● 恋の平和条約(2)  ●

 私達の会議は、いつものファーストフード店で始まった。
 会議というか、まずは相当に消耗した私のエネルギーを回復する事からだが。
「……落ち着いた? ちゃん」
 久美が心配そうに、眼鏡の奥から私を覗き込む。
 私は甘いホットココアを飲んで深呼吸をする。
「不整脈でも起こるかと思った……」
「想像したよりだいぶ手ごわそうだね、不二くん」
 久美もホットココアを一口飲んで、曇った眼鏡をキュッと拭いた。
 私はまだ胸のドキドキが落ち着かない。
 私が片思いの原則に、相手との接触を避けるようにしている理由はこれだ。
 私は好きな相手と面と向かうと、本当にダメなのだ。
 よくある話かもしれないけれど、私の場合、とにかくまったくからっきしダメ。
 なんて言うんだろう。ゆっくりでも調子よく泳いでいたところ、彼と出くわしたら、あわててしまって溺れてしまうみたいに。
 私はただでさえ口下手ではあるが、それは普通の人相手だったら、「クールで少々愛想がない」くらいの印象でなんとかなっていると思う。でも多分、向き合うのが片思いの相手だったら、私は本当にどうしようもなく無様になってしまうと思うのだ。
 誰だって、好きな相手にそんな自分は見せたくないだろう。
「で、この片思い対策本部としてはねぇ、まず今日の不二くんをどう考察するかだね」
 貴美子はまたもやいつのまにかヘンな団体名をつけているが、もうそれはどうでもよかった。
「そんなに気にする事はないと思うよ、
 口を開いたのは早紀。
「不二くんは結構人の事見てるから、クラスの女子でもがちょっと変わってて、テニス部の練習をキャーキャー見に来るタイプじゃないっていうのがわかってるんだよ。それで今日あそこで見かけて意外だったから、声をかけただけでじゃないの」
 アイスコーヒーをストローでかき回しながら、落ち着いた声で言う。
「……でも、今日のあの感じ……相当油断できない男だと思う。だって、好きな男でもいるの? なんて、すごく怪しまれてる!」
 私は深呼吸をするけれど、まだ心は混乱したまま言った。
「例えて言うなら、不二くんと同じ教室にいる私は、歴史で言うところの冷戦時のソ連……ロシアに忍び込んだ西側のスパイで、ロシアの優秀な諜報員である不二くんは、敵側のスパイの私を泳がしてるに違いない!」
 私はため息をついて、うつむいた。
「もう教室内で、彼の名を口にすることさえ、危険だと思う。どうしても口にする事が必要ならば、こう、暗号かブロックサインを決めないと!」
 私は、例えば両手をぐっと上げてそのまま体を左に傾斜させ、不二くんのイニシャルである「F」を象ったブロックサインはどうかとか、「ペレストロイカ」というコードネームはどうかとか、混乱した頭で提案したが、全員から却下された。
「まったくちゃんて頭良いはずなのに、好きな男の子の事になると、なんでこう信じられないくらいバカになるの」
 貴美子が呆れた顔で言う。
「まあまあ、血糖値上げて、ちょっと落ち着きなよ」
 久美が優しい顔で、食べかけのベイクドチーズケーキを差出してくれた。
 その、香ばしく焼けた甘い香りはほんの少し、私の心を落ち着ける。
「早紀が言うとおり、不二くんはちょっと意外に思っただけだよ。大丈夫、今までどおり、は落ち着いて好きな男の子の事見てればいいから。何だかんだ言って、今日のテニスコートの不二くん、かっこよかったじゃん。よかったよね、練習見れて」
 穏やかに笑う彼女の笑顔を見ながら、私は、ふうっと息をついて、うん、と小さくうなずいた。

*****

 とにかく落ち着こう。
 私は落ち着けば、大丈夫だから。
 翌朝、教室の自分の席で、私は深呼吸をした。
 不二くんの席は幸い私よりだいぶ離れているから、授業中不意に彼が目に入って気持ちが乱れる事もないだろう。
 私は机に教科書をしまうと、まだ人気の少ない教室の中、教室の掲示板の掲示物の整理を始めた。私は広報委員なので、定期的に教室内の様々な掲示物の張替えをしなければならないのだ。
 私はまず期限の過ぎた掲示物をはがした。
 そして、まだ長らく掲示しておかないといけないけれど、四隅が破れかかっているものを一旦はがしてテープで補強して、再度貼りなおす。
 そして、場所を整理しながら、新しい掲示物のレイアウトを考えた。
「図書館からのお知らせ」の新しいものを掲示板において、画鋲を刺そうとしていると、ふっと後ろからそれを押さえる指があった。
「……さん、指が長いんだね。ピアノでもやってる?」
 振り返ると、それはペレストロイカ……じゃなくて、不二周助だった。
 いつもの、目を細めたような穏やかな笑顔。
 私の壮大な心臓の拍動はそのまま身体に響いて、思わず画鋲の箱をひっくりかえしてしまった。
「あーっ」
 画鋲はこぼれ、押さえていた掲示物はひらひらと床に落ちる。
 不二くんは優雅なしぐさでかがむと、ひとつひとつ画鋲を拾ってくれた。
 私はつい、助けを求めるように教室を見渡すけれど、早紀や久美たちはまだ登校してきていない。
 私の心拍数はどんどん上がる。
 私はこの腕利きのスパイと、一人で対決しなければならないのか。
 はい、と、不二くんは画鋲の箱と落ちた掲示物を差し出してくれた。
「……ピアノ、やってない」
 まるでロボットのようにぎこちなく、私は答えた。
「そうなんだ。あ、これ、僕が押さえとくからさ、貼っちゃいなよ」
 不二くんは「図書館からのお知らせ」を両手で押さえてくれた。
 私はだまって、その紙の四隅を画鋲で留める。
「次はこれ?」
 彼は次のポスターを手にとって見せる。
 どうやら、全部貼り終えるまで手伝ってくれるつもりのようだ。
 私は黙ってうなずいて、貼る場所を手で指示した。
「……さんがテニスの練習見に来るなんて、昨日、初めてだったんじゃない?」
 私はまた黙ってうなずいた。
 まるで、銃口を突きつけられ、尋問をされているような気分だ。
 もちろん実際にそんな体験をした事がないので、いつか見た古いスパイ映画の事を思い出しただけだが。
 不二くんは私のそんなぎこちない雰囲気にお構いなしで、大きなポスターをじっと押さえていてくれた。私の顔の少し上にある彼の髪はサラサラでとてもきれいで、ほんの少し甘い香りがした。
 心拍数は高め安定。
 私の脳の、言語のアウトプット能力は極めて低下したまま。
「どうだった? 面白かった?」
 彼の問いに、私はまた黙ってうなずくだけ。ふふっという彼の柔らかな笑い声が聞こえる。そりゃあ、こんな風に黙ってうなずくだけの相手、笑ってしまうだろう。
 だから、ダメなんだ。私は。
 早く終わらせたい。
 こんなみっともない私を、早く不二くんの前からどっかへやってしまいたい。
「……さんは、他の女の子みたいにテニス部の練習を冷やかしに来るようには見えなかったからさ、昨日、ちょっと驚いたんだよね。よく考えたら、さんと話すのって初めてだったのに、急に『好きな男でもいるの』なんて聞いたりしちゃって、失礼だったね」
 不二くんは、別段『申し訳ない』といった風でもなく、涼しい顔で言った。
 私は特に返事もせず、掲示板に画鋲を刺し続ける。
さんて、こう……武士みたいだよね」
「……武士ぃ?」
 彼の言葉に、私は思わず手を止めて聞き返してしまった。
「あ、ごめんごめん」
 不二くんはくすくす笑いながら言う。これまた、決して本当には『ごめん』なんて思ってはいないような口調で。
「なんか、こう……きれいな人なんだけど硬派でさ、『かたじけない』、とか言いそうで、面白いなあと思ってたんだ。それで昨日、見かけたらつい声かけちゃってね。練習、また見においでよ」
 私はもう、何て言ったら良いかわからず、また、自分がどんな顔をしてるのかもわからず、画鋲を刺す手を止めて、動けなくなってしまった。
 その時、教室の後ろの扉から、貴美子と早紀が入ってくるのが見えた。
 彼女たちは私と不二くんを見つけ、そして、どうも助けに入って良いのかどうか、判断に迷ったような顔をしていた。
 私はとっさに。
 両手を上げて、そのまま身体を左に傾斜させた。
 二人は鞄を持ったまま駆けつけてくる。
「……何、どうしたの?」
 私の突然の動きに、さすがの不二くんも驚いたように言う。
「ただのストレッチ」
 私はなんとかそれだけ答えた。
、あっ、不二くんも、おはよう」
「不二くんおはよう、昨日、練習すごかったねえ」
 貴美子と早紀は口々に不二くんに話しかける。
「なんだっけ、あの一年生の、越前くん? 生意気そうで、カワイイね」
 彼女たちが話しかけてる間に、私はさっさと掲示物を張り終え、走って席に戻った。
 席に戻ると、手に汗をかいているのに気づいて、洗面所に手を洗いに行く。
 洗面所に行ったついでに、顔も洗って、深呼吸をした。
 あんなに近くで不二くんを見るのは初めてだったし、片思いの男の子と、あんな風に話すのも初めてだった。話すというか、不二くんが一方的に話しかけてきたのだけど。
 私が、もっと普通に可愛らしい女の子だったら、「キャー好きな男の子と二人で話しちゃったー」なんて単純に喜べるのかもしれないが、私は彼と接すれば接するほど、不恰好なところをさらしてしまうわけで、決して手放しで喜べるような出来事ではない。
 しかし、私の片思い史上、ここまで心かき乱される事は初めてだ。
 いつもはもっと綿密にやり遂げていたのに。
 もっと注意しなければ!
 でも……。
 不二くんの、きれいな髪、横顔、静かで優しい声。
 それらに間近に接したときの、自分のどうしようもなく浮かれてしまう心は、認めざるを得なかった。


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2007.4.24

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