忘れじのノートテイカー(4)



 関東大会第一回戦を終えた翌日の月曜日、国光は教室へ行くと真っ先に鞄からノートを取り出した。

 そして隣の席のに声をかける。
「先週借りたノートだ。返すのが遅くなってすまなかったな」
 先週病院に行って欠席した時のノートを彼女から借りて、それから多忙だったため返すのが今になってしまったのだ。
「ああ、ぜんぜん大丈夫よ」
 はいつものように笑顔で答えた。
 それに対して、軽く頭を下げ一旦自分の席に着いた国光はしばらく考えて、また彼女の方を向いた。
、今日は弁当か?」
「んん? そうだけど?」
「そうか。では、昼休みにちょっと外で食べないか。今日は天気が良い」
 彼の珍しい申し出に、は一瞬驚いた顔をするが、すぐに照れくさそうに微笑んで小さくうなずいた。



 昼休みになると、国光はと校庭の裏のベンチに向かった。途中、国光は飲料の自動販売機の前で足を止める。自分用にペットボトル入りの緑茶を買ってから、を振り返った。
「何か飲むか? ノートを借りた礼におごろう」
 彼がそう言うと、は笑いながら、じゃあミルクティーをと指差した。
 一年の時、こんななんでもない事ができなかったのかと、国光は思い出して内心おかしかった。
 木陰のベンチに並んで座り、弁当を広げた。
「……週末は窯か? いいものが焼けたか?」
 は週末は顧問に率いられ美術部員達と窯に行って、焼き物をする事が多いという。週明けには、その出来を聞くのが、彼の習慣になっていた。
「それがね、今回は薄い茶碗に挑戦したんだけど、やっぱり難しい。ほとんどが割れちゃって、失敗だった」
 彼女は残念そうに言った。
「そうか。やはり、難しいものは繰り返しが大切なのだろうな」
「そうなんだけどねー。なかなか上手くならないよ」
 いつものように、彼女は笑う。
「……あ、手塚くんは関東大会だったよね? 青学勝ったらしいよって聞いたけど、一回戦から強いところと当たったんでしょう? すごいね」
「ああ……」
 国光はしばらく黙って、そして箸を止めた。
 何から、どう話したら良いだろうか。
 彼はやはり、こういう事は苦手だった。
 けれど、なぜだか時間をかけても話したいと、思った。
 昨日の出来事と、これからの事を。
「青学は勝った。が、俺は負けてしまったんだ」
 国光は、そうやってゆっくりと話し始めた。
 氷帝学園の跡部景吾との一戦を。そして、彼の左腕の事を。
 おそらく、これ程、事細かに彼のテニスについてを彼女に話すのは初めてだったろう。
 いや、国光自身、自分に関してこうやって他人に話す事自体初めてだったかもしれない。いつも戦いを共有している大石達は、行動を共にしているがゆえに説明せずともわかってくれている。そういうところに甘えて、国光は自分を他者に理解してもらう努力を怠っていたのかもしれない、とふと思った。
 彼女はいつものように、彼の話に真剣にじっと耳を傾ける。
「……時々、わからなくなるな」
 昨日の試合の事を話し終え、国光はつぶやいた。
「何が?」
 は一言聞き返す。
「自分が、何のために誰と戦っているか、だ。俺は、青学を全国で優勝させたいと、何よりそれを優先させたいと思ってきた。けれど、昨日の試合の最中、肩が痛み出してからも考えていたのは、とにかく自分が負けたくないという事だった。後に控えている選手の信頼度からすれば、冷静に判断すると、俺は異常を感じた時に早々に棄権をして腕を温存した方が、部全体のためだったのかもしれない。試合を続けたのは、単なる俺の自己満足だったのかもしれない」
 昨日からたびたび頭をよぎっては、認めたくなかった事が、話をしているうちにどんどんと彼の中で大きく影を落としてきた。国光は自分がこんな思いまでを口にしてしまう事が意外だった。
 はミルクティーを一口飲んで、それをベンチに置いた。
「手塚くんは、負けず嫌いだからしょうがないよねぇ」
 国光は、そんな彼女の言葉に驚いて顔を上げる。
 負けず嫌いなどという卑近な言葉で評される事に、慣れていなかったからだ。
 しかし、それはなかなかに当たっていてやけに新鮮な気がした。
「運動部の試合なんて、負けず嫌い選手権よね。きっと、チームの人たち、みんなそんな風なんでしょう?」
 彼女はちょっと笑って、それからしばらく黙る。
「でも……怪我は、痛いから。あ、もちろん手塚くん自身が痛いのは当たり前でそれが一番大変なんだけど、周りも、きっと痛いからね。あちこち」
 そう言って、は自分の胸のあたりを拳でぎゅうっと押さえた。
「うん、そんな風に思う。私はテニスとか……スポーツの事はよくわからないから、それだけ。左腕、早くよくなるといいね。私、ノートを取るくらいだったら、いくらでもするから」
 は少しもどかしそうに言って、胸を押さえたまま国光を見た。
「腕は……必ず、治してくる。全国大会までには。実は……」
 国光はしばし言葉をつまらせ、そして続けた。
「実は、今日の夕方、治療のために九州へ出発する。おそらく全国大会まで、九州の病院で治療に専念する事になるだろう」
 彼がそう言うと、はさすがに驚いた顔で言葉もなく彼をみつめた。
「……だから、治療が終って帰ってきたら……夏休みまでの間の授業のノートを、また貸してもらえるだろうか」
 眉間にしわを寄せながら力をこめてゆっくりと言う彼の言葉を、は目を丸くしたまま聞いていた。

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2007.10.20




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