構熱心で面白いのだ。
私達は階段の下に立った。
「いいか、数を数えながら上がってみろ」
いち、にぃ、と数えながら私は日吉くんと階段をのぼる。
彼は踊り場のところでくるりと向きをかえて、のぼってきた階段をまたおりる体勢なので、私もそれにならった。
また、いち、にぃ、と数えながら降りた。
「14段ね。別に昇りも下りも数はかわらなかったよ」
よく、昇りと下りで数が違うっていう学校の七不思議ネタは聞くよね。
「ちがう、そうじゃねーよ。この階段は、逢魔時をすぎると数が変わるんだ。俺は以前一度だけ、下校時刻を過ぎた頃にここを数えたら、13段だった」
彼は真剣な目をして、静かな声で言う。
「ええー、数え間違いじゃないの?」
思わず私がフツーにそう言うと、彼はぎゅっと眉間にしわを寄せる。
「ばか。そんなわけあるか。何度も数えたし、間違えるような数じゃないだろ」
ま、確かに日吉くんがそんな間違いはしないか。
それにしても、ないでしょ、そんなわけ。
校舎最奥に位置するこの階段は、ほんとめったに使われることなくて、つまりは普段めったに用事のあるようなとこじゃないから、そんなとこを何度も数を数えながら昇り降りする日吉くんなんて想像するとちょっと笑えてしまう。
「お前ら、なにをしてやがる」
突然のその声に私は驚いてびくりと飛び上がりそうになった。
声のする方を見ると、そこにはなんと跡部さんが立っていた。
「日吉、もう下校時刻だろうが、あーん?」
「すいません、もう帰るところですから」
日吉くんはさして反省の色もない謝罪をさらりと述べるけど、跡部さんは慣れたものなのか、彼のそんな口調を気にする様子もない。そして、それだけを言うと日吉くんはさっさとその場を去って行った。階段の謎をつきとめるよりも、跡部さんと揉めたくないんだろうな。
「お前は、何やってんだ。二年か? 名前は?」
次は私を一瞥して言う。
私は、初めて跡部さんとこんな近くで向かい合うので、だいぶ緊張していた。
テニス部で外を走り回ってるだろうに、びっくりするくらいきれな肌、明るい色の髪、整った顔立ち。ほんと、同じ人間だとは思えないな、なんて思いながら。
「あ、はい、日吉くんと同じクラスの二年です。といいます。建物委員なので、災害時マニュアルのためのチェックで廻ってました」
私がちらりと手元の資料を見せると、彼はすぐに察したようで軽くうなずく。
「そうか、それはご苦労。しかし下校時刻を過ぎるのは感心しねーな。早く帰れ」
彼は左手をくいっと眉間のあたりにそえるとそう言った。
別に怒ってるとかそんなんじゃないんだけど、なんとも迫力がある。
「は、はい、わかりました!」
私はぺこりと頭を下げると、その場を急ぎ足で去った。
確かに遅くなりすぎちゃったかも。早く帰ろ。
廊下を歩いてすぐに私はふとした疑問が頭をよぎった。
跡部さんはあんなところに何しに来たんだろ。
見回り?
でも、なんでそんなこと?
私は思わず振り返って、彼の姿を確認しようとすると、そこにはもう跡部さんの姿はなかった。
振り返って、私はそのままちょっとの間動けない。
だって、この人気のない静かな廊下には私の足音しか響いてなかった。
もし跡部さんがあの階段を昇って上の階に行ったとしたら、さっきの日吉くんの足音みたいに結構響くはず。
そして、あのつきあたりの場所には、階段を上がるか私みたいに廊下を戻るかしか行き先はない。
跡部さんは一体どこに行った?
私は、引き返して確認したい衝動に駆られ、そして同時に日吉くんの言っていた話を思い出す。
逢魔時に13段になる階段。
急に周りの空気の温度が下がったような気がした。
もしも日吉くんが一緒だったら、引き返して階段の数を数えたかもしれない。
でも、今、一人きりの私にはどうにもそれを実行する気になれず、あわてて脱履所に向かって廊下を走り出した。
別に何から逃げるというわけじゃないのに、校門のあたりまで行くと私はほっと胸をなでおろした。蒸し暑い外の空気に体を包まれて、妙に安心してしまう。
跡部さんはきっとすっごく静かに足音に気をつけて階段を昇ったんだ。
三年の人には、二年の私には想像もつかない用事があるんだよ、きっと。
ひきかえして階段の数を数えるなんて、バカみたいなことをしなくてよかった。
そんなことを思いながら脱履所から一番近い西門を出ようとすると、私は息を飲んでしまった。
そこには巨大な高級車が止まっていて、いや、それ自体は珍しくないんだけど、その観音開きの扉から中に乗り込む人物は跡部さんだったのだ。
私の心臓は突然に大きく弾みだす。
ねっとりと暑い空気に覆われているというのに、背筋が凍るような感覚におそわれる。
だって。
さっきのあの階段の場所からここまで、私通ってきたルートが最短のはず。私がここに来るまで、跡部さんには会わなかったし追い越されてない。
跡部さんは他の出入り口から出て、ここまで走ってきたってこと?
だけど、呼吸ひとつ乱れていない彼の様子からは、ちょっとそういうことは考えにくい。
逢魔時、なんていう日吉くんの言葉がよみがえる。
夕暮れの、人間以外の者に出会ってしまう時間、ってことだよね、確か。
私は、意味もないだろうに思わず校門の柱に隠れた。
だけれども。
観音開きの重厚なドアが閉められる瞬間、私は跡部さんと目が合ったような気がした。
彼の左手が、すっと眉間に添えられたから。
けれども、彼を乗せた巨大な高級車は静かにその場を走り去った。
妙に安堵してその後ろ姿を見つめていると、営業途中か何かのような二人連れのサラリーマンが感嘆の声をもらすのが聞こえた。
「すげー、さすがお金持ち学校。ロールスロイスで送迎かよ」
「おおー。ロールスのファンタムだな、あれ。タイヤでけー」
ファンタム、という単語が私の耳に残った。
Phantom
たしか、幽霊とか幻って意味だっけ?
私の体に汗をにじませるものは、暑さ以外のものに変わっていた。
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2008.7.13