● オブリガーダ(3)  ●

 翌日、ジャッカルは朝練を終えるといそいそと着替えをすませ、ブン太を置いてさっさと部室を出た。
 目指すは、のいるであろう、花壇。そこに早速、水やりをしている彼女を見つけた。
 思わず口元がゆるむ。
「よう」
 彼女の背後に立って、さりげない様子を装って声をかけた。
「あ、ジャッカルくん、おはよう」
 は振り返って微笑む。
「おっと、今日は水かけないでくれよ」
「やあね、もうやらないわよ」
 わざとらしくおどけてみせるジャッカルに、はおかしそうに笑った。
「……水やりって、朝と夕だけでいいのか?」
「うん、昼間にやると太陽の熱で水が熱くなってしまうから、かえって具合悪くなってしまうんだって。これから暑くなるしね。だから、朝夕だけでいいの」
「ふうん」
 ジャッカルは感心したようにつぶやいた。
 彼女はホースをフェンスにひっかけて屈み込むと、植えられた花の周りのいくつかの雑草を抜いた。
「そろそろ雑草も出てくるなあ」
 ジャッカルもバッグを置いて隣にしゃがみ、彼女の手元を見た。
「……これ、抜いていいヤツ?」
 植えてある植物と雑草の区別をつける事に自信が持てない彼は、そっと彼女に尋ねた。
「うん、それは雑草ね」
 彼女の返事を聞いて、彼はそれど同形の草をぷちぷちと抜いた。
 花壇の土は水気を帯びて、まだ小さな雑草たちは容易に引っこ抜かれてしまう。
「……ブラジルって、やっぱりいろんな花があちこちに咲いてる?」
 しばらく熱心に雑草を抜いてから、はジャッカルの顔をのぞきこんで尋ねた。
「ええ? ああ、そうだなあ……俺が住んでたのはサンパウロで、そこは騒がしい都会だったけど、ばあちゃんの家がヴァラダレスってトコで、ヴァラダレスは田舎だからあちこちにきれいな花が咲いてたな」
 ジャッカルはしゃがんだまま手を止め、記憶をたどるように一瞬空を見上げた。
「ガキの頃、ばあちゃんちに遊びに行って迷子になっちまった事があってさ。あちこち走り回っても、どこも同じような草むらで、わけわかんねーの。で、疲れてベソかきながら草むらに寝転がったら、なんだかすごくきれいな花が咲いてて……」
 話を続けるジャッカルの隣で、は興味深そうに彼の顔をじっと見る。
「きれいな色の花だなーって思ってよく見たら、それ、花じゃねーの。ハチドリだったんだ。青と赤のすげぇ鮮やかな、こーんなちっこい鳥」
 ジャッカルは親指と人差し指で大きさを示した。
「俺、都会っ子だったから、野生のハチドリなんか見るの初めてだった。あんまりきれいだから、じっと見てると涙も止まって……ハチドリがブーンとどっかに飛び立っちまって、名残惜しくて立ち上がったら、探しにきてくれたばあちゃんとめでたく出会えたよ」
「へぇ……」
 嬉しそうな顔で笑ってるの顔は、まるであの時、やっとばあちゃんに会えてほっとして笑ってる自分みたいだな、とジャッカルはふと思う。
「いいな。ハチドリなんか、動物園でしか見たことない」
「俺もそうだったよ。ばあちゃんちの近くでは、ハチドリとかフクロウとか、いろんな動物を見たなあ」
「へえ、いいなあ」
 は笑いながら、本当にうらやましそうに言う。
「……体、丈夫じゃないって言ってたけど、飛行機とかは乗れるんだろ?」
 目を細める彼女を見ながら、ジャッカルは尋ねた。
「うん、それは大丈夫。手術したから、もう苦しくなる事もないし」
「手術?」
 ブン太から聞いてはいたけれど、改めて彼女の口から話を聞きいてみたくて、ジャッカルは初耳かのように尋ね返した。
「うん、心臓の、手術。心臓って、四つの部屋に分かれてるって、理科で習ったでしょう?その部屋をわけてる壁にね、生まれつき穴が開いてたの。成長とともに閉じる事もあるからって、ずっとそのままにしてきてたんだけど、どうも私の場合そういうわけにいかなかったみたいで、手術して閉じたんだ」
「へえ、なんかすげーな」
「修理って感じよねぇ」
 はくすっと笑って言った。
「……修理も終ってて、飛行機だって乗れるんだったら、ハチドリでも何でも、見に行ったりできるじゃんよ」
 ジャッカルがそう言うと、は驚いたようにじっと彼の目を見る。
 彼女が何か言おうと口を開きかけた瞬間、予鈴が鳴った。
「あっ、いけない、もう行かなきゃ。つきあわせちゃってごめん、ジャッカルくん」
 ホースから水を出し、二人は手の土を洗い流した。
「ねえ、ブラジルの言葉ってポルトガル語よね? 『ありがとう』って何て言うんだっけ、『オブリガード』だっけ?」
「『オブリガード』は男性形だから、さんが言うんだったら『オブリガーダ』だな」
「そっか。ジャッカルくん、オブリガーダ」
 彼女はそう言うと、眼鏡の奥の目を細めて笑った。



 二人は滑り込みセーフで始業に間に合った。
 席についてから、と安堵の目配せを交し合うと、その後、ブン太と目が合った。
 彼は何か言いたげに、ガムをふくらませてみせる。

 昼休み、ブン太とジャッカルは学食へ行った。
 トレイを手にしてテーブルに着くと、ブン太は待ってましたとばかりに口を開く。
「今朝、なんか花壇のトコでさんといい感じだったじゃねーか」
「……ちょっと話してただけだ」
「そんな身構えんなって」
 定食のコロッケにかぶりついてから、ブン太は言った。
「あのさ、俺が昨日、彼女はやめておけって言った理由、聞きたくね?」
「……別に。どうせ、病気の事とかだろう?」
 ジャッカルはサラダにドレッシングを混ぜながら、ブン太の顔も見ず淡々と答えた。
「うーん、まあ、病気の事っていうか……」
 ブン太はコロッケを平らげて水を一口飲むと、ジャッカルを見た。
「彼女、手術する前、結構長くつきあってた男がいたみたいなんだけど、手術をきっかけに別れたらしいんだよね。理由はわかんねーけどさ」
 聞く気はなかったのに、ジャッカルはいつしかブン太の次の言葉を待っていた。
「彼女、きれいで素敵な人だろ? だから今でも結構彼女を好きになって、告白するヤツもいるんだけど、毎回みんなあっさりと断られてるらしいぜ。さんに好きなヤツがいるのかどうかは知らないけど。……よくわかんねーけど、前の男、忘れらんねーのかな?  彼女にはきっと、俺たちみたいなのより、もっと大人のヤツじゃないとダメなのかも」
 ブン太はめずらしく考え込むような顔をして言った。
「……お前、今まで好きになったコにはあっさり玉砕でさ、まあそりゃあガッカリして落ち込むだろうけど、心底傷つくような出来事はなかっただろ? さんには……深入りすると、お前、傷つく事になるんじゃねーかと思うぜ」
「……お前さ、なんで俺が振られる事前提なんだ?」
 表情を変えないままで言うジャッカルの言葉に、ブン太はニッと笑った。
「いや、何か、ジャッカルの恋って上手くいったためしないだろぃ? 振られるイメージしかなくってさ、悪ぃ悪ぃ」
 ジャッカルはムッとした顔でいるけれど、それでもブン太の気持ちの優しさはよく伝わってきた。
「バーカ、俺が今更、傷つくとかどうとかで躊躇するわけねーだろ」
「やっぱ惚れたんだ」
「……まあな」
 ジャッカルは決まり悪そうにガツガツとトレイの食事を口に放り込んでいった。
 


 ジャッカルが部活を終えて花壇の前を通ると、そこにはまだがいた。
「あれ、まだやってんのか」
 ジャッカルが驚いて声をかけると、はっと彼女は振り返った。
「あ、部活終ったの? もうそんな時間?」
 あわてて立ち上がって腕時計を見た。
「ほんとだ。なんか小さな雑草が大分生えてきてて、気になっちゃって。もう帰るわ」
 手を洗うとあわててホースを巻き取った。
「……さん、家、どっち?」
「第三公園の近くよ」
「だったら俺、方向同じだから、一緒に帰らね?」
 彼の言葉に、は一瞬驚いたような顔をするが、すぐに微笑みを返す。
「うん、ホース片付けてくるからちょっと待ってて」
 
 片付けを終えた彼女と、ジャッカルは二人で並んで歩いた。
 良く考えたら、好きになった女の子とこうやって二人で歩くのは初めてだった。
 少し緊張するけれど、それ以上にたまらなく幸せな気分。
 ちらちらと隣のを見た。
「……俺、歩くの速すぎないか?」
「ううん、大丈夫よ」
 は静かに答える。
 地球が大気に囲まれているように、彼女の周りは独特の空気が取り巻いていた。
 そして彼女の傍にいると、自分も一緒にその空気に取り囲まれて、それはそれはたまらなくほっとして幸せな気持ちになる。そんなものが心地よくて、クラスメイト達は彼女の傍にいる事が多いのだろう。
 ジャッカルは、ただのクラスメイトの一人としてじゃなくて、もっとずっと近くで……彼女の傍で彼女の空気に囲まれていたいと心から思った。
 
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2007.6.14

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