● 恋の平和条約(4)  ●

「緊急会議を行うから」
 私はそう言うと、昼休み、友人三人を屋上へ誘った。
「なになに所長、平和条約締結の報告でもあるの?」
 サンドイッチをほおばりながら、貴美子が呑気な声で言う。
「そんなわけないでしょ。ほら、なんだっけ、貴美子がいつも言ってる団体名。くだらないやつ」
「……ああ、片思い研究所とか、片思い対策本部?」
「そう、それ。その研究所も、対策本部も、解散するから」
「はあ?」
 背筋を伸ばして伝えた私の言葉に、三人は声を上げて聞き返す。
「解散。撤収します。私の今回の片思いは、これにて作戦中止」
「どうしてまた」
 早紀が髪をかき上げながら尋ねる。
「どうしても。不二くんの事も、もう見ない。だからもう、ブロックサインもコードネームも使わなくていい」
「いや、それはそもそも誰も使ってないけど……」
 久美がため息をつきながら言う。
 こうなるとそれ以上私が何も言わないのを皆わかってるから、そのまま私たちは黙ってお弁当を食べていた。
 日差しは暖かいのだけど、どうにも暖かい気持ちにはならない屋上。

 午後からの授業、私は黒板の方さえろくに見ず、自分の机に向かう事に集中した。
 不二くんを見ない。
 その事に集中するために。
 そう、やっぱり危険なミッションだった。
 朝の不二くんの言葉が何度も頭を駆け巡る。
 不二くんが言った通り、私は確かに湖の底にいる。
 静かな湖の底で、ゆっくりと自分なりに動いている。水の外の人たちの動きは素早くて、私は自分なりにそれに合わせながら生きている。でも人は大なり小なりそんなものだろう。
 私はそれが嫌ではないし、それが私のありかた。
 誰かに無理やり水をかきわけられたり、水を抜かれてしまう事は、私の本意ではない。
 ずぶぬれでみすぼらしい自分を、不二くんに見られる事はあってはならない。
 机に向かいながら、私は自分の右の額がチリチリ熱い事に気づく。
 そう、不二くんが座っている席の方向。
 見たらだめだと思えば思うほど、見なくてもその存在を感じる。
 今まで、片思いの終結に、こんなに難渋した事はなかった。
 何度も何度も、深呼吸をした。
 大丈夫、落ち着いて。
 チリチリするのは、最初のうちだけ。
 きっと今までみたいに、忘れられる。

 その日、私は一人で帰るから、と友人達に告げ、少しだけ図書館に寄ってから帰路についた。正門へ続くまっすぐなイチョウ並木を、一人歩く。
 するとその中のひときわ大きな木の幹に、不二くんが寄りかかって立っているのが見えた。
 私の心臓はまたドクンと大きく拍動する。
 だって。
 これは、まるで……。
 いつか見た古い映画のラストシーンみたいじゃないか。
 並木道に立つ心惹かれた男の傍らを、ヒロインはそれでも彼の方に視線をやる事なく、強くまっすぐ前を見て素通りして、そのまま二人は別れる。そんなラストだったと思う。
 私はヒロインなんていいものじゃなくて、ただの通行人だ。
 それでも私はその映画のヒロインと同じように、まっすぐ前を見て、不二くんの方を見ないようにしてただただ歩いた。
 早まる心臓を抱えて、私は懸命に不二くんの前を通り過ぎようとした。
 その瞬間。
「ねえ、『第三の男』のラストシーンの二人って、原作ではハッピーエンドだったって知ってた?」
 不二くんの穏やかな声に、私は思わず足を止めてしまう。
 あれ程だめだと言い聞かせたのに、私は彼を見てしまった。
 穏やかで優しい、でも強い笑顔。
「映画では、男の前をヒロインが素通りしてThe Endだけど、グレアム・グリーンの原作のラストでは、ヒロインが男の腕を取って二人並んで並木道を歩くんだよ」
 私は目を丸くして彼を見る。
「……知らなかった」
「ふふふ、そうでしょう」
 不二くんは嬉しそうに笑う。
「個人的には、映画のラストの方が好きだけどね。でも、さんと僕の場合、ひとつ平和条約を締結しないかと提案したくて、ここで待ってたんだ。『第三の男』ごっこもしてみたかったしね」
 彼は悪戯っぽく笑う。
 私はカッと顔が熱くなった。
 腕利きスパイは、なんというか……相当に意地悪だ!
 しかも、今、『平和条約』って言った……? 
「平和条約って……なんでそれを……!」
 私はあわててしまう。
「きみの友達がさ、『不二くん、核爆弾のスイッチでも押したの?』と心配そうに尋ねてきたんだよ」
 私は三人の事を思い出して、更に顔が熱くなった。どうしてくれよう!
「……朝、突然にあんな事を言ったりしてごめん。でも、僕は本当にそう思ったんだ。きみは僕を好きに違いないって。そして、僕もきみが好きだしね。回りくどいことしてても、時間がもったいないじゃない?」
 不二くんは風に髪をそよがせながら、いつもと変わりない表情で言った。
「……でも私は……他の女の子みたいに可愛らしい事も言えないし、なんだかこう、上手く話もできないし……多分これ以上話してても、不二くんはがっかりするだけだから」
 私は不二くんを見て、必死でそれだけを言った。
「……僕が荒野に立っているのがさんに見えたみたいに、僕にはさんが湖の底で気持ち良さそうにのびのびしているのが見える。僕は泳ぎも得意だからね、潜って会いに行くよ。だから、強くて弱い、弱くて強いさん、もうそんなに一生懸命自分で自分を守らなくても大丈夫だよ。何かあったら、僕が守ってあげるし、僕はさんを傷つけたりしない」
 まったくなんだって、さらりとこんな事が言えちゃうんだろうね、なんて私は思いながらも、びっくりするくらいに胸が熱くなった。
 こんな気持ちになるのは初めてだった。
「僕達の間に、もともと冷戦なんてないけど、とりあえず平和条約を結ぼうよ」
 彼の言葉に、私は黙ってうなずいた。
 そして私達はゆっくり歩き出す。
 不二くんは私に腕を差し出してくるけれど、私は、冷戦中のスパイの役からヒロイン役へなんてそんな急に切り替えはできなくて、恥ずかしくてぶんぶんと首を横に振った。
 まるでストイックな戦国武将だね、と不二くんはおかしそうに笑う。
 そのまま、私たちは並んで歩き続けた。


(了)

<参考>
グレアム・グリーン著,小津次郎訳,「第三の男」,早川書店,1950
キャロル・リード監督,「第三の男」,1949
岡村靖幸, 「うちあわせ」(作詞:岡村靖幸, アルバム「DATE」より),1991

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