●● オブリガーダ(4) ●●
「今朝も、なーんか仲良さそうに二人で草取りなんかしてたよなぁ」
教室で、ブン太がからかうようにジャッカルに言った。
昨日、と一緒に下校したジャッカルは、当たり前のように今朝も部活の後、のいる花壇の前で足を止め、また何気ない話なんかをして幸せな時間を過ごしていたのだった。
「俺がなかなか玉砕しねーから、不満か」
「いやいや、彼女、誰にでも人当たりいいからねぃ」
お互い、憎まれ口は本心じゃないとわかっているから、気軽にやりとりをする。
「ま、そもそもさ、ああいうタイプは本来は早いモン勝ちの粘ったモン勝ちなんだよ。お前、今までの恋は、とにかくタイミングも運も何もかもが悪かったからなァ。出遅れたりさ。そこがお前らしいんだけど」
「勝手に俺らしいとか、変なイメージ作んなよ」
「お前、自分がわかってないね」
ブン太はそっくり返って笑った。
「……今日の部活、少し遅れると、真田に伝えておいてくれ」
ジャッカルはブン太を見て、すました顔のまま何でもないように言う。
「……お前、まさかもう行く気か? 玉砕覚悟にしても、もうちょっと落ち着いてからのが良くね?」
さすがに少々慌てたようにブン太は身を乗り出した。
「バーカ、俺はラテン系だ」
彼はニッと笑って、その白い歯をむき出して見せた。
放課後、教室からの姿がなくなるのをみはからい、ジャッカルも少し時間をおいてから花壇に向かった。
はいつものように、穏やかな表情で水をまいていた。
アマゾンの森の如く、きっとこのあたりの酸素は彼女が作り出しているにちがいないとふとそんな事を考えてしまう。
大きく深呼吸をしてから足を踏み出し、ジャッカルは彼女に近づいた。
「……ジャッカルくん、これから部活?」
はそんな彼に既に気づいていたようで、顔だけでちらと振り返ると笑って言った。
「ああ。それと……さんに聞きたい事があって」
「うん、なあに?」
彼女は水まきの手を止めて、改めて振り返る。
「その……さんは今、つきあってるヤツとかいるのか?」
彼が静かに問うと、は眼鏡の奥で、もともと大きな目を更に見開いた。
「……ううん、いないけど……」
少し戸惑ったような小さな声で彼女は答えを返す。
「だったら……俺と付き合ってもらえないだろうか」
ジャッカルはストレートな一言を、力強く発した。
は戸惑った顔のまま。
「……昨日話したけれど、私……あんまり体が丈夫じゃないの。だからきっと……ジャッカルくんみたいな人は、私といてもつまらないんじゃないかと思う」
はゆっくりと小さな声で言った。
いつもの、静かだけれど落ち着いた様子ではなく、どこかしら自信のないような調子。
ジャッカルはぐっと拳を握り締めて、それでもひるまない。
「さん、俺、昨日、同じテニス部のちょっと賢いヤツに、さんの病気の事聞いたんだ。心臓の壁に穴が開いてってやつ。そいつが言うには、穴の大きさによるけど、それを修復する手術をしたんだったら、あとは傷が治りさえすればまったく普通の人と同じように生活できるし、運動するのも問題ないはずだって」
ジャッカルはまっすぐにを見て、一言ずつしっかりと言った。
はふっと、睨みつけるようなまなざしで彼を見つめ返す。
「だから、体の事なんて理由にならない」
「……」
「単に、俺が好みじゃなくて付き合う気がしないって言うんだったら、それで諦めるよ」
彼の言葉に、は相変わらず困ったような顔で頬にかかった髪を耳にかけた。
の指の土が、かすかに頬につく。
ジャッカルがそうしたように、も大きく深呼吸をした。
「……ジャッカルくんが言うように、確かに私の病気はそんなに悪いものじゃない。きっと、その教えてくれた人に聞いたんじゃないかと思うけど、本当はね、去年だって休学しなくても戻れたくらいで……」
ジャッカルは真剣な顔で彼女の小さな声に耳を傾けた。
「でも心臓の病気のうちではそんなに重いものじゃないって言っても、私は手術しないといけないんだってすごくショックだった……。それでもなんとか手術が終ってほっとしてたんだけど、手術の後リハビリをするようになったらね……それまでつきあっていた人に、新しい彼女ができたんだって聞いた」
はホースの水を止める。
「……そんな事もあって、手術の後なかなか元気が出ないままでいたら、母親が心配性だからね、今年はもうお休みして祖母の家で療養したらっていう話になったの。普段だったら、私、そんな事反対してたと思うけど……なんだか力が抜けちゃって結局休学した」
ジャッカルは黙ったまま、じっと彼女を見る。
「私が去年休学してたのは……そんな、理由なの。みっともなくて、誰にも言ってないけど。……バカみたいでしょう? 自分でも、よくわかってる」
は、ジャッカルに返事を求めるというよりも、改めて自分自身に言い聞かせるかのように言った。
「……つきあっていた彼に、新しく好きな子ができたのは、私の病気のせいじゃないって彼は言ったし……多分、その通りなんだと思う。でも、私は心のどこかで、彼が去ったのは病気のせいで、私のせいじゃないんだって思いたかった。そして同時に……」
右手を、胸の真中あたりにそっと当てた。
「やっぱり人と違う病気をして、ここに傷があって……そういうのって、なんだか自信が持てないし、手術をしてから……誰かと恋をするような気持ちにならない。ジャッカルくんが嫌いっていうわけじゃないけど、だから、私は今のところ誰ともつきあえないし、つきあうつもりもないの」
彼女は胸に手をあてたまま、ジャッカルをきっと見上げた。
ジャッカルは額に手を当てて、大きく息を吐くと、鞄やテニスバッグを地面に置いた。
そしてぐい、と彼女の近くに寄ると、彼女を抱き上げる。
「ちょっと、ジャッカルくん!」
当然ながら驚いた彼女は抗議の声を上げる。
ジャッカルはを抱きかかえたまま、グラウンドに出て、そしてトラックを走り始めた。
「ジャッカルくん、やめて、降ろして!」
彼女の言葉に構わず、彼は走りつづけた。
「俺はそんなにバカな方じゃねーと思うけど、さんの言う事はわかんねー。さんは素敵だしきれいだ。病気したりして、辛い気持ちになってヘコむのだって、普通の事だと思う。俺は今まで何回も女の子に振られてきたけど、もう恋をしないとか思ったりしない。さんが、どうして恋をしないのか、わからねー」
ジャッカルはしゃべりながら、更にスピードを上げた。
「ごめん、俺、やっぱりバカかもしんねーな。なんか……どうしたら良いのかわかんなくて、走るの、止まんねー」
はジャッカルのシャツを握り締めながら、相変わらず驚いた顔で彼を見上げていた。
「俺の事がキライだとか、他に好きな男がいるんだとか、そんな事で振られるんだったら諦めもつくけど、こんなんじゃ諦めらんねーよ、俺!」
ジャッカルは走りながら、搾り出すように叫んだ。
彼は両腕でしっかりとを抱きかかえたまま、力強く地面を蹴ってがむしゃらにトラックを走る。部活でグラウンドに出てきた生徒たちが、奇異な目で二人を見ていた。
何周目かを走って、野球のバックネットのあたりに差し掛かった頃。
「……クソッ!」
ジャッカルは若干呼吸を乱しながら足を止めると、そこで静かにを下ろした。
「すまね。力尽きるまで走ったら、諦めもつくかもしんねーと思ったけど。俺こんなんじゃ……女の子に振られてばかりなのも仕方ねーな。こんな……さんの気持ちも考えず、自分の気持ちだけ……ぶつけてちゃ。クソッ……」
走っても走っても、彼のやるせない気持ちは昇華しないし、返ってに対する身勝手な振る舞いに気づかされるだけ。ジャッカルは情けない気持ちで、それ以上の言葉をなくした。
はうつむく彼を、じっと見つめる。
「……ジャッカルくん……」
彼女の声に、ジャッカルは申し訳なさそうに顔を上げた。
「もう、これで力尽きるまで、走った?」
「……言ったように俺は体が丈夫なんでね、まだまだ力尽きそうにはない」
彼女の問いに、ジャッカルはため息をつきながら答えた。
の次の言葉はしばらく返ってこなかった。
彼女はジャッカルを見て、自分の足元を見て、空を見上げて、しばらく何度か深呼吸をして、そしてようやく口を開く。
「……私も、久しぶりに走ってみたくなった。一人じゃ恥ずかしいし心細いし、もしジャッカルくんがまだ力尽きてないなら、一緒に走ってもらえる?」
ジャッカルは目を丸くして、彼女を見た。
彼女が言った言葉の意味を考えながら黙っていると、は一人、ゆっくりとトラックを走り始める。
ジャッカルは慌てて後を追った。
「……大丈夫なのか?」
彼女の隣で、彼女のスピードに合わせて走りながら言った。
「うん、ゆっくり少しずつだからね。……ジャッカルくんと違って、あっという間に力尽きちゃうかもしれないけど」
は前を見て、本当にゆっくりと、でもしっかりと確かに走りながらそう言った。
「……その時は、また、俺が抱きかかえてやろうか?」
ジャッカルは試しにそう言ってみた。
ゆっくり走っているだけなのに、びっくりするくらい彼の心臓は高鳴る。
隣を走るの顔を、おそるおそるのぞきこんだ。
彼女は走りながら隣を見て彼と目を合わせると、ずり落ちそうな眼鏡を持ち上げながら、照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。
「オブリガーダ! ぜひともお願い」
を取り囲んでいるあの優しい空気は、今やジャッカルの中に入り込んでいた。
そして心臓をわしづかみにして、彼を引っ張る。
彼は見えない何かで、に引っ張られながら走った。
彼女に何かを問いたくて言いたくて、でも彼は『オブリガード』と返すのが精一杯。
(了)
「オブリガーダ」
2007.6.15