● オブリガーダ(2)  ●

「彼女はやめた方がいい」

 ジャッカルは、丸井ブン太のその忠告の意味を問いただす事はしなかった。
 彼女についての事を、これ以上他人の口から聞くのは気が進まなかったからだ。
 授業が終って休み時間になるたびに、ジャッカルは少し体をひねって、斜め後ろの席のを見た。
 確かに同じクラスで、彼女の事は知っていた。
 どうして今まで、気が付かなかったんだろう。
 あの、きれいな優しい目に。
 今まで恋をしてきた、そこにいるだけで目立って目に入ってくるような女の子じゃないけれど、は見れば見るほどに惹きつけられる。
 もっと話をしてみたいと、ジャッカルは思った。

 午後の最後の授業は体育で、着替えをすませたジャッカルはブン太とともにグラウンドに向かった。
「今日は持久走かァ、かったりぃなァ。お前はいいよな、得意だろぃ?」
「まあな」
 二人でしゃべりながら歩いていると、が一人、藤棚の下にいるのが目に付いた。
「……もう集合だぜ?」
 ジャッカルは足を止めて彼女に声をかけた。
 ははっと顔を上げて、いつものように柔らかく笑った。
「うん、今日はちょっと見学するの」
「具合悪いのか?」
「ううん、今日が特別に悪いってわけじゃないの。ただ、もともとあんまり体が丈夫じゃないから、持久走はちょっとまだ無理かなーって」
 彼女はなんでもないように言った。
 ジャッカルは目を丸くした。
「そうか、大変なんだな。俺は、体はものすごく丈夫だ」
 ジャッカルがそう言うと、今度はが目を丸くしてそしておかしそうに笑った。
「うん、そんな感じする。すごく、元気よね」
「ああ、そうだ」
 彼を見上げてくる彼女の笑顔は本当にきらきらしていて、思わず見入ってしまった。
 そんな彼のジャージをブン太が引っ張る。
「おい、集合に遅れるぞ、さん、じゃあまたな!」
 彼女に手を振って、集合場所に向かった。
「お前、ほんとバカだなァ」
 ブン太があきれたように言う。
「何がだ?」
「言ったろ、さん、去年休学してんの。心臓の手術して、そんで休んでたんだよ。何もお前の健康自慢する事ないだろうが」
「……そんなつもりじゃないし、俺は……彼女が体弱いんだったら、それを補って余りあるくらいに俺が丈夫なんだと……」
「ラテンの発想だねぃ」
 ブン太はため息をついた。
「……ところでブン太、お前、彼女と親しいのか?『さん』なんて、名前で呼んでるが」
「親しいっつか、彼女は大抵のクラスメイトとは親しいんじゃね? お前がたまたまあんまり話してなかっただけで。お前、面倒見は良いから、どっちかっつうとどんくさいような女子とはいろいろ話してるのにな」
 ブン太は社交的だから確かにいろいろな人と話す。彼が『さん、さん』と言って話したりしているなど、今までまったく気づかなかった。
「そうそう、お前、日直や委員の仕事結構真面目にやってるじゃん。そういうの、ちょいとどんくさい大人しい真面目系の女子には好評なんだぜ。ジャッカルくんて恐そうだけど、面倒見よくて優しい〜って。お前、そういう女の子を好きになればいいんだよな」
 言ってガムをふくらませるブン太を、ジャッカルはムッとした顔で見る。
「俺の事はほっとけ」
「ハイハイ」
 のろのろと歩く二人に、ついに体育教師の怒号が浴びせ掛けられ、あわてて走り出した。



 授業が終って部活へ行こうとするジャッカルは、今朝の花壇の前で足を止めた。
 がジャージ姿のままで、花壇に水をやっている。
 ジャッカルが立ち止まってしばらく彼女の後姿を眺めていると、が振り返った。
 そして朝の事を思い出したのか、ぷっと吹き出して、柔らかな笑顔を彼に見せた。
 ジャッカルは一歩踏み出して、言葉を発しようとした。
 すると。
 の手のホースがいきなり彼の方を向き、気が付くと彼の正面には思い切り水が浴びせ掛けられていた。
「……」
 言葉をなくしたままずぶぬれになって、彼女を見ていると水を止めた彼女はまたおかしそうに笑った。
「これでおあいこね」
 彼女の一言に、思わずジャッカルも吹き出す。
 そして大声で笑った。
「……あの、俺……ジャッカル桑原」
 ようやく笑いがおさまって、彼女に自分の名を伝えた。
「うん、知ってる。だって同じクラスじゃない」
「……俺の名、呼ばねぇから、もしかして知らないのかと思った」
 彼がそう言うと、は照れくさそうにうつむいた。
「あのね、何て呼んだらいいのかなってちょっと悩んでたの。みんな、『ジャッカル』って呼ぶけど、ジャッカルってファーストネームよね? 今日初めて話したのに、いきなりジャッカルくんてなれなれしすぎるかなあとも思うし、でも『桑原くん』って先生以外ほとんど誰もそう呼ばないから、ちょっと変な感じだし……」
 そう言って、照れくさそうな顔のまま彼をちらりと見て、また恥ずかしそうに笑った。
「……ジャッカルでいいよ」
 彼がそう言うと、は嬉しそうに顔を上げた。
「ジャッカルくんも私の名前、呼ばないじゃない」
「あ……うん、なんかみんな、『さん、さん』て呼んでるけど……俺もいきなりそんな、なれなれしいかなって……」
 言って、そして顔を見合わせて二人、クククと笑った。
「……さん、毎日花壇の水やりしてんの?」
 ジャッカルは顔の水を払いながら、花壇をちらりと見た。
 パンジーや、名前の知らない青い花なんかが植えられていた。
「うん、私、環境委員だから。部活やってないから朝も帰りも時間があるし、それで水やりを担当してるの。植物に詳しいわけじゃないけど、こういうの嫌いじゃないしね」
「ふうん、じゃ、朝とか放課後はここにいるんだ」
「うん、そうね」
 ジャッカルは何気なく言った自分の言葉を反芻した。
 そうか、その時間ならば、ここで彼女と二人になれる。
 その事実で、彼の胸の中は踊りだしそうだった。
 そうだ、ブン太に言われるまでもない。
 ジャッカルはに恋をした。
 今朝、彼女の目を見た時から。
 そしてさっき浴びせ掛けられた水の冷たさで、彼の恋心は完全にはじけたのだった。

Next

2007.6.13

-Powered by HTML DWARF-