● 恋の平和条約(3)  ●

、大変だったんだって?」
 朝、少し遅れてやってきた久美が心配そうに私たちのところへやってきた。
「そんなねえ、大変って程でもないのよ。でもに言わせると、潜入先の敵国のスパイに捕まって銃を突きつけられて尋問された如き、大惨事だったらしいわ」
 早紀がさらりと笑いながら言った。
 洗面所に行って少し落ち着いた私は、貴美子が買ってきてくれたグレープフルーツジュースをごくごくと飲む。以前、早紀が持って来ていたファッション雑誌のコラムに、ストレスでビタミンは消費されると書いてあったような気がしたから。おそらく私の体内のビタミンは激減したと思われる。
「で、何て言われたんだっけ?」
 貴美子がからかうように、私に言う。
「……私が武士みたいだと、言われた」
 久美はしばらく絶句してから、お腹を抱えて笑う。それにつられて、早紀と貴美子もまた笑った。
「サイコー! なんかもう、ぴったりでしょ! 、事あるごとに切腹しそうだもん!」
 貴美子はおかしくて仕方ないというように机を叩く。
「武士かー。不二くんて、やっぱりすごいね」
 久美は一旦外した眼鏡をかけなおして笑いながら言った。
「だから、名前を言うなと! 言うならコードネームかブロックサインで……!」
 私の声を無視して、久美は続ける。
「不二くんは、いいよ。きっと、の事、よくわかってるんだね。スパイとか武士だとか、キナくさい事ばかり言ってないで、さっさと平和条約締結の方向で活動しなよ」
 早紀と貴美子は、「久美、上手い事言う!」なんて盛り上がっているけれど、私は一言、無理!と叫んだ。

 その日の放課後、私はまた三人にテニス部の練習の見学に連れて行かれた。
 朝、掲示板の前から私の救出にあたった二人も、不二くんから「また見においで」と言われたそうで、「彼は社交辞令を言うタイプじゃないから」と早紀に説き伏せられ、私はまた三人の後ろからテニスコートを眺める。
 なんだかんだ言いながらもついてきてしまったのは、テニスコートでの不二くんの姿が、とても魅力的だからだ。
 余裕を持ちつつ真剣な顔で、無駄のない動きをする彼は美しかったし、とてもしなやかな強さを感じた。やっぱり好きだなと思う。
 そして今日の私が昨日と違うのは、あそこでテニスをしているあの不二くんの手や、髪や、目を、とても間近で見てしまったという事だ。
 その事は、テニスをしている不二くんを眺める私を、より一層ドキドキさせる。
 こんなに、心の落ち着かない片思いは初めてだ。
 片思いも三回目だというのに、なぜもっとどっしり構えてかかれないのだろうか、私は。

*****

 その日、また私が教室の掲示物の張替えをしていると、ロッカーの上に置いた画鋲の箱がひょいと持ち上げられた。
 不二くんだった。
 当然のように私の心臓はドクンと大きく合図をするが、前よりは少し落ち着いた気持ちで、彼を見る。
「僕が画鋲を刺すから、さん、ポスターを押さえててよ」
 私が両手の指でポスターを押さえていると、彼がその四隅を丁寧に画鋲で留めた。
「……どうしていつも、ポスター貼りを手伝う?」
 深呼吸をして、私は尋ねた。
「……ああ、四月に入ったばかりの頃、さんがこうして掲示物を貼ったりしてるの見た事があるんだけど、きれいな指をしてるなあと思って、近くで見てみたかったんだよ。この前一緒にポスターを貼った時に見てたら、やっぱりきれいだと思ったからさ。それで、さんが画鋲を刺すより、こうして掲示物を押さえてもらってる方が、指がよく見えるだろう? だから今回は僕が画鋲を留めようと思ってね」
 彼はさらりと言う。
「はあ?」
 私は思わず間抜けな声を出してしまった。
 言われて嬉しいとかより、まるでドラマか何かのセリフみたいな事を言う彼に、動揺してしまったのだ。しかも、それが嫌味だったりキザったらしくないから、不二くん、なんて手ごわい男だろうかと恐れ入ってしまう。私は指先まで熱くなってしまいそうで、あわてた。
「はい、これ、次」
 そして彼はなんでもないように、次の掲示物を差し出してきた。押さえておけという事だろう。
 私はそのまま作業を続けた。
「……不二くんも、指とか、髪とか、きれいじゃない」
 私は彼の言葉に対し、ふと思った事を返した。自分が彼に、そんな事を言えるなんて少し意外だったが、思いがけず自然に口から出たのだ。
「へえ、そう思う? さん、そういうの好き?」
 これまたさらりという彼に、私は少し考えた。
「そういうのが好きというか……不二くんは……」
 ふと、いつも私の中にある、荒野の中に立つ不二くんのイメージが浮かんだ。
「不二くんは、だだっ広い荒野の中でも、普段どおりのきれいな涼しい顔して立っていそうな感じがして、そういうところがいいんじゃないかと思う」
 思わず私がそう言うと、不二くんは珍しく目を丸くして笑った。
「へえ」
 あれ、私は、こんな事を言ってよかったんだろうか。
 よくわからないけど、その後はもう黙ったまま、掲示物を押さえる。
 不二くんも黙って画鋲を押した。
 貴美子が教室に入ってくるのが目に入ったけれど、今日の私は、助けを求めるブロックサインは出さなかった。

***** 

 それから、不二くんは教室で時々私に話しかけてくるようになった。
 話す事は、テスト範囲や回収物の期限やなんかの何気ない事だったり、時に私の、クラスメイトに対するぎこちない無愛想っぷりを一言からかってみたり。
 もちろん私はそのたびドキドキしてしまうのだが、初めて話した時のように、敵方スパイに見つかって尋問されるような感覚はない。
 敵の組織に潜入した私が実はスパイであるという事はバレる事なく、順調に組織の人間になじんでいるという感じだろうか。
 私の片思い歴を諜報活動に例えるなら、いまだかつて、ここまで敵の組織に肉薄した事はない。勲章物だ。
 授業中、私はノートを取りながら自分の指先を見た。
 私が不二くんを好きになった頃、不二くんが私の指を見ていたなんて、不思議な感じがした。

「ねえねえ、最近、と不二くん、ちょっといい感じじゃない? もしかして平和条約を結んだの?」
 貴美子が浮かれた調子で私に聞いてきた。
 私は眉をひそめる。
「そんな訳ないでしょう。あくまで冷戦だから」
「なによ、それ。わけわかんない」
 久美が、それを聞いて笑った。
 そう、冷戦だ。
 いつも私が好きになる男の子は、私の事を好きになるような子じゃないのだから。
 そう、私と彼に平和条約はありえない。

*****

 朝、私は教室の窓から外を眺めつつ、500CCパックのグレープフルーツジュースをぐいぐいと飲んでいた。どうも今回の片思いでは、大量のビタミンが消費されているような気がするから。
「おはよう。さん、グレープフルーツジュース好きなんだねえ」
 背後から聞こえる声は、ビタミン消費の元、不二周助だった。
「ああ、おはよう。すごく好きってわけじゃないけど、なんかイメージ的に身体によさそうだから」
 私は答えた。
 最近やっとわかってきた。
 不二くんは、面白がりだ。
 だから、私に時々声をかけたりする。多分、不二くんからすると私がちょっと変わってるから。
 確かに、朝っぱらから教室の窓の外を見て仁王立ちになって腰に手をあて、500CCのパックのジュースをストローも使わず一気飲みしている女子生徒なんて、不二くんにとってちょっと面白いのかもしれない。
「そっか」
 不二くんも私の隣で窓に向かって立つ。
さんてさ……時々、他のクラスの男子から、告白されたりしてるでしょう? いつも断ってるって聞くけど、どうして?」
 朝っぱらからの唐突な尋問に、私は驚いた。
 さすが腕利きのスパイだ。
 グレープフルーツジュースを飲んでおいてよかった。
 ドカッとビタミンが崩壊したような気がする。イメージ的にだが。
「……よく知らないような人から、言われたりするし、そもそも私みたいなのを好きになる人なんて、ちょっと信用できないから」
 不二くんは目を丸くした。大きく開いた不二くんの目はとてもきれいで、いつも吸い込まれそうだな、と思ってしまう。
「そうか……信用できない、ねえ……。うん、そうだね、きっとさんの事をちゃんと分かってる男なんてそうそういないだろうからね」
 あいかわらずズバリとした事を、さらりと言う。
さんは……」
 窓から入ってくる柔らかい風は、不二くんの髪をさらさらと揺らした。
「強いんだけど、弱くて……弱いんだけど、強いよね。僕が荒野に立つ男なら、さんは澄んだ深い湖の底に一人で沈む女の子だね。そして、荒野に立つ僕の事が、好きでしょう?」
 彼の言葉に、私は体中の血液が、おかしな具合に流れ出すような気がした。
 組織になじんだと思っていた私は泳がされていただけで、いきなりスパイ容疑で逮捕された。
 もう、おしまいだ。
 私は震える手で、飲み干したグレープフルーツジュースのパックを潰して畳んだ。
「私はもう撤収するから、これ以上は関わらないで」
 ジュースのパックを握り締めた私は、走ってその場を去った。


Next

2007.4.25

-Powered by HTML DWARF-